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連載長編小説『滅びの唄』第三章 教団清樹 6

 例年より早く下ろされた梅雨の簾は途切れることなく地面に降りしきり、杉本の視界をぼんやりと遮る。足を止めると、傘に跳ねる雨粒の音が騒がしくなった。
 最近では休日にしか訪ねることができなくなっている翠風荘に向かう途中である。太平洋側に停滞する梅雨前線の影響で、杉本は珠里のことを一層気に掛けていた。劇場の背後に聳える山が土砂崩れしないとも限らない。もしそういった自然災害が起これば、珠里に逃げ場はないのだ。
 足を止めたのは、思いがけない人物と遭遇したからだ。最後に会って以来特に連絡も取り合っていなかったため、ずいぶん久しぶりな気がした。杉本は梅雨の簾を持ち上げながら、ちょうど車に乗り込もうとする枝野に声を掛けた。
 枝野はジーンズに黒の長袖シャツという出で立ちだった。これから出掛けるようだ、と杉本は思った。しかし振り返った枝野に近寄って、車内に一瞥をやった杉本は助手席に深い黒のジャケットが置かれていることを訝った。枝野は昔から、休日にはラフな格好をしていた。それはどこかへ出掛ける時も同様で、しかし唯一例外なのが恋人と遠出する時だった。そのわかりやくも些細な変化に杉本は気がついたのだ。
「どこまで出掛けるんだ?」
 枝野には交際している女性がいる。シャツ一枚でも蒸し暑いというのに、薄手ではあるけどジャケットを持参するなんて、その恋人との遠出以外に考えられない。
「静岡まで」
「静岡か……車だと綺麗な海辺を走っていけたんだろうが、今日の天気はあいにくだったな」
「曇り空の海でも構わない。少々荒れた波だって、その時その時の感情があるんだろうし、それを感じながら走るのも悪くないだろう」
「荒れた波の感情だって?」
 枝野らしくない言葉に杉本は思わず冷笑を帯びた。しかしどこか気が滅入ったかのようにぎこちなく笑い返す枝野に、杉本の冷笑は凍笑に変わってしまった。頬に引きつった口角が凝固して動かない。
「静岡まで何をしに?」
 杉本は声を張った。普段のような声量では地面を穿つほどの雨量に掻き消されてしまうのだ。こんな日に茶摘みに行くことはないだろう、ただのドライブにしても、これでは景色が楽しめない、中止するのが普通だ。では餃子を食べるためだけに静岡に向かうというのだろうか。
 枝野の返答はまったく予期しないものだった。
「コンサートに行くんだ。この前凌也も行っただろう、教祖様のコンサートに。それが今度浜松であるんだ。平日は仕事で遠征できないけど、土日なら行ける。道中綺麗な眺めを楽しめないのは残念だが、俺が求めるのは教祖様の音だ。凌也はまだ知らないだろう、教祖様のオルガンを、あの神秘の調べを」
 杉本は唖然としたまま訊いた。
「教祖様って、高瀧……のこと?」
「他に誰がいる? 俺の心を安らぎ、やり場のない不安を包容してくれる方が、他にどこにいる?」
 杉本は一歩後ずさった。瞬きも忘れ、ゆっくりと二度かぶりを振った。
 呪われている――人間に対して、杉本は初めてそう感じた。長年語られた珠里の歌声の伝説に触れた時も、その声の正体を知り得た時も、呪いなど感じなかったというのに。今目の前で淡々と話す友人が呪われていた。
「いったいどうしたんだよ」
 本音が口を衝いて出た。二人で高瀧のコンサートに参加した時、枝野は杉本と一緒に信者達を嘲っていたではないか。高瀧のことを胡散臭いと一蹴したではないか。なのに今の枝野は、その愚かな信者達の内輪にいる。同胞である。だからこそ、杉本の口調は無意識の内に友を責めていた。
「教祖様が、沈む俺の心を救ってくださった。そのおかげで俺は立ち直ることができた。傷ついた心を入れ替えて、人間としてもう一度自然に目を向けることができたんだ。そして進むべき道を教祖様の音が示してくれる」
「傷ついた心? いったいいつ傷ついたっていうんだ。何があった?」
「凌也とコンサートに行ったくらいに一方的に振られたんだよ。それに向こうは浮気までしてて、こっちはその内同棲して、それから結婚だって考えてたのに……」枝野は大きく息を吸い込むと、手で目元を覆った。そして声を上げて泣き喚いた。「なのに、真剣に付き合ってたのは俺だけで、向こうは浮気相手との間に子供を作って、もう婚約までしてやがった。別れを切り出された時、向こうはもう籍を入れてたんだ。だから俺が一方的に悪者みたいになって……」
 そんなことがあったとは、思いもよらなかった。いや、枝野の普段と変わらぬ振舞からそんな残酷なことを想像できるはずもなかった。恋人と別れたという報告もなければ、険悪な関係性になっているということすら聞かされていなかったのだ。杉本は、二人の交際は順調なのだと思い込んでいた。
 枝野は傘で目元を隠しているというのに、それでも杉本は枝野から目を逸らさずにはいられなかった。すすり泣く友人に何も言えないことが惨めでもあった。
「どうして高瀧のコンサートだったんだ?」
 枝野が落ち着くのを待って、杉本は訊いた。枝野は杉本と同様にクラシック音楽とは無縁だった。今までにお互いの間に音楽の話など出たことすらなかったのだ。そんな枝野がどうして高瀧の存在を知ったのか。
「会社の上司から教祖様のコンサートのペアチケットをもらったんだ。俺に彼女がいることはその人も知ってて、だからわざわざ気を遣ってくれたんだと思う。でももうその時は別れてて、でも上司だし断るわけにもいかないだろう? でもどうしてだか興味が湧いた。あのチケットから、一度来てみなさいって言われてる気がして……」
「コンサートの時、枝野は信者を見て馬鹿にしてたじゃないか、あれは本心じゃなかったのか?」
「本心だったよ、あの時の俺は嘘なんかついてない。本当に馬鹿な奴らと思ってたんだ、教祖様の演奏を聴くまではな」
 あの日のコンサートの帰り道、枝野は魂が抜けたかのようにぼうっとしていた。終演時刻は午後九時前だったし、音楽も規則性がなくて掴みづらかった。そのため杉本は公演中から立っていないと眠ってしまいそうなほどの睡魔に襲われたし、枝野ももう眠いのだろうと考えていた。
 しかしあれは違ったのだ。枝野は高瀧の演奏に、恍惚としていたのだ。
「でもチケットをもらった時から、どこか惹かれるところがあったんだろう? その気持ちと、あの日の枝野の言動は矛盾しているんじゃないか」
「ああ、そうかもしれない。俺は確かに教祖様のことを胡散臭いと思っていた。でも心のどこかで、もしかしたら屈辱の底にいる俺を掬い上げてくれるかもしれないと考えていたんだ。その可能性があるなら、何だってよかった。藁にも縋る思いだったんだ」
 杉本や他の友人に相談するという選択肢はなかったのだろうか。もちろん、枝野の受けた仕打ちを解決するなんて荷が重くて杉本まで気が滅入ってしまいそうだが、友人であるにも拘わらず助けを求められなかったのは悔しいことだった。
 ただ、もし杉本が枝野の立場だったらどうなっていただろう。そんなことを考えて、祖母のことが頭に浮かんだ。形は違えど、杉本は枝野と同じように憂鬱になるための存在がいた。髙橋である。このところ建設会社との連携が思うようにいかないらしく、その腹いせとして杉本に八つ当たりをするようになった。それもあって杉本の高橋への嫌悪感は日に日に増している。が、枝野と決定的に違う点が一つあった。それは、杉本の場合、思いの丈をありのままぶつけられる祖母という存在がいることだ。珠里と出会って以来、祖母と顔を合わす機会は減っているけど、それでも杉本の心の支えであることに変わりはなかった。枝野にはそういった存在がいなかったのだろう。
 不謹慎ではあるものの、仮に杉本の祖母がすでに他界していたとしたら、と考えるとぞっとした。そしてようやく、藁にも縋る思いと述べた枝野の心境をおもんばかることができた気がする。高瀧を――教団清樹を肯定するつもりはないが、祖母がいなければ杉本が教団の信者となっていたかもしれない。幸いにも杉本には、取りつく島があった。その島の偉大さを改めて感じずにはいられなかった。
「そのチケットをくれた上司って、高瀧の信者なのか?」
「いいや、違う。チケットを譲ってくれた上司は、知り合いからもらったって言ってた」
「つまりその上司の知り合いは、高瀧の信者なんだな?」
「そうだと思う」
 杉本は枝野にチケットを譲った上司を紹介してもらうことにした。その上司は坂根奈緒と言った。枝野に恋人がいることを知っていてペアチケットを譲ったのだからてっきり男性かと思っていたが、女性だった。
 枝野は傘を畳むと運転席に乗り込んだ。
「行くのか、静岡」
「この前は京都まで行ったんだ。静岡なんてそれに比べれば近場さ」
「俺はどうしても信用できないんだ。水をあんなに高値で売ったり、聴いたことのない曲をデタラメに演奏したり……」
「デタラメなもんか、教祖様はホール内の壁に使われている木材や空気と対話して自然の選んだ音を鳴らしておられる、教祖様の演奏は宇宙そのものだ。聴く者に癒しと可能性を与えてくださる。それにフィンランディアコスモ天然水だって、あれだけの値段の価値があるものだ」
「まさか、あの水買ってるのか?」
「当然だろう。教祖様を敬う者でフィンランディアコスモ天然水を飲まないやつがいるものか。――それじゃあ、そろそろ出発するぜ」
 枝野は行ってしまった。タイヤが地面の水を蹴り上げるのを遠くに見つめていると、何だか置き去りにされた気分がした。
 枝野を乗せた車のテールランプが、梅雨の簾に吸い込まれていった。

7へと続く……

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