連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 12
12
体勢を崩すとひらりとワンピースを纏い、女はまた外出した。何度目の外出か、もう数えてはいない。七回か八回か、それとも十回以上外に出ているだろうか。その度に僕の前から美の象徴が取り上げられたようでやきもきしたが、今度は少し事情が違った。なぜならキャンバスの上の美の象徴が完成間近になっていたからだ。正確には、この後絵筆を落とすのだが、とりあえず、彼女が外出してもその体を拝むことができる。片膝を軽く曲げ、尻を少し突き出して、手に持つ髑髏に口づけするように横を向いている……そんな彼女の体勢が、脳天から足先まで描かれている。あとは怪物を美しき怪女たらしめているその肉体の傷跡を写生すればデッサンは終わる。
女が小屋を出ると、僕はもう何時間前に始めたのかすら思い出せない地道な作業に取り掛かった。女が外出する度木片を細く鋭く研いでいる。ショルダーバッグの金具は一ヶ所だけ光沢が剥がれ落ち、鈍色に変わり始めていた。南京錠の口にはまだ潜り込めない。それはさっきのチャレンジで判明していた。だから南京錠には目もくれず、木片を研ぎ始めた。
ところがあからさまに、手に伝わる力が落ちて来た。女の都合で小休憩を何度も挟んでいるものの、鉛筆を持ち続け、休憩中には木片を研ぎ続けていた。拘束されている時にひどく消耗してしまったのもここに来て利いている。何より、今の僕にはエネルギーが不足していた。相変わらず正確な時間はわからないし、体内時計もすっかり狂ってしまっているだろう。さっきから胃袋が断末魔のような音を立てている。胃袋が警鐘を鳴らすということは、夕方……午後六時か、七時か、八時頃だろうか。
いや、山小屋に連れられて以来腹が満たされたことはない。最後に食事を与えられたのも、昼頃だとは思うのだが、正確なところはわからない。ただ、日が暮れてから女が農作業に出るとも思えないので、やはりあれは正午前後だったのではと推測している。それでも正確な時間はわからないが、今の僕にとって、時計の針が何時を差しているかなどどうでもいいことだった。ただ腹が減ったから、今何時だろうと無意識に考えてしまうのだ。
せめてあの女がビーガンでなければ……。
考えるだけ無駄とはわかっているが、嘆かずにはいられない。心許ない野菜じゃなく、心許ない肉を与えられていれば、木片一つ研磨する時間だって大幅に短縮できただろう。ここに監禁されてから、体重も五キロは落ちているだろう。四十キロ……百七十センチの男が四十キロ……。山道で初めて女を見た時の印象を思い出し、僕は自嘲した。
「どっちが幽霊だ……」
さっきから眠気もひどい。体感では、目覚めた後女の相手をした時から丸一日ほどが経っている。そのせいもあって、気力も失せかけていた。
さらに細く削った木片を手に鉄格子に近づいた。今度こそ南京錠の口に収まるのではないか、そんな期待を抱きながら木片の先を穴に突っ込んだ。先のほうは穴に入った。思わず口元が緩んだが、顎の辺りに妙な感触があり、僕は顎に手をやった。唾液が流れ出ていた。あまりの興奮と極度の空腹に唾液腺が決壊したのだ。力なく笑った。自分の体はぼろぼろだ。もはや健康的な場所を探すほうが難しいんじゃないかとさえ思う。
気を取り直して、木片をさらに奥へと押し込んだ。錠を回転させられるように中ほどまで木片が入らないといけない。が、途中でつっかえた。先端はすっかり削ぎ落ちて、錠の口に入っていくことはできるが、その少し後ろの部分からは削ぎ方にむらがあり、もう少し研磨しなくてはならないようだった。思わず溜息が出た。期待した分、落胆も大きかった。いつでも出られるという安心感があれば、僕だって生きようと思えるかもしれないのに。
またショルダーバッグの金具で木片を研ごうとしたその時だった。
小屋の外で物音が聞こえた。僕は木片を研ぐ手を止め、血の臭いが染みついた杉の壁に体を添わせ、耳を押しつけた。耳をそばだてると、何かが激しく噴き出される音が聞こえた。エンジンだ、とすぐにわかった。そしてもう一つ、木の葉を叩くような音が絶えず聞こえて来た。轟音と共に……雨だ。小屋の外は雷雨なのだ。それを知るのと同時に、女が戻って来たことを察した。外出の時間としては、今までよりずっと短い。農作業なら、女が戻るまでもう少し時間があると思っていたが、どうやら事情が違うらしい。エンジン音がするということは、山小屋の前に車がやって来たのだろう。車……僕もここまでは車でやって来た。まさか僕を始末する前に別の獲物を誘い込んだというのだろうか。いや、僕がキャンプ場に現れなかったことを友人が通報していて、警察が監禁場所を突き止めたのかもしれない。ああ、僕は馬鹿だった。冷静さを欠いていた。人間が冷静さを失う時は、決まって希望を見た時なのかもしれない。警察が救出に来たのなら、エンジン音以外に音が聞こえるはずだった。サイレンだ。だがその音は、どれだけ耳を澄ましても聞こえない。耳を澄ますと、小屋の屋根に落ちる雨粒の音が少しずつ近づいて来るだけだ。それで僕は、救出にやって来た車でないことを悟った。
「ありがとうございます。お礼に軽食を作るので、よかったら――」
おまけにそんな話し声が聞こえて来た。女の声。僕を誘い込んだのと同じような文句。やはり女は狩りに出ていたのだ!
「来るな! その誘いに乗るな!」
壁を突き破らんばかりの声を張り上げ、僕は訴えた。だがその声は雨音に搔き消されてしまったのか、外の状況にこれといって変わりはないようだった。山には動物もいるかもしれない。もし僕の雄叫びが獲物の耳に届いても、猿か鹿の鳴き声とでも言って誤魔化されただろう。
相手は男だった。はじめこそ女の申し出を断ったが、女の再三の申し出に、それほど抵抗を見せない間に折れた。「じゃあ、少しだけいただこうかな」と男の声は言った。曲りなりにも女は美しい。その本性を隠して合コンにでも参加すれば一番人気は間違いない。陶器のように白い肌は男の目を一瞬で釘付けにする。薄化粧の可憐な顔が、その美貌を一層引き立てている。だが揚々と彼女を引き連れ同じ部屋に入り、人間というヴェールを脱いだ瞬間、目の前には美しい怪物が姿を現す――。
まもなくエンジン音が止まった。僕はもう一度、警告の雄叫びを放ったが、虚しくもその声は届かない。もしかすると男の耳に届いたかもしれないが、やはり女にうまく誤魔化されたのだろう。それから十数秒ほどで山小屋の玄関が開閉する音が聞こえた。女はこれから調理を行う。少し時間がある、と僕は判断した。すかさず金具に木片を当て、研磨した。
しかし僕が考えているほど時間はなかった。遠い山裾を走る電車の車輪がレールの繋ぎ目を踏んで小刻みに音がするように、小屋の中の離れたところから包丁が振り下ろされる音が聞こえていたのだが、それもすぐに止まった。考えてみれば、生野菜にほんの僅かな手を加えるだけなのだ。そして量は、一日二十四食なのかと思うほど少ない。いつ女がこの部屋に戻って来てもおかしくない。僕はすぐに研磨をやめた。
耳を澄ましていると、数分してゴン、という物音がした。男がやられたのだ。料理の中に仕込まれた睡眠薬で。
まもなく通用口が開いた。女がドアを蹴飛ばしたので、ドアは勢いよく壁に打ちつけられた。女は白いワンピースを着たまま前屈みになって、後ろ向きにゆっくりと部屋に入って来る。その手には、彼女の手の倍ほどある大きな足が持たれていた。正確には、彼女は足首を持ち、仕留めた獲物を部屋に引きずり入れていた。
通路に男の全貌が露になった。僕より一回りほど大きい。背も高く、学生時代はラグビーか柔道でもやっていたのか、がっちりとした筋肉が盛り上がっていて、体重も相当ありそうだった。女はおそらく、僕を収監した時の何倍もの労力を消費して、新たな獲物を運び込んでいた。
女は僕の左隣の鉄格子を開けた。ひとまずそこに男を投げ入れると、一度部屋を出てすぐにまた戻り、持って来た木材を檻の中に運び込んだ。慣れた手つきで磔台を組み立てていく彼女を見て、僕は一つ安心した。よかった。磔台は使い回しではなかったのか。見知らぬ男が全裸で括りつけられ、その血に染まった処刑台の上に寝かされていたのではと思うことがあったのだ。その度、全身に鳥肌が立った。ただ、毎回磔台を処分しているという確証もなかった。女には殺人が罪であるという認識はたぶんない。だから人を殺して、もしここに警察が来ても、逮捕されるなどと考えることはないのだろう。磔台を処分しなければそこに付着した血液が殺人の揺るがぬ証拠となるわけだが、怪女には関係のない話だ。ならば証拠となる磔台を処分していない可能性もあるわけで……臍の辺りから全身へと、放射状に鳥肌が駆け巡った。
ものの数分で磔台は完成された。獲物の調理工程はばっちりとレシピ化されているようで、女は迷うことなく今度は男の衣服を剝いでいった。服の上からもわかったように、男は筋骨隆々、がっちりとした体格だった。間近で見て気づいたのだが、やはりスポーツマンらしく肩幅が広い。僕が彼に喧嘩を挑んだとしたら、その肩幅に全身を締めつけられ、大蛇に締め殺されるように肋骨の骨がばらばらに粉砕されてしまうだろう。そんな男が、幽霊のように白く華奢な女性に為す術もなく解体されている。服を脱がすと、今度は少し時間が掛かったが、女は十字架の上に男を乗せ、手足をきつく縛った。
一旦仕事を終えると、女は何事もなかったかのように僕の独房の前に躍り出て、ワンピースをずり下ろし、髑髏を手にポーズを取った。描け、の合図だ。僕はちらりと無力な男を横目に見て、目の前の化け物に視線を戻した。やはり狂っている。そもそもこんなことをずっと続けていて正常な人間であるはずはないのだが、何度だって思える。この女は狂っている。
僕は鉛筆を手に取ったが、すぐには描き出さなかった。
「この人を殺すのか?」
女はむっとしたようにこちらをねめつけた。だがむっとしたと思えるのは彼女の眉間がぴくりと反応したからで、その目には感情がない。肖像画を描いている時も、さっきせっせと男の処刑の準備に取り掛かっていた時も、鉛の自分の出来栄えをたまに確認する時も、女の目はただ黒々とはめ込まれているだけで、生気も感情もまるでなかった。人形を描いているみたいだ……。それはデッサンを始めた時から抱いている違和感だった。だが手を動かしている時、僕は女の目を見ているわけじゃない。生気も感情もない女が美の象徴でいられるのは、その肉体に芸術を宿しているからだった。むしろ深淵の見えないその瞳は、その芸術を昇華させるべく作用しているようだった。絵画より絵画的な女。その目に生気が宿るのは人を殺す時だけ……。
「ここに入った以上、それ以外の道はないわ」
おまえも例外ではない、と言われているようだった。さっさと仕事を済ませて、あたしの血肉となれ、と。女はまるで会社の社長で、捕らわれた僕達は従業員だ。社長は従業員の首を切る。女は正真正銘、首を切る。そして僕らは髑髏になる。生前たった一度だけ美女の皮を被った化け物と体を重ね、死後再び口づけを交わす……。
「早く描いて。まあ、四、五時間は起きないでしょうけど」
「僕の目の前で、僕の時と同じようなことするのか」
女は憮然として答えなかったが、少しして妙案でも思いついたように破顔した。目元に感情はないが、口元にはあるらしい。女は思いの外、よく笑う。だがその笑みは、僕達にとっては歓迎できるものではないと身を以って知っている。そのせいで、体がぞっと震えた。
「流血を許しているのはこの部屋だけだもの。ここで、あなたの目の前で、同じことをするわ。初めて……初めてよ! 誰かの前でショーをやるなんて。こんなことは二度とないわ。あなた幸せ者。地球上でただ一人、あたしのショーを見られるのよ。画家をやっててよかったわね。生き長らえていてよかったわね。ショーを絵に描く? それは妙案だわ! 絵に描きなさい。きっと描きなさい。あなたの画家人生を飛躍させてくれるかもしれない。それって素晴らしいことじゃない? ああでも、あなただってここを出ることはできないから、あなたの名前と共に名画は何百年と残るけど、その栄光をあなたは見られないわね。それでも構わないと思わない? 芸術家ってそういうものでしょ? ねえ、不老不死と自分の作品が永遠に残るって二つの選択肢があったらどっちを選ぶ?」
相変わらず感情のない目で、しかし夢見る少女のように胸の前で手を組んだり顔の前で手を叩いたりしながら、女はまくし立てた。だがそれも今止まり、僕に口を開く権利が与えられたのだと認識した。答えは、言うまでもない。しかし女が今か今かと返答を待っているので、僕は答えた。
「作品を残したい。芸術家ならそう思うさ」
女はにやりと笑った。
13へと続く……
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