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連載長編小説『破滅の橋』第五章 空の下は冷笑1-2
まもなく午後七時半になろうかという頃、工藤が帰宅した。リビングに入ると、彼は疲れた様子も見せずにいった。
「浩平、なんで電気つけてないんだよ」
「電気つけると、電気代が掛かるだろ」
はあ、と息を吐きながら、工藤はやれやれと頭を振った。荷物を置き、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと一本峯本に寄越した。
「電気代も何も、浩平が気にすることはない。本当に自由にしてくれていいから。録画だって、浩平の好きな番組をしていいんだ」
「そんなの、申し訳ないだろ。それに、今日みたいな暮らしができれば俺には十分贅沢なんだよな」峯本はプルトップを引き上げながら笑った。それが本音だった。
今日一日、ただぼうっとソファに座り込んでいただけだ。静寂な部屋の中で、カーテンの隙間から僅かだけ光が漏れ入ってくる。ただ時間が過ぎるのを待つのはもう慣れた。
「そうか。ならいいけど」工藤は戸惑ったようにぎこちない笑みを浮かべた。「でも電気くらいつけろよ」
「わかった。ありがとう」
峯本は、工藤と缶をぶつけた。乾杯すると、久しぶりのビールを一気に缶の半分ほど飲んだ。こんなに苦かっただろうかと思ったけれど、やはり美味かった。
ひと口だけビールを飲んだ工藤は、着替えを始めた。ズボンを履き替えているとふいに何かを思いついたらしく、工藤はあっ、と大きな声を出した。
「まさか浩平、トイレもずっと我慢してる?」
さっきの電気代を巡るやり取りから連想したのだろう。トイレも水道代が掛かる。しかし生理現象には抗えない。峯本はいやいや、と手を振った。
「さすがにトイレは借りてるよ」といって苦笑した。
「そうか」
工藤も笑んだ。何だか少しだけ、心が休まった気がした。工藤のいない間、峯本はずっと怯えていた。一人だと、誰かがここへ押し入ってきたり、どこかほんの小さな隙間から、自分の一挙手一投足が監視されているのではないかと不安になった。
でも工藤の自然な笑みに心が和んだ。
「夕飯はまだだよな?」工藤が訊く。
うん、と峯本は答えた。食事は一日二食でも構わないと思っている。
「じゃあ飯にしよう」
そういって工藤がテーブルに並べたのは、冷蔵庫に作り置きされていたものだった。茶碗にはご飯が大盛りになっている。ありがたかった。こんな贅沢をさせてもらっていいのだろうか。もっと苦労しなくていいのだろうか。そう思ってしまう。
「翔太は料理上手なんだな。これ、めちゃくちゃうまいよ」お世辞ではなく、心の底からそう思った。
「だろう?」
工藤はにやりと笑っていった。謙遜しないんだな、と峯本は思ったが、それだけ腕に自信があるということだろう。むしろ謙遜されたほうが憎たらしく感じる。
しかし峯本の頭にはなかったことを工藤はいった。
「俺が作ったわけじゃないからな」
「じゃあ、誰?」
「彼女だよ。栄養あるもの食べろってやかましいほどいわれてるんだ。俺が料理できないから、作り置きしてくれてるんだ」
いい人と出会えたんだな、と峯本は思った。だから作り置きの料理も、数種類の皿もあるわけだ。きっと、定期的にここに通っているのだろう。
そこまで考えたところで、峯本はとんでもないことに気がついてしまった。
「彼女って……」
「梨沙だよ」
「ああ、梨沙ちゃん」まだ二人の交際が続いていることに驚いた。一度も別れていないのであれば、もう十年くらいになるのではないか。
何だか、後ろめたい気持ちになった。本当に、ここにいていいのだろうか。
「じつは俺たち、結婚するんだ」
突然の報告に思わず絶句した。だったら峯本はどうすればいいのか。新婚夫婦の邪魔など到底できるはずもない。絶対にここにいてはいけないではないか。
峯本は立ち上がった。荷物をまとめる必要もない。彼には身ひとつしかないのだから。峯本を呼び止める工藤の声が聞こえる。振り返らない。振り返ったら、工藤の身を切る優しさに甘えてしまう。
靴脱ぎまで行ったところで腕を掴まれた。
「浩平、戻れ」
峯本は無言のまま立ち尽くした。しかし工藤が腕を離す様子はない。なぜ工藤はここまでして引き止めるのか。自分たちの幸せを邪魔する峯本を歓迎するのか。
「ごめん、浩平。黙ってるつもりはなかった。でもいつかは知らせないといけないことなんだ。俺と梨沙は結婚する。でも、それまでにはまだ時間がある。だから俺は浩平をここに呼んだんだ」
「本当か? 時間があるのは本当なのか。俺がここにいて、翔太と梨沙ちゃんの邪魔になるようなことはないのか。俺はここにいていいのか?」
工藤は強引に峯本の体の向きを変えると、まっすぐ見つめていった。
「いいんだ。だめなら、初めから部屋になんて上げてない」
しばらく睨み合った。工藤のまっすぐな目は一切ぶれなかった。怪訝そうに見返す峯本を、力強く見つめていた。不意に涼子の死を告げられた日のことを思い出した。授業中のことだ。半狂乱になった峯本を、当時の工藤は今のように厳しい目で諭してくれた。
工藤は工藤のままだった。
峯本はごくりと唾を飲み込んだ。「ごめん」
「いいんだ。突然切り出した俺が悪い」
リビングに戻ってからしばらく沈黙が流れた。しかし峯本にとってはそれが何の苦にも感じられない。むしろ沈黙の時間が続いて落ち着かなくなったのは工藤のほうで、彼はたまらず口を開いた。
工藤は職場の話をしてくれた。さすがに彼は人望が厚く、後輩からとても信頼されているらしい。彼は上司に媚びることもないらしく、後輩から聞いたクレームを工藤が上司に伝えたりしているとのことだ。嫌な役回りだと峯本がいうと、そんなことはないと工藤が答えた。近々、若くして係長に昇進するのではないかという噂もあるらしい。
峯本は大きく頷いた。よく似合っている。工藤のもとでなら、勤勉に働ける気がした。
「もう営業部はいいのか」峯本が訊いた。工藤はかつて、営業部に所属できないことを嘆いていた。
「もういいや。今の職場で」工藤は苦笑した。「まあ、異動になったらなったで頑張るけどな」
午後九時を過ぎた。工藤は毎週見ているという連続ドラマを見ている。コマーシャルになると、徐に立ち上がった。
「風呂と寝床なんだけど」と工藤はいった。「風呂は普段お湯張らないけど、浩平がゆっくり浸かりたいんだったら溜めてくれていい」
「俺はいいよ。翔太に合わすから」
「寝床がなあ、ベッドひとつしかないんだ」
工藤が何をいうのか、容易に想像ができた。峯本は工藤よりも早く口を開いた。
「それは本当に気を遣わないでくれ。俺は床で寝る。それに、刑務所はベッドじゃなかったから、体が慣れてないんだ」
「でも、それは体に悪い。一日置きでベッドと床を変えよう」
峯本はひどく顔を歪めながら首を横に振った。こればかりは本当に申し訳ない。何とか説得しようと思った。
「俺はずっと床で寝るから。当然だろ。ここは翔太の家なんだぞ。住まいと食い物が与えられるだけでも贅沢なのに、家の主を床で寝させて俺がベッドで寝るなんてできない」
峯本の意志が固いと見たのか、工藤は「わかった」といった。「じゃあせめて三日に一回はベッドで寝てくれ」
「翔太……」
本当におまえはどこまでも――峯本の目頭が熱くなった。親指で鼻を弾いて誤魔化し、ありがとう、といった。
工藤は、峯本の腕を叩いた。
「人は誰でも、体が資本なんだからな」
「ああ、よくわかった」
工藤は、うんと頷くと寝室からバスタオルとパジャマ一式を腕に載せて戻ってきた。「これ、浩平の。新調しといたから。俺の匂いのやつじゃ嫌だろ?」
そういうと工藤は微笑した。全然嫌じゃないのに、峯本はそうだな、と答えていた。工藤からバスタオルを受け取り、峯本は風呂場に向かった。新調されたものなのに、バスタオルには年季の入ったような温かさが感じられた。
2へと続く……