連載長編小説『滅びの唄』第二章 歌姫の声 5
水垢が付着した自動ドアの前で杉本は一つ息を吐き出した。注意して見ないと気がつかない程度しか水垢はついていないのに、杉本にはそれがはっきりと目に映った。水垢のせいでガラス張りのドアが濁って見える。その濁りの中に、蒼白とした自分の顔が浮かび上がっている。
杉本は無理に笑顔を作った。口角が不自然に吊り上がったのを見て平手で頬を打った。じーんと波打つような鈍痛が頬に赤く残った。一歩前に進むとドアが勝手に開いた。杉本は翠風荘の中に入るしかなかった。
エレベータで二階に上がると、引継ぎを終えた介護士が二名帰宅するところだった。杉本は二人と親しくはなかったが、多少の面識はあるので会釈した。二人は笑顔で応じた。
「大丈夫?」
祖母の部屋に入ると、杉本が笑顔を見せる前にそう訊かれた。昨日面会に来なかったから事情を訊かれるだろうと考えていたのに、祖母の優しい声に杉本は虚を突かれ、狼狽した。
「昨日はごめんね」
大丈夫だとはとても言えなくて、杉本はそう言った。以前祖母に指摘されたように目がとろんとしているのだろう。心なしか、額が熱を持っているように感じる。
歯切れの悪い孫の返答に、祖母は鼻で溜息を吐いた。
「忙しいんだねえ」祖母は言った。「それがわかってるから、ばあちゃんは一日くらい凌也が来なくたって何も心配はないんだけども、千鶴ちゃんがえらく心配するのよ」
「千鶴が?」
「そうよ。昨日は千鶴ちゃん日勤だったから、凌也のことしばらく待ってたの。でもあんた来ないから、その内に帰っちゃったわ」
自分を責めるような祖母の口調に杉本は矛盾を感じた。別に千鶴と待ち合わせしていたわけでもなければ二人は交際しているわけでもない。祖母の入っている施設に偶然勤める幼馴染なのだ。千鶴に待っていてくれなどと頼んでいない。だから俺が責められるのはおかしい、筋違いだ、と杉本は思った。
「今日千鶴ちゃん夜勤だから、まだいるの。後で謝っときなさい」と祖母は別にどうでもいいふうに軽い口調で言った。杉本が悪いとは思っていないのだ。
祖母の声に、杉本は肩が軽くなった気がした。うん、と頷く。そして杉本は、昨日翠風荘に来なかったことを後悔した。
「それで? 何があったの。話してごらん、聞いてあげるから」
自分は心配していないと言いながら、真剣な眼差しで、しかし包容するような優しい声で祖母が訊ねるものだから杉本は思わず笑い声を出した。
杉本は劇場撤去を中止すべきと進言したこと、現在の劇場の利用状況とそれに照らし合わせて女性の声の真相を探るべきだと申し出たこと、それで上司に罵倒されたことを話した。髙橋から罵られた時のことを話す際は、軽くなった肩が岩でも担がされているかのように重くなった。
「一度くらいは、俺の言うように劇場に出向いてくれたって良いと思わない? そこで声を聴けばわかるはずなんだ。でも俺が下っ端だからって一向に聞く耳を持たない」
「頑固ねえその上司も」
「頑固なんかじゃない。意固地なんだ。俺の言うことは絶対に聞かないって決めてるんだろうね」
もし杉本が素晴らしい企画を提案したら、高橋は「こんなものだめだ」と一蹴して、少ししてから自分の企画として発案するだろう。杉本が企画を横取りされたと訴えたところで、高橋は暴虐の限りを尽くして、杉本が手柄欲しさに喚き立てている卑劣な男とでっち上げるに違いない。
その時は、必ず企画書を日付と一緒に証拠として残しておくが。
「頑固ねえ。まあじいちゃんほどじゃないけどね」
「煙草?」
「そう。何度か言ったことがあるのよ、煙草辞めたらって」
杉本は驚いて祖母の顔を覗き込んだ。祖母はいつも祖父の側で静かに座っていて、祖父のすることには何も口出ししない人だった。昔ながらの亭主関白というか、祖母は亭主である祖父を献身的に支える、そんな妻だった。だから祖母が、祖父にとって最も大切な、それこそ体の一部と言っても過言ではなかった煙草を辞めさせようとしていたとは、まるで想像もつかなかった。
「それで、じいちゃんは何て?」
「やめるもんかって。肺に癌が見つかった時はお医者さんから煙草は禁止だって言われたのに辞めなかったし、一度辞めないってばあちゃんに言ったものだから、じいちゃん意地になって辞められなかったのかも。男性って、そういうところあるでしょ?」
杉本は首を捻った。
「俺にはこだわりがないからさ。正直、病気になってまで煙草を辞めなかったじいちゃんの気持ちは理解できない。ばあちゃんは、じいちゃんの癌が見つかってから煙草を止めなかったの?」
「もちろん止めたさ。煙草で元々悪くなってる肺に癌があるのに、煙草を続けてたらすぐに病気が悪化しちゃう。それにお医者さんにも禁止されてるんだから、もちろん止めたわ」
「それでも辞めなかった?」
祖母は頷いた。
そこまでして辞めなかったのはもはや意地ではなく病的なものだったのではないかと杉本は思った。祖父のヘヴィースモーカーぶりは依存症を超えた域だったのかもしれない。
「でもね、じいちゃんにはちゃんとした理由があったみたい」
「理由? このままじゃ病気で死んじゃうのに、それを防止するための禁煙を拒む正当な理由なんてあるのかな」
「でもばあちゃんはその理由を聞いて納得したというか……いや、納得はしてないわね。共感できるところがあったの」祖母は笑みを浮かべて孫を見据えた。「じいちゃんはね、こう言ったの。煙草は俺の人生だ、煙草を辞めて長生きするくらいなら、大好きな煙草を吸って死ねるほうがずっといい、禁煙してまで長生きしたいとは思わん。ってね」
「それで納得したの?」
「だから納得はしてないって言ったでしょう? よく医療ドラマなんかで、延命治療を施すかどうかで意見が対立してるでしょう? あれと似てると思うの。その時ばあちゃんは、この人から煙草を奪って苦しめるよりも、最後まで大好きなことをさせてあげて、人生を全うさせてあげたいなって思ったの」
つまり祖母は、延命治療は実施しないほうを選んだわけだ。それが正しいのかどうかはわからない。ただ、大切な人が悶え苦しむ姿を見たくないという気持ちはよくわかった。もし祖母が動けなくなって生死の狭間を彷徨う時、もちろん何とかして助けたい。生きてほしい。しかし一方で、延命治療のせいで苦しみが長く続くのなら、死なせてあげるという手が最善なのではないかと考えたりもする。
杉本は祖母の判断に一定の理解を示した。それにその判断は、長年祖父を献身的に支えてきた祖母にとって至極当然な判断だったように思うのだ。最後まで、祖母は祖父の意思を尊重したのだ。
「あの時じいちゃんは七十歳で平均寿命には届いてなかったけど、生き様を貫いて死ぬことを選んだ。それまではばあちゃんも長生きすることばっかり考えてたけど、じいちゃんの煙草を辞めない理由を聞いて、ああ、長生きだけが人生じゃないんだなってひどく腑に落ちたもの」
「俺にはそんな、命よりも優先できるものなんて見つかりそうにないな」
祖母は愉快そうに笑った。
「まだ凌也は二十五なんだから、これから見つければいいの。命よりも大切なものなんて早々見つかるもんじゃないんだから、仕事に疲れる日々を送っていればいつの間にかできてるわよ、命よりも優先したいものなんて」
「恋人とか?」
「それが一番わかりやすいだろうね若者には。奥さんを幸せにするっていうことも、まあ人によっては命よりも優先すべきことなのかもしれない。他にも政治家だって掲げた公約を成し遂げるのが使命でしょ? 公約を果たそうとしているかは疑問だけど、使命を果たすために生きてるわけでしょ。だから、自分の背負った使命を果たせば、人生に悔いなんて残るはずがないの。凌也の歳で使命とか生き甲斐とか、そういう命よりも大切なものを持っている人なんて滅多にいないんじゃないかしら?」
杉本は今でも交流のある友人や同僚達を数名思い浮かべた。趣味を生活の中心に据えている者が二人ほどいたけど、命よりも優先させるものかと問えば否定的な答えが返って来るだろう。学生時代の友人が結婚したという話も聞かない。
ただそんな中で、千鶴だけは別だった。彼女が介護士を志した理由は自身の祖母にあった。千鶴の祖母は、千鶴が高校生の時に亡くなった。当時千鶴は部活動に忙しく、病床に就く祖母のためになかなか時間が割けなかった。彼女の両親は共働きで、やはり満足な介護も叶わなかった。祖母が死の床に就いた時、ようやく千鶴は見舞いに行ったのだ。しかし衰弱し切った祖母の姿に目も当てられず、しまいには祖母と同じ空間にいるのが苦痛で飲み物を買いに病室を出た。そして病室に戻った時、祖母の心臓は止まっていた。近寄って目にした祖母の蒼白とした顔には涙が一筋伝っていたという。
千鶴はあの時、病室から逃げ出したことを後悔し、自分の無力さを痛感したのだ。それから間もなく学校で書かされた進路調査で、気がつけば介護職と書いていたのだ。はじめ杉本は冗談だと思った。千鶴の祖母の不幸は聞き及んでいたけど、介護のかの字すら千鶴の口から出たことはなかったのだ。しかし千鶴は本気だった。本格的に介護の道に進むため、S市を出て東京の大学に通ったのだった。
千鶴は今も祖母との最後の時間を後悔している。だから千鶴なら、自分の命よりも杉本の祖母や施設内の老人のために自分を犠牲にする可能性があった。
「まだまだこれからなんだから、のんびり見つけて行けばいいのよ。もし凌也の生き甲斐がたとえば別の職業なら、今の職場はスパッと辞めてしまえばいい。きっと今みたいに悩むことはなくなるわ」
「そうだね。別の仕事に使命感を見出せれば……」
それができればどれだけ幸福だろう。そもそも杉本が公務員を選んだのもそのこだわりのなさ故だった。だから仕事について可もなく不可もない。ただ一人の存在が杉本に憂き目を与えているのだ。
祖母は一二〇度に起こしていたベッドの頭をやや下げ、宝箱を手に取った。杉本がまだ幼い頃、いろんな包み紙に包まれたチョコレートが入っていた箱だ。まさにトレジャーハンターが追い求める最もスタンダードな宝箱の形をしていて、蓋には小さな南京錠が掛けられている。祖母は宝箱の形をしただけのただの容器を、孫からのプレゼントとして長年本物の宝箱のように愛でてくれている。
祖母は南京錠を外し、蓋を開けた。箱の中から取り出したのは鉄製の灯油ライターだった。所々漆が剥がれているが、本物の金箔で模られた龍は健在だ。昔はどうだったのかわからないが、今ではちょっと見ない品だった。ちょうど金箔の龍の辺りが窪んでいて、所々煤けている。その年季の入り方はもはや骨董品だった。
祖母はそれを孫の手に握らせた。
「珍しいライターなんだって。じいちゃんの形見」
杉本は蓋を開けて、火を点けてみた。すると火は点いた。
「まだ点くんだ」
驚いて杉本は言った。火事になっては大変なのですぐに蓋を閉めた。
「まだ灯油が残ってるみたい。じいちゃんそのライター希少品だからって、あまり使ってなかったからかな」
杉本が返そうとすると、祖母はそれを渋った。
「これは凌也にあげる。御守り。プロジェクトは始まったばっかりなんでしょう? どうしたって苦手な上司と離れられないんだから、これを持っときなさい。じいちゃんがきっと味方してくれる」
「でも、こんな大切なもの……」
「いいのよ、持ってたってどうせ使わないんだから。ばあちゃんが持ってるよりも凌也が御守りとして使ってるほうがじいちゃんも喜ぶに違いない」
「そうかな? しっかりしろって怒られそうだけど」
実際、ライターを見るとそう言われている気がした。
「それはいいじゃない。ただの御守りよりもよっぽど効果があるわ。だから持って行きなさい」
「……わかった」
ライターをしまうと、杉本は祖母のために水を一杯入れてきた。それを祖母に渡すと、杉本はビジネスバッグを握った。
「それじゃあまた明日」
「無理せず仕事頑張りなさい」
「うん、ありがとう」
手を振って祖母の部屋を出ると、ちょうど部屋の前に夕飯を運ぶ荷台が止まった。二階の部屋の分すべてがこれで運ばれるのだ。荷台はちょっとしたキャンピングカーのようになっていて、車の中は何段も仕切りがある。そこに夕飯が乗せられていた。
荷台の影から千鶴が顔を覗かせた。
「お疲れ様ー」と片手を顔の高さまで上げて言った。
「お疲れ様」と杉本も返す。
「昨日、何かあった?」
「別に、何もないよ。心配掛けて悪かったな」
千鶴はお盆を取り出しながら答えた。
「別に心配なんかしてないし」
「そうだろうな。心配する理由がないもんな」
千鶴はお盆を持って、杉本に背を向けるように反転した。祖母の部屋のドアをノックして、丁寧に開けた。
千鶴が室内に夕飯を届けに行ったので、杉本は階段を目指した。翠風荘を出ると、すでに陽は落ちていた。
6へと続く……