連載長編小説『別嬪の幻術』2-1
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東大路をそのまま北大路まで自転車で上り、少し西に入って下鴨本通から北上を再開した。糺の森が、見えそうで見えない。行き先は、昼間風見に教わった乗金宝商だった。北山通に出ると、北山橋に向かって走り始める。
府立植物園の入場門を過ぎたところの信号を渡った。ちょうど植物園の出入り口と向かい合ったところに、乗金宝商はあった。北山は京都の一等地で、立ち並ぶ邸宅は敷地が広い。おまけに白緑水色といった外壁が目立ち、古都の雰囲気とは一線を画している。北山通沿いにはレストランやアパレル店、パン屋など様々な店が軒を並べていて、いずれも邸宅と同じようにカラフルで小洒落た印象を受ける。それでもどこか趣を感じるのは、やや不衛生にも見える古びた植物園と北山通沿いに植えられた銀杏並木のおかげだ。
その中にあって、乗金宝商はクラシカルな外観をしていた。宝石店といえば白、あるいはブラウン系の店舗を連想するのだが、乗金宝商は暗い藍色の外壁だった。北山通ではむしろ目立つ外観かもしれない。しかしどんと構えたその雰囲気は、どこか厳かでもある。まるで教会にでも入るような心持で、僕は店のドアを開けた。
店に入ると、砂利を踏む車の騒音が消え、歩道を歩く人の足音が消え、風に揺れる銀杏の葉の音が消えた。BGⅯも掛かっていない。声を出すのが憚られるような空間は、むしろ空気が淀んでいるのではないかと思うほどの静謐さだ。外観同様店内もクラシカルで、絨毯は赤茶色、内装は外壁と同じ暗い藍色か、やや紫がかった青……ジュエリーの保管されるショーケースは粛々とライトに照らされ、浮かび上がっているかのようだった。その光のせいで、内装の色を正確に識別することができない。
足音一つが、鼓膜に反響する。紫紺のテーラードジャケットを羽織った店員が現れ、いらっしゃいませと僕に言う。その一瞬で、品定めされたと僕は直感した。軽くお辞儀した際、店員は僕の身なりを見た。大学から直接やって来た。古着屋で買ったシャツとズボンというコーデだ。人当たりの良い笑顔は変わらないが、目の奥の光が消えている。捉えた獲物に満足していないハブのように。
何をお探しかと問われたので、恋人へのプレゼントになるアクセサリーと答えた。予算を伝えると、店員は目の色を変えた。まるで獲物の腹を開くと意外と脂肪が詰まっていた時のハブのように。
店員は、さらに恋人について訊いて来た。身長、体格、雰囲気、血液型や星座、そして誕生日……。それらの情報から、予算ぎりぎりのジュエリーを矢継ぎ早に紹介してくる。口も達者で、どれも魅力的に思えてくる。僕が少しでも反応すると、その商品を深掘りして解説し、最後には必ず「彼女さん、喜ばれると思いますよ」とやや関西弁交じりの標準語で言ってくる。もはや、一万円とかでもいいんです、とは言えない状況になっていた。
話し過ぎて喉が乾燥したのか、店員は「失礼」と言って咳をした。今度はジュエリーではなく宝石類の説明に移ろうとしたが、堰を切ったように、咳が止まらなくなった。僕が心配していると、奥から臙脂色のテーラードジャケットを着た大男が現れて、僕同様店員を心配した。いや、大男というには身長が低かった。上背は僕よりやや高いくらいで、百八十センチはないだろう。ただ巨漢と言っていい横腹は見事なもので、たっぷりとこさえた口髭も迫力がある。ただ、店員に社長と呼ばれた巨漢は肌が白く、少しだけ親近感が湧いた。彼が乗金久雄のようだ。
「大丈夫ですか」と僕は訊き、ただ咽ただけなのかを確認した。店員は問題ないと言ったが少し辛そうだった。「喉、イガイガします?」と訊くと店員は少し、と頷いたので、漢方を飲むことを勧めた。まだまだ暑いが、季節の変わり目に差し掛かっている。風邪や扁桃炎に罹る人が増えてくる季節だ。扁桃炎には、白花斜干の生薬が効果的だ。
店員は一度バックヤードに下がり、すぐに出て来た。水分補給したのかもしれない。その間、僕は古都大学の薬学部生であることを乗金に話していた。誰かの紹介かと訊かれたので風見のことを話すと、「やと思いましたわ」と乗金は笑った。風見が乗金宝商を訪ねたのは、意外と最近のことなのかもしれない。
乗金も、話していると時々息が詰まったようになった。それについて訊くと、心臓が弱く、ペースメーカーをつけているのだと話した。なるほど、巨漢でやや目立たなくなっているが、臙脂のジャケットは左胸の辺りで一部盛り上がっている箇所がある。
紫紺のジャケットの店員は店に戻るとすぐに説明を再開しようとした。だが僕はそれを制し、店員が水分補給を行っている間に目についたジュエリーについて訊いた。それはかなり大きな砂金の塊を宝石代わりにしたネックレスで、輪っかにも宝石が散りばめられているものだった。値段は予算を大きく超え、三百万円以上するのは値札を見てすぐにわかったのだが、あまり見ないものなので気になった。
やはり、輪っかの部分にはダイヤモンドが散りばめられていると店員は話した。だが無駄話を嫌うタイプなのか、すぐに話を戻そうとした。「お買い上げになりますか」と訊いて来たのは乗金のほうだった。僕はさすがに恐縮して、体の前で手を振った。
「気になっただけです」と申し訳なく思いながら言うと、「値札が三万に見えはったんでしょう」と乗金は和やかな笑いに変えてくれた。
ただ、そこからドツボに嵌ってしまった。乗金が「たとえばその砂金のネックレスが四万、五万くらいやったらお買い上げいただけましたか?」と訊いてきて、それを否定しなかったせいだ。結局僕は、予算を一万円超える四万円のブレスレットを購入していた。千代の誕生石であるオパールとトルマリン両方に飾られたブレスレットだ。
「彼女さん喜びますよ」という一言はずるい。罪だ。
おおきに、という乗金に見送られて、僕は店を出た。血迷ったかな、と少し後悔したのは加茂街道に沿って走り、追い風を受けている時だった。千代が喜ぶならそれでいい。そう思うことにした。
2-2へと続く……