連載長編小説『滅びの唄』第五章 支柱 1
第五章 支柱
茜色を背に受けて、そこだけぽっかり穴が空いたかのように思わせる珠里の全身のシルエットを見て、杉本は安堵した。
祠から這い出た珠里の顔が斜陽に照らし出された時、明るく輝く珠里の頬に得も言われぬ神々しさを感じた。
「よかった……」
杉本は噛みしめて言った。
今日の昼間、杉本は建設会社の調査に立ち合おうと思っていた。むろんプロジェクトチームの一員としてその権利はあるだろうし、何より珠里のことが心配だった。しかし杉本が調査に立ち合うことを高橋が許さなかった。
調査チームが派遣されることは伝えていたし、今日は祠から出ないよう言い聞かせていたが、珠里はいつ歌い出すかはまったく読めない。なぜなら珠里は、両親の望んだ時に歌を歌うことが殆どだからだ。たとえ珠里が祠の奥深くで歌を捧げたとしても、彼女の声は超人的に通る。その甲高い声は、当然調査チームの耳に届く。だから日中、杉本は気が気でなく、とても仕事が手につかなかった。ようやく長かった一日が終わり、劇場を訪れた杉本だったが、珠里の姿はもちろん、歌声も響いていなかった。森閑とする劇場の異様さに、杉本はまさか珠里が調査チームに発見され、どこかへ連れ去られてしまったのではないかと思い、肝を冷やした。しかし珠里は、まるで惚けているかのように微笑み、杉本を見返す。
「どうしたの、そんな顔して。あれ? ちょっと細くなってない?」
杉本は思わず珠里を抱きしめたくなった。しかしその願望をぐっとこらえて微笑み返した。
「今日の昼間、ここに人が来ただろう? 珠里、ちゃんと隠れてたか?」
「もちろん。リョウヤに言われたからね。ちょっと歌って脅かそうかと思ったけど、やめた。何か、本当に怖がられて逃げ帰られたらショックだし」
「うん、それでよかったんだ」
陽が落ちて辺りが暗くなり始めた時、杉本は珠里に叔母の話をした。和泉真梨は今週末、金曜日の夜中に日本に帰国する予定らしい。翌日から早速コンサートの支度であまり時間が取れないため、杉本は入国直後の金曜夜に和泉真梨と会うことにした。
「会うのは良いんだけど、私叔母さんのことよく覚えてないし、どんな人かわからないから、別に会いたいとは思わない」
和泉真梨には珠里の生存を打ち明けるつもりでいたが、今になって迷い始めている自分がいた。そして珠里のこの言葉が、杉本の迷いに拍車を掛けた。珠里生存を話すかどうかは、和泉真梨と実際に会ってから決める。
翌日も杉本は調査に立ち合うことを許されなかった。早々に諦めてはいたが、一応高橋に許可を得ようとはした。昨日がだめで今日がいいはずはなかった。特にしつこく願い出たわけでもないのに、高橋には「何度も言わせるな!」と怒号を飛ばされた。そのせいで定時に仕事を切り上げるまで杉本はずっと憂鬱な気分だった。しかし劇場に着くのと同時に聴こえて来た珠里の歌声で、心は安らいだ。
調査は二日間行われたが、歌声の主が発見されることはなかった。杉本はひどく安堵し、それからの一週間がひどく早く感じられた。
今朝には前原から連絡があり、再来週には重機を運び込む予定らしく、高橋はそれを聞いてすこぶる上機嫌になった。しかしそれも、もうずっと昔のことだ。すでに陽は落ち、杉本は若干の眠気を感じていた。
空港内のカフェからはガラス越しに滑走路が見え、月夜の闇の中から差し込む飛行機のヘッドライトが眩しい。杉本はもう一時間半くらい同じ席に座っている。ブラック・コーヒーもすでに三杯目がなくなろうとしていた。和泉真梨の帰国が金曜日でなければ、今頃とっくに帰っていただろう。今日はもう、近くのビジネスホテルに泊まるしかなさそうだ。
数分が経ち、ブラックを鼻に近づけていると、遠くの夜空から少しずつ黄色い点が大きくなって近づいて来るのがわかった。その黄色い点は徐々に大きくなり、高度を下げながら、やがて二つに割れた。車体から車輪が出、両翼の角度が変わるのが闇の中でもわかった。車輪はほんのわずかに跳ね、静かに滑走路で止まった。あの飛行機に和泉真梨が搭乗しているはずだ。
立ち上がると、杉本は夕方珠里に送り出された時のことを思い出した。いつもより短い時間を共有した後、空港に向かうことを伝えると、珠里は笑って「いってらっしゃい」と言ったのだ。その時ふと珠里が妻になった気がして、足の先から力が漲って来た。それを思い出した杉本は、眠気を完全に忘れられた。
国際線の搭乗口で杉本は和泉真梨を待った。まもなく、赤いスーツケースを引く和泉真梨らしき人物を認めた。杉本は名刺を取り出しながら彼女に近づいた。
言葉を交わす前にサングラス越しの彼女と目が合った。どうやら向こうも自分に向かって歩いてくる男を認め、取材を申し込んだ男らしいことを悟ったようだ。が、二人が挨拶を交わす前に、思わぬ横槍が入った。杉本の目の前には和泉真梨の顔ではなく、中年と思われる女性の肉付きのいい背中が割り込んだ。
「真梨お帰りー。スーツケース預かるね、もう車はいつでも出せるし、夕飯はどうしよっか、半年ぶりの日本で何が食べたい? やっぱりお寿司? ――」
小太りの女性はすぐ後ろに立って困惑する杉本などお構いなしに、矢継ぎ早に質問を浴びせる。帰国直後の女性にひたすら話し続ける小太りの女性、そしてそのすぐ後ろに黙って立つ二十五の男――空港に立つ今の自分を客観視すると、穴があったら入りたいほどの恥じらいを感じた。
しかしながら、この小太りの女性のおかげで搭乗ゲートから出てきたこの女性が和泉真梨であることは確信できた。
「カヨ、後ろ見て」
カヨと呼ばれた小太りの女性はこちらを振り返り、急に低い声になって驚いた。杉本は冷静にカヨが振り返るのを見ていたが、外見からは想像できないほどの素早さで肩を怒らせたせいで、杉本も釣られて驚いたみたいになってしまった。
「何ですかあなたは?」
「和泉真梨さんとお会いする約束をしている者です」
「やはりあなたが杉本さんですね」
和泉真梨はサングラスを外した。今年で四十二歳だそうだが、張りのある肌がその年齢を感じさせない。音楽家として世界各国を飛び回っているためか、さっきこっちに歩いて来た動き一つ見てもパワフルで若々しさを感じた。珠里とは、外見はあまり似ていない印象を受けた。珠里よりも髪が長いせいだろうか。
「和泉真梨です。よろしく」
「よろしくお願いします」
杉本が何者なのか、まだ理解できないカヨのために和泉真梨が事情を説明した。それでようやく納得したカヨは急に愛想がよくなり、杉本に自己紹介した。佳代は、和泉真梨が帰国する時に決まって迎えにやって来るそうだ。佳代は和泉真梨の学生時代の親友であり、また同時に誰よりも和泉真梨のファンであることを自負しているそうだ。
そんな佳代の話を止めどなく聞かされながら、杉本と和泉真梨は空港内のファストフード店に入った。なぜか佳代もついて来た。
「二十年前――」注文した料理が運ばれると和泉真梨は徐に口を開いた。「あの火災のあった時、ちょっと嫌な予感がしてたのよね」
「嫌な予感、ですか?」
「ええ、まさか当たっちゃうとは思わなかったけど……」
「その嫌な予感というのは、何ですか?」
まさか森岡鉄平の不倫を知っていたのだろうか。そう思った杉本だったが、和泉真梨はまるで違うことを言った。
「説明なんてできない。胸がもやもやっとした、ただそれだけが予感めいていたの。でも何となくそういう気持ちになったのはわけがある。それは確か。あの頃森岡家は、かなりまずい状況だった。経済的にね」
「経済的にまずい状況、ですか……」そう口にして、杉本はあることに思い当たった。「そういえば、別の方から聞いた話に真弓さんがパートに出ていたことを聞きました。それはやはり、その経済的な事情が関係していたんでしょうか」
「普通に考えればそうでしょうね」
「普通に考えれば?」
「姉がパートに出ていたことは知ってたけど、その理由までは聞いてないから。家計が苦しくて、それでパートに出た。当時の森岡家の状況から考えて、それ以外の理由はないと思う」
和泉真梨はハンバーガーを豪快に食べ、咀嚼が終わるとコーラを飲んだ。和泉真梨はロサンゼルスから日本に帰国したばかりなのだが、アメリカでも食べていたであろう食事を帰国直後にも選択して、飽きないのだろうか。あるいはアメリカではハンバーガーを食べない生活をしていたのか、それかアメリカでの生活が抜け切らないのか。杉本は和泉真梨の食事にただただ不思議な気持ちになった。
「その……森岡家が経済的に苦しくなった理由は何かご存知ですか?」
レタスを唇の上で躍らせながら、和泉真梨は頷いた。
「バブルが弾けて、そのせいでね」コーラを飲み、和泉真梨は続けた。「珠里が生まれる前から鉄平さんは不動産売買をしていて、バブル景気で大儲けしたの。でも珠里が生まれて二年くらい経った頃にバブルが弾けて、その時鉄平さん、……いくつ物件持ってたんだろう? とにかく、かなり不動産を持っていて、それで価値が大暴落して、とても返せるような額じゃない借金が残った。つまり鉄平さんが不動産業に失敗して、森岡家は借金生活に入った」
「バブル崩壊ですか……」
杉本が物心つく以前の話のため、バブル崩壊についてはあまり詳しく知らない。しかし森岡鉄平のように値上がりした不動産を購入し、売却する前に価値が下落して、手元には多額の借金だけが残ったという話は何度か耳にしたことがあった。
森岡鉄平は運が悪かった――当時の詳しい事情を知らない杉本は、その一言で片付けるしか方法がなかった。
「そうやって失敗した人、バブルの時は大勢いたからね」
ポテトをつまんでいた佳代が言った。和泉真梨はそれに小さく頷いていた。
「かなり困窮してたみたいだし、姉がパートに出たのも不思議じゃない。珠里の音楽の才能に目をつけてステージに上げたっていうのは、それも森岡家の困窮を物語っていると思うの。借金の額、姉から実際に聞いたことはないから正確にはわからないけど、でも返済なんて気が遠くなるような額だったと思う。珠里の才能が世間に認知されて、でも借金返済のためにコンサートを開くっていうのは、姉も鉄平さんも心苦しいところがあったんじゃないかな」
「それで、嫌な予感がしたんですね」
「本当に何となくだったんだけどね……。でもかなり強かったのよ、その嫌な予感が。何だかわからない胸のもやもやが」
「和泉さんは、それでどうされたんですか? コンサートを止めるよう言ったりはしなかったんですか」
「そんなの言えない。珠里のコンサートは、あの時森岡家にとって一番の収入源だったはずだから。少しずつ返済の目処が立ち始めた時に、根拠のない予感だけで水を差すわけにはいかないでしょ?」
「それは……何と答えていいのかわかりません」
和泉真梨の気持ちは十分理解できるものだった。確固たる証拠があれば話は早い。その嫌な予感の証拠が存在すれば、森岡夫妻はS市での珠里のコンサートを中止したはずだ。しかし結果だけを見れば、あの時和泉真梨がコンサートをやめさせていれば、あの火災は起きなかったはずだ。
杉本には、到底結論など出せるはずがなかった。
「でも、何もしなかったわけじゃないの。あの火災のあった日、どうしても嫌な予感がして、親しかった人にS市に足を運んでもらったの。どうしても外せない試験があったから、あたしの代わりに……」
「火災を知ったのは、いつだったんですか」
「夜、学生オケの稽古が終わった時、たしか九時頃だったかな。あの時は演奏会が近くて、かなり遅くまで練習してた記憶がある」
「こんなことを訊くのは失礼かもしれませんが、後悔はしておられますか」
「もちろん」和泉真梨ははっきりと言った。「あたしの嫌な予感が当たるなんて誰にもわからなかったけど、でもあの時あたしが止めておけば、姉も珠里も命を落とすことはなかった。鉄平さんは借金が相当苦しかったんだろうけど、何も死ぬことはなかったのに」
杉本は一瞬耳を疑った。和泉真梨の今の言葉を耳の中で繰り返し、やはり首を傾げた。
「森岡鉄平さんが、自分で火を放ったと?」
確かに当時の警察と消防の調べでは出火原因は人為的なものと断定された。しかし実際に火を放った人物が誰であるかは一切詳細がわかっていない。和泉真梨の話を聞く以上、森岡鉄平が一家心中を試みた可能性は極めて高いが、森岡鉄平が火を放ったと断定できる証拠がない。
今度は和泉真梨が首を傾げた。
「違うの?」
「いや……わからないです。正確な情報がないので僕の口からは何とも言えません」
「まあ、みんな死んでしまって、今更誰が火を点けたかなんて探す意味もないと思うけど、せめて珠里だけでも救ってあげたかった。舞台裏から出火したなら、鉄平さんと姉はすぐに焔に呑まれたかもしれないけど、ステージにいた珠里だけは助かったかもしれない。あたしが劇場にいれば、きっと助けた。きっと姉に代わって珠里を育てた。一人の女性として、それから一人の音楽家として」
杉本は、和泉真梨の話にずっと相槌を打っていた。すべて彼女の言う通りだと思った。コンサートを中止させることができなかったにしろ、現場に和泉真梨がいて、彼女の言うように珠里を救い出すことができていたなら、珠里は今頃世界で活躍する歌手として華々しい人生を送っていただろう。それだけは、断言できた。
そして、和泉真梨が珠里の生存を知らないことを確信した。和泉真梨なら珠里のことを伝えても暖かく接してくれるだろう。だがこの場には佳代がいる。そして珠里は、突然目の前に叔母が現れた時、頭が混乱してしまわないだろうか。
杉本は、珠里の生存を伝えるのはもう少し後のほうがいいような気がした。
「ちょっと不愉快に思われるかもしれないんですけど」と杉本は言った。「森岡鉄平さんが不倫していたという話を聞いたんですが、心当たりはありますか?」
「はあ?」と和泉真梨は珠里の歌声に似た裏声で言った。「不倫? そんなの聞いたこともない。鉄平さんが? ちょっと信じられないけど、借金生活に不倫までされて、それで最後に焔に呑まれて死んだなんて……姉があまりに忍びない。それが事実なら、あたしは鉄平さんを赦せない」
自分から質問しておきながら杉本は何も言えなかった。しばらく、重い静寂が流れた。
「そういえば昔」静寂を破ったのは佳代だった。「真梨も変な男と付き合ってたよね」
この雰囲気でよくそんなことが言えるなと杉本は思った。和泉真梨が怒りはしないかと思い、内心怯え切っていたが、むしろ和泉真梨は自嘲気味に笑っていた。
「確かに変な男と付き合ったこともあったかもね」
「真梨と同じで、亡くなったお姉さんも男運がなかったのね」
「あたしまで男運がないみたいに言わないで」
「四十過ぎても独身なんて、男運がないとしか言えないじゃない。結婚願望がないならまだしも、真梨は昔から結婚願望強かったのに」
散々皮肉った後で、佳代は左手の薬指をこれ見よがしに和泉真梨に突き付けた。杉本は佳代にもう少し空気を呼んでもらいたかった。
やはり入店する時に断っておくべきだったか、と少し後悔した。
2へと続く……