連載長編小説『破滅の橋』第六章 希望の橋1
第六章 希望の橋
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じっとりと重い梅雨の雨が窓に当たる。太陽はすっかり雲に隠れていてまだ夕方だというのに夜のように暗くなっていた。すっかり陽が長くなったのに、外を覗くともう外灯がついている。
降り注ぐ光が雨を照らして、やけに大粒の雨であることを伊藤祐里は知った。まるで誰もいないかのように静まり返った部屋に雨の跳ねる音が響く。そろそろ夕飯の支度をしなくては。祐里は椅子の背もたれに掛けてあるエプロンを取り上げ、広げて首から通した。
「もう夕飯?」
ベッドの上で体を回転させた峯本が訊いた。
「ううん。今から作る」
ふうん、と答えながら峯本は薄目になった。キッチンのカウンターにある置き時計を見ているのだろう。部屋の明かりを全灯にすると彼はたまらず目を瞑った。ゆっくりと目を開けて彼は時刻を確認した。
「まだ五時過ぎか。ちょっと早くないか」
「今日はカレーにしようと思って。煮込むのに時間掛かるから早めにね」
峯本は納得したらしく首を縦に振ると、頭の下で指を組み、天井を見上げた。祐里は手を洗い、野菜を刻み始めた。すると彼は立ち上がり、部屋干ししていた洗濯物を畳み始めた。
「私たちって、どんな関係なんやろうね」カレーがたっぷり掛かった器をテーブルに置きながら祐里は訊いた。
彼女は、告白を促したつもりだった。彼と暮らし始めてもう半年近く経つのに、まだはっきりと告白されたことはなかった。
峯本と出会ったのは昨年の冬、年末のことだった。仕事の昼休みに最近話題になっているパンケーキ屋の行列に並んでいたところ、彼に声を掛けられた。
「涼子」峯本は声を震わせながら、今にも泣き出しそうな顔で笑いながら、なのにひどくおぞましいものを見つめているような目でいった。
その時の峯本は、何か得体の知れない雰囲気を醸し出していた。
「あの……人違いだと思います」祐里は一歩身を引いて答えた。周囲からは、珍しいものでも見るような目が注がれていた。
「そんなはずは……」峯本は真剣な表情のまま首を素早く振っていた。
「私、その……涼子さんじゃないです」
「いや、でも」
祐里はひどく戸惑ったが、彼もえらく困惑している様子だった。本気で勘違いしているんだな、と祐里は何だかおかしくなってきた。くすりと笑うと、彼はさらに困ったような顔になってしまった。
しばらく目を泳がせた後、彼はゼンマイを奪われた人形のように祐里の前で固まってしまった。仕方なく一旦行列を離れた。とにかく彼を何とかしなくてはならないと思ったのだ。
「涼子じゃないんだよね」椅子に座らせるとひどく落胆した様子で彼はいった。「ごめんなさい突然。驚いたよね」
うんうん、と祐里は相槌を打った。驚いたがなぜか嫌な感じはしなかった。祐里がじっと見つめていると、彼はこっちを向いて弱く笑った。
「何か顔についてる?」
「ううん。何もついてへんよ」
そう、と溜息を漏らすと彼は目を伏せた。不意に彼の顔が翳った気がした。「申し訳ない。俺はもう行きますから。せっかく並んでたのに、ごめんなさい」
はっとしてパンケーキ屋の行列に目をやると、さっきよりずっと長くなっていた。祐里の前後に並んでいた人たちの顔はすでに見当たらない。祐里は頭を抱えた。「あちゃあ」と心の声が思わず漏れ出て、ふらふらとどこかへ向かい始めた男の背中を睨んだ。
もう昼休みは二十分しか残っていなかった。パンケーキはもう無理だ。祐里はその日、目についた屋台でたこ焼きを食べたのだった。
それから数日後に祐里はパンケーキ屋の行列に並んだ。今度こそ、絶対に食べてやる。そう決めていた。ところがそこに彼が現れた。もしや待ち伏せしていたのではないだろうかと祐里は思った。
涼子という女性と間違えて祐里に声を掛けてきた。じゃあ涼子とはいったい誰なのか。あの時の彼の目、人違いだと認識した時の肩の落ちよう。ただの友達とは到底思えない。すると恋人か片思いの相手か。しかしそうであればあんなふうに話しかけてはこないだろう。もっと遠慮がちに話すはずだ。そこで思い至ったのが、涼子はずいぶん前に別れた恋人なのではないかということだ。別れてから日がずいぶん経っていれば、久しぶりに意気投合して復縁する可能性があると考えたのではないか。だったら、藪から棒に名前を呼んだことは理解できなくもなかった。
祐里は彼と出会った後、そう考えた。つまり彼女の行きついた答えはこうだった。私は彼の元恋人と容姿が似ている。もしそうだとすれば彼が祐里に恋をすることもあり得るのではないか。祐里も彼に、どこか惹かれるところがあったのだ。
しかし数日の後、再会して驚いた。以前会った時と服装がまったく同じなのだ。ファッションには興味がなく、二三着を着まわしているのだろう。そう思ったが彼との距離が詰まってきて呆然とした。彼のジーンズは穴だらけで、その上泥塗れだ。首元に見えている白いシャツも、もうよれよれで繊維が裂けそうな部分まである。髪もぼさぼさで、黒髪の中に少し緑が混ざっていた。
彼は笑顔を見せると、茫然と突っ立ったままの祐里に片手を上げた。
「この前は本当に申し訳なかったです」
祐里は開いた口が塞がらないまま、大きな瞳だけを動かし、彼の全身をじっくり見回した。やはり、わけがわからなかった。口元を歪めたまま、祐里はただ彼の顔を見つめた。
「列が進んだよ」
彼にいわれて急いで間を詰めた。
「えっと……」手で顔中を撫で回しながら峯本とパンケーキ屋の看板を交互に見た。「一緒にどうですか」
窺うように祐里はいった。
「人が大勢いるところは苦手なんです」苦笑しながら彼は視線を落とした。その姿に、何かとてつもなく後ろめたいものを感じた。
彼と一緒に入れるような店はないかと周囲を見渡した。視界が開けると、彼のあまりに異質な出で立ちがより強調された。今手を差し伸べないと、彼は死んでしまうのではないか。そう思った。
祐里はしばらく躊躇ったが行列を抜けた。いいの、と彼が訊くので笑顔で頷き返した。こっちに来てください、といい、祐里はパンケーキ屋から少し離れたところにあるレトロなカフェに入った。
「ここなら人も多くありません」
祐里が先に進んで席に着くと、不承不承といった様子で峯本は中に入ってきた。祐里は、ストレート・ティーを注文した。何でもどうぞというと、彼はオムライスを注文した。
名前を聞いたのはこの時だった。祐里も名乗った。
「本当に人違いだったんだ。ごめん」峯本はすごい勢いでオムライスを食べながらいった。口の端に米粒がついているのを祐里が指摘すると、照れ臭そうに彼は笑った。
しかしそれは明るいものを含んだ笑みだった。こんなふうに笑える人なんだ、と祐里は思った。
「服、洗濯してへんの?」同い年であることを知り、祐里も言葉遣いを改めた。さっきからずっと気になっていたことを訊いた。
峯本はオムライスを食べる手を止めて、ああ、と苦しそうにいった。「臭う?」
「まあ、ちょっと」祐里は笑っていいものかと悩み、顔をしかめた。「臭うというより、前に会った時も同じ格好やったから。服、それしか持ってないん?」
峯本は祐里から目を逸らし、答えるのを逡巡している様子だった。「服は……これしかない」彼は一瞬だけ上着を摘まんでいった。
「何で?」
峯本は祐里をちらりと見ると身構えるように体の向きを変えた。
「俺、住む場所がなくて」
えっ、と思わずいっていた。彼は眉をハの字にすると、微苦笑してオムライスをまた食べ始めた。祐里は彼の言葉の続きを待ったが、峯本が何かを発する気配はなかった。
「それって、ホームレスってこと……?」もしかしたら怒られるかもしれない。まだ二回しか会っていないのに、他人のデリケートな部分に触れてくるなんてデリカシーのない図々しい女だと思われるかもしれない。
そんな不安があったが、訊いた。正直、好奇心のほうが大きかった。ホームレスを実際に見たことはなかった。何より自分と同じ歳でホームレスをやっている人がいるということが衝撃だった。
しかし峯本は怒りなどせず、自嘲気味に笑っただけだった。スプーンの先を祐里に向けると、また笑った。「そう、ホームレス。だから服はこれしかないし、家はもちろん、洗濯機や風呂もない。食い物なんて一日に一度食えたら贅沢なんだ」
「そうなんや……」祐里は顔を引きつらせた。じっとしているのが落ち着かなくて、椅子の上で上半身だけを微かに前後させた。
祐里はストレート・ティーを口に含んだ。ほんのり甘く、香ばしい味に気分が少しだけ和んだ。
でも、と峯本はいった。「間違えて声を掛けたのが伊藤さんでよかった」オムライスを口に含んだまま、行儀悪くいった。しかしやけに嬉しそうな顔を見て祐里もほっとした。
「何で私に声掛けたん?」
「ああ、それはね……」弾けていた表情が引き締まっていき、また何か後ろめたいものが彼の表情の前面に現れた。歯切れも悪くなり、彼はぽつりと小さくいった。「伊藤さんが似てたんだよ」
「誰に?」
「前に付き合った彼女に」
やはりそうか、と祐里は合点がいった。しかし突然声を掛けてくるくらいなのだから、何か特別な思い入れがあるはずだった。
「がっかりした? 私が涼子さんじゃなくて」
峯本は俯きがちになり、首の後ろを揉んだ。がっかりしたといわれるんだろうなあ、と祐里は思った。祐里は、愛想笑いの準備をした。
うーん、と彼は答えるのを渋った。なぜはっきり答えないのか、祐里にはわからなかった。
「そうだよなって思った。涼子のわけないよなって」
やはりがっかりしているではないか、と内心毒づいた。べつに気など遣ってくれなくてもいいのに。
「でも、嬉しかった」
祐里は思わず彼を見返した。「嬉しかった?」
「うん。嬉しかった。それが伊藤さんと出会った時の正直な感想」
「そんなこといっていいん? 涼子さんのことが好きなんやろ。まだ未練があるんやろ。私が涼子さんに似てるってさっきいってたけど、私は涼子さんじゃないからさ」
うん、とゆっくり頷くと峯本は弱く笑った。今度は少し不気味だった。「未練しかないんだ」
「じゃあ私なんかの相手してたらあかんやん」
またひとつ、恋愛が目の前を過ぎ、遠ざかっていくなあ、と祐里は腹の底で嘆いた。これまで祐里は、男とまともに交際をしたことがないのだった。
「伊藤さんが許してくれるなら、俺はいいんだ」
わけがわからなかった。祐里はカップの把手に人差し指を掛けて訊いた。
「何で?」
「涼子は、もう亡くなったんだ」
顔の前まで持ち上げていたカップを止め、峯本に目をやった。彼はまるで元恋人の姿をそこに見ているかのように虚空を見つめている。祐里もそちらに目を向けたが、そこでは舞っている埃が西陽に照らされているだけだった。
祐里はソーサーにカップを置いた。がちゃん、と微かに音が鳴った。
「ごめんなさい」祐里は頭を下げた。「辛いことを訊いてしまって、いわせてしまって、ごめんなさい」
「いいんだ。俺が話したくて話したんだから。彼女の死を、こうして話したのは初めてなんだ。祐里なら、話してもいいかもって思った」
伊藤さん、ではなく、祐里、と名前で呼ばれたことが嬉しかった。祐里が顔を上げると、峯本は相好を崩した。柔らかい笑みが、祐里の瞼に焼き付いた。
「何で私には、話してもいいかもって思ったん?」
「前に進める気がした」
「どういうこと?」
しかし彼は笑っただけで、祐里の問いには答えなかった。それから峯本との会話は弾み、打ち解けていった。そうしていると、彼が心を開ける相手は自分しかいないんだと思った。
祐里はその日、行き場がないなら私のところに来てはどうかと提案したのだった。
「家の主と居候だろう」
不意に峯本の声がして祐里は我に返った。彼はうまそうにカレーを食べてくれている。洗濯や掃除など、家事は率先してやってくれるし、料理はいつも褒めてくれる。いつでも優しくしてくれるのに、こんなにいい人なのに、なぜか就職には恵まれず、有償ボランティアで少額だがお金を稼いでくる。
いったいどうしてなのか。彼を不採用にする意味が祐里にはわからなかった。
「そうだね」と返事をして、峯本には気づかれないようにふくれっ面を浮かべた。欲しかった言葉はそんなものではない。
それでも出会った時より彼の顔色が優れていることが嬉しく、そのことが祐里にとっても救いなのだった。
2へと続く……