連載長編小説『美しき復讐の女神』16-2
アルザスの辛口が、舌に沁みた。だがその分デザートのケーキは一層甘みが増し、フランス料理に難色を示した凛も、すっかり満足していた。六本木でフレンチは凛にとっては新鮮味がないのかもしれない。だが三浜は、直前までクリスマスの雰囲気に合った店を吟味し、フランス料理を選んだのだった。
「焼肉だってよかったのよ」
「焼肉に行ったら、どうせまた焼肉? とか言われそうだったからな」
「さあ、どうかしら」
両肩を上下させる仕草を見せた三浜に対して、凛は憮然として言った。フォークとナイフを斜めに置いた凛はナプキンを口元にそっと当て、こちらを見た。店を出よう、という合図だった。
三浜は立ち上がって、凛に手を貸した。切れ長の目で三浜の手を見下ろした凛は、静かに手を取って立ち上がった。出口まで行くと、三浜はグレーのロングコートを羽織り、ヒイラギが編みこまれたマフラーを巻いた。
それを見て、トレンチコートのベルトを締めていた凛の手が止まった。視線が注がれていることに気づいた三浜は凛を見た。だが凛は、目が合うとそっぽを向くように視線を外した。
「どうかした?」
店を出て、三浜は訊いた。
「何、そのマフラー」厳めしく眉を立て、凛は言った。会った時に、凛がわずかに目を細めたのを三浜は思い出した。「手編みね、どう見ても手編みじゃない。あんた、まさか私の他に女でもいるの?」
三浜は、凛が自分の女だと自覚しているのだとわかり、嬉しくなった。有頂天になりながら、しかし普段と変わらぬ声で言った。「そんなわけないだろ」
「じゃあそのマフラーは何? 可愛らしい柄、クリスマスツリー? 女ね、こんなの女が編むものよ。それにこれ、最近のものに違いない。だって今日がクリスマスなんだから。いつもらったの? 昨日ね。それ以外に考えられないわ。こんなツリーの編まれたマフラーをもらうような女がいるなら、今日もその女と過ごせばよかったじゃない。私を口説いておきながら、別の女にうつつを抜かすなんて……汚らわしい。あんたは私が好きじゃないの? あんたも他のお客と一緒だったのね。本当に大事な人は別にいるんだわ。私なんてただのホステスよ。別にそれでも構わないわ。ただね、納得できないの。好きでもないのに、あの銀座の夜、どうして私とキスしたの? ああそう、今わかった。もうあれきり私とキスする気はなかったのね。最後のキスを、あそこでやってしまおうと思ったのね。きっとこれから別れ話。私、あんただけは違うと思ってたのに……」
「話を聞け。凛、俺は本当におまえだけだ。他に女なんていない」
「じゃあそのマフラーは何?」
振り返ってマフラーを指差した凛の目が潤んでいた。
「嫉妬してるのか」
「嫉妬? そんなわけないでしょ。私に惚れたくせに他の女からプレゼントをもらってるのが気に食わないの。嫉妬じゃないわ。屈辱的なの。ましてそれを私の前で見せびらかすなんて……汚らわしい!」
「本当だから、本当に他に女はいないんだ。この後俺達がクリスマスプレゼントを交換し合うみたいに、大学で同じことをしたんだ」淀みなく嘘が溢れた。三浜は嘘を吐くことにまるで罪悪感を抱かなかった。「その中にこのマフラーがあったんだよ。俺、マフラー持ってなかったし、今日は寒いし、ちょうど勝手が良かったんだ。浮気なんてするわけないだろ」
「だったら私がマフラー買って差し上げる。そんなマフラー今すぐ捨ててしまいなさい」
「何もそこまですることはないだろ」凛と明奈に挟まれて、なぜ明奈の肩を持つのか自分でもわからなかった。「でも凛の気持ちはわかったから、もうこれは取るよ。凛の前ではつけないから、捨てるまでしなくていいだろ? このマフラー、作ってくれた人の気持ちがこもってるんだから」
「わかればいいの。二度と私の前にそれを持ち出さないで」
三浜は寒さに震えながらロングコートのポケットにマフラーをしまい込んだ。マフラーをしまっている三浜に凛が体を密着させた。
「仲直りしましょう。私もちょっと言い過ぎたわ。マフラー一つで……。でも、女はそういうのすごく気にするの」
三浜は凛の冷たい手を握り、マフラーをしまったのとは反対側のポケットに一緒に手を入れた。凛はもう一方の手も三浜の腕に巻き付けた。肘が、凛の豊満な胸に包まれた。
「イルミネーションの下で、ちょっとゆっくりしよう。そこでプレゼント交換しようか」
「もうイルミネーションはいい。あなたとはこの前見たわ」
「でもその時とは違うものだ」
「どこも大して変わらないわ。街中イルミネーションなんだから、歩いてればいつでも見れるじゃない」凛は立ち止って、指差した。「おっ、あれいいじゃない。ねえ、あれやろう」
凛が指差したのは赤坂のスケートリンクだった。大人から子供まで、多くの人が氷上を軽やかに滑っていた。スケートなんてしたらオマール海老やカニがアルザスの白ワイン漬けになって胃から押し出されると三浜は思った。三浜は昔スケートリンクに立ったことがあるが、その時はバランスを取るのに精一杯だった。意図せず不規則に滑る氷上で、あたふたとバランスを保つ運動はかなり激しいものだ。
三浜が黙っていると、凛が三浜の腕を引っ張って行った。
「今日は二人で静かに過ごさないか」慌てて三浜は言った。
「ちょっとくらいいいでしょ」
「人混みはあまり好きじゃないんだ」
「じゃあ一人で待ってて。私一人で滑って来るから。でも私の顔見て? きっと若い男に声を掛けられる。スケートリンクなんて、一人で滑ってる女を狙う男ばっかりよ」
三浜は苦笑した。
「そんなこと滅多にないよ」
そう言いながら、内心不安ではあった。凛の美貌に魅了されない男はいない。リンクにはカップルも大勢いたが、確かに周囲を見回しながら一人で滑っている若者もいた。
「リョーヴィンか、ヴロンスキーか、どっちが私を見つけてくれるかしら」
「凛に声を掛けて来る男がいたら、それはヴロンスキーだ」
「その男と私は結ばれないの?」
「凛がキチイならね」
「じゃああなたがリョーヴィンになるの?」
「農作業はごめんだけど」
「ふふ、でもリョーヴィンなら、一度ヴロンスキーに苦しめられないと」
「それもごめんだな。護衛するとしようか」
三浜は凛と一緒にスケート靴を履いた。ツルツルの氷上をもろともせず泳ぐように滑る凛に対して、三浜はいつかと同じくバランスを取るのに精一杯だった。まさかスケートをするなんて考えもしなかった。もしわかっていたなら、何度か練習して凛を華麗にエスコートして見せたのに。
三浜はすいすい滑る凛を呼び止め、逆に凛からエスコートを受けた。
「こんなにみっともない人がいるかしら」三浜の手を引きながら、凛は馬鹿にするように笑った。「腰が引けてるからうまく立てないのよ。ちゃんと腰立てて、滑るのはそれからよ」
三浜は言われた通りにしたが、バランスを取ろうとするとどうしても腰が引けてしまった。凛はまた嘲笑を飛ばした。
「怖さが勝つんだ」
「転ぶと痛いわよ」
「子供が器用に滑ってるんだ。転べるか」
「その意気ね。私は一周ぐるっと滑って来るから、それまでにそのへっぴり腰矯正してね」
そう言うと、凛は颯爽と滑って行った。無情な女め、と三浜は微笑ましく毒づいた。靡くトレンチコートを遠目に眺めながら、重心を低くしてバランスを保った。だがどうしても腰を立てることはできなかった。腰が引けて体重が中心に向かわないから、氷の上でじりじりと足元が滑る。どうしようもない絶望感に思わず泣きそうになった。
二分ほどで凛は帰って来た。前回驚かされた乗馬も、今回のスケートも、凛は見事にこなす。セイレーンで接客している時よりも、こうして外で体を動かしている時のほうが、凛が輝いているように三浜には見えた。
「ちょっと」風に乱された艶やかな黒髪を掻き分けて凛は言った。「まだそんな状態なの? リョーヴィンはスケートの達人よ」
「俺はリョーヴィンじゃないからな」
「じゃあヴロンスキー?」
「かもな。でもそうなら、凛はアンナになってしまう」
一拍奇妙な間が空いて、凛は言った。「まあ、光栄ね。主人公だなんて」
見上げた凛は切れ長の目を刹那俯かせた。
「光栄か? 凛がアンナなら、待つのは悲劇だ」
「あなたもじゃない。ヴロンスキーに待つのも悲劇よ。ところであんた、いつか銃で自殺未遂でもしたの?」
三浜は生まれたての小鹿みたいに足を震わせながら笑った。もうふくらはぎがパンパンだった。乳酸を数値化したらとんでもない値が計測されるに違いない。
「するわけないだろ」
「じゃあヴロンスキーでもないわ」
ようやく直立すると、三浜はリンクに沿って設置された壁に、脇で壁を抱えるようにして身を任せた。想像以上に息が上がっていた。
「当然だ。俺は三浜浩介だからな。凛もアンナじゃない。凛はアンナと違って潔白で何の罪もない人間だから」
凛はふと表情を曇らせた。「そう……」と呟くと、またリンクを一周した。戻って来た凛は、一番近い出口からリンクを出た。
「やっぱり気持ちいいね。こうして体を動かすのは」
「俺は懲り懲りだ。もう歩きたくもない」
「じゃあ私一人で帰るわ。朝までここにいなさい」
「ひどい女だよ、まったく。こうも振り回されちゃ、俺はカレーニンだな」
凛は三浜に背を向け、「そうかもね」と呟いた。
三浜はすぐに凛の腕を掴んだ。本当に置き去りにされると思った。三浜はひどく熱を持ったふくらはぎに鞭を打ち、一歩ずつ前進した。
「もうこの話はよそう。キリがないから。でもちょっと待ってくれ。そしたら歩けるから」
「向こうのベンチに行こうと思って。あそこならイルミネーションがよく見えるわ」
三浜にはもはや笑う体力も気力もなかった。こんなに体に負荷が掛かったのはいつ以来だろう。久しぶりの運動は予想以上に応えた。
「イルミネーションはもういいんじゃないのか」
「どうせベンチで休むんだから、殺風景な場所よりイルミネーションがあるほうがいいに決まってるじゃない」
三浜は言われるがままベンチに腰を下ろした。
「何か飲み物買って来て」
「足が限界なんだ。金なら渡すから、凛行ってくれないか」
「私に買いに行かすの? キャバクラに通って、高級品貢いで、食事は全部あなたが支払って、そんな前時代的な男なのに?」
「前時代的に生きてるつもりはないんだけどな。凛だけだよ。こうして何もかも請け負うのは。それだけ凛が大事なんだよ」
「なら飲み物買って来てくれる? 体が冷えるの」
「今日だけは勘弁してくれ」
凛は立ち上がった。
「じゃあ別の男に頼むわ」
三浜は呆れて溜息が出そうになった。しかし気づけば立ち上がっていた。凛から声を掛けられたら、その男はいい気になってしまうに決まっている。凛なら本当に声を掛けてしまうかもしれない、そう思った三浜は自販機でココアを買った。自分の分は、ブラックの缶コーヒーにした。
アルザスが舌の上にピリピリと残っていたが、ブラックを口にするとそれは消えた。強い苦みが、喉に快楽を与えてくれた。
「動けるじゃない」凛はココアで手元を温めながら言った。「弱音を吐く男は嫌い」
「底力だよ。さっきのは弱音じゃない。本音だ」
「女の横で動けなくなる男なんて、存在価値ある? 最後まで気力振り絞りなさいよ。好きな女のためなら何だってできるでしょ」
「……限界はあるよ」
しかしそう言いながら、全身を襲い来る疲労感が嫌ではなかった。勝手なことを言う凛だが、その横顔は喜んでくれているようだった。胸を締め付けるほどに美しい、その華やかな横顔に三浜は満たされるのだ。
話題を変えるために、三浜はプレゼントを取り出した。縦長の白い箱を開け、凛に見せた。凛はそれを見て、ぎょっとしたように三浜に目をやった。そして、じわじわっと口元に微笑を浮かべた。
「ティファニーのネックレスじゃない」
「凛はジュエリー好まないんだろうけど、せっかくのクリスマスだしこういうのがいいかなって」
「ねえ、つけて」
三浜は当然頷くと、ネックレスを手に取って凛の項に手を回した。持ち上げられた黒髪と妖艶な鎖骨からは甘い香りが漂って来た。できることなら、手を項に回した今の状態で永遠に居続けたいと思った。
「綺麗ね。これはルビー?」
「ダイヤモンドにしようかと思ったんだけど、凛にはやっぱり赤だと思って」
「そう。気に入ったわ」
続いて凛がプレゼントを取り出した。三浜は元々イルミネーションの下でティファニーを渡そうと考えていたのだが、もしかしたら凛のほうから食事の後にでも切り出されるのかと考えていた。だが凛はそんな素振りを見せず、スケートへと向かってしまったから、プレゼント交換の約束など忘れてしまっているのではないかと思っていた。
だが、ちゃんと用意して来てくれたみたいだ。三浜は長方形の箱を見つめて、凛がいったい何を用意してくれたのかが気になった。まさか指輪だろうか、などと考えると愉快だった。
凛が開けた箱には腕時計が入っていた。凛は小さく微笑むと、三浜の左手首にベルトを巻いた。
「オメガじゃないか……」
三浜は驚嘆した。少なく見積もって、二十万は下らないだろう。金額を気にするつもりはないが、まさか凛がこんなに高価なものを用意してくれているとは思いもしなかったのだ。
「あなたと比べられると貧相なプレゼントよ。一ホステスに用意できるものなんてこれくらいのものよ」
「こんなの俺にはもったいない」
「こんなネックレス買って来て何を言うの? でも、喜んでくれたみたいでよかった」
凛はルビーに触れながら、囁くほどの声で言った。
「まだ学生なのにこんなものを……」
「やましいことは何もないから、安心して」
「わかってる。玲華さんから聞いたから。あなたにもいろいろあるのね」凛はネックレスから手を離すと、夜空を見上げた。「事情を知って全部納得できた。セイレーンに頻繁に来れるのも、ブランド品を次から次に買えるのも」
「凛といる時だけ、俺は心が満たされるんだ」
三浜は凛と同じように夜空を見上げた。だがイルミネーションが眩しく、星は一つも見つけることができなかった。視線を落とし、凛を見た。凛はまだ空を見上げていて、三浜の声は聞こえていないようだった。静かに、淑やかに、冬の朝に霜が降りた薔薇のように美しく、凛は首元の宝石に手を添えていた。
首に掛けられたティファニーは、凛によく似合った。胸元に輝くルビーが、凛の鎖骨に更なる色気を与えていた。グルーズに肖像画を描かせたら傑作になったであろう凛の清廉な佇まいに、三浜はただ恍惚とするばかりだった。三浜は凛にそっと近寄り、肩を抱いた。
17へと続く……