連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 33
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最後の朝。いや、昼かもしれないし夜かもしれない。だが女が何時間も現れないのは一日のうちに一度しかない。眠っているからだ。女は時々外に出る。家庭菜園の世話をしなくてはならないからだ。散歩することもあるかもしれない。僕とは違い、昼か夜かは把握しているはずだ。彼女の生活スペースには時計があるかもしれない。その彼女が眠っているということは、夜なのだろう。つまり今は朝方ということになる。昼夜逆転生活を送っていなければの話だが。
僕は眠れなかった。だが不安のない夜だった。じっとキャンバスの肖像を見つめていた。僕の視線で絵の具が乾くのを加速させられるみたいに。時々微睡んだが、そうすると見えない手に頬を叩かれて、僕は意識を取り戻すのだった。そしてまた、何をするわけでもなくひたすらに怪女に見惚れた。ここは僕の美術館だった。たった一枚の絵しかない美術館。客はゆったりとした足取りで館内を歩きながら、気に入った絵があればそれをじっくり見る。それから別の絵を眺め、また足を止める。……僕には一枚でよかった。この絵だけで。僕はダ・ヴィンチを超える。ピカソにこれこそ芸術だと教えてやりたい。ダリも目を剥くだろう。モネはこの肖像を見て絵を描くかもしれない。たぶん僕を理解できるのはゴッホだけだ。いや、ゴッホもビッザロを理解できないかもしれない。僕は唯一無二だ。この絵をルノワールに突き付けてやりたい。おまえにこの裸婦像が描けるか、と。たぶん、「私の求める体つきじゃない」と言って筆を取らないだろうけど。
部屋の外で物音がした。女が起きたのだ。僕は仕上げに備えることにした。あまり眠っていないが、頭は自分でも驚くほどすっきりしていた。ここ数ヶ月なかった感覚だ。吉兆、かはわからない。首を吊ると死の直前にふっと心地よくなると聞いたことがあるが、それと同じことかもしれない。僕はもうすぐ死ぬ。それは覆せない事実であり、抗えない運命だ。それで構わない。母が死んだ時、誰もが僕と弟は過酷な運命に翻弄されると思ったはずだ。でも僕は運命に抗い、自分の運命をこの手でこじ開けて来た。それは今日この瞬間、理想とする美に出会うためだったのかもしれない。ならば運命の扉が閉ざされても、僕に後悔などない。美の極致に立っているのだから。女の顔を指先で撫でた。そこからするすると胸元に指を這わせ、細かな傷を線で結ぶように指を動かした。乾いている。ほくそ笑まずにいられなかった。この瞬間がたまらない。
女がやって来た。野菜しかない朝食を運んで来た。彼女の手元を見て、もしかして頭がすっきりしているのはここ数日野菜しか食べていないからなのかと考えたりもした。
「さあ、仕上げに掛かろう」
「ご飯、食べてから」
「いいや、僕は待てない。もう絵は乾いてる。先に仕上げてしまおう。これはあんたが食べるといい。僕にはもう食事など無用だよ」
女は持っていた盆を床に置いた。
「今日は野暮用があるの。だからそれが終わってからにしてくれる?」
「少し考える。でも先に、傷をつける箇所を決めよう。そこがこの絵の心臓になる。心臓がなければ血は通わない。それから包丁を持って来てほしい。ナイフでもいい」
女は黙って後ずさると、くるりと向きを変え、部屋を出た。すぐに戻ってくると、手には果物ナイフが握られていた。いつもの包丁ではない。果物は食べているのか……。確かに山のどこかに実が生っていてもおかしくはない。僕の食事に添えられていたことはないが。女は鉄格子の間から果物ナイフを寄越した。僕がいつも使っている小刀より少し長いが、これでいい。
「中に入ってほしい。傷を間近で見たい」
「中に入れて、何をする気?」
まるで処女が男を怖がるように女は言った。それが可笑しくて、僕はつい噴き出しそうになった。
「大丈夫。手荒なことはしない。決して殺したりはしないさ。僕は今からあんたの傷から血を採って、それを絵に注ぐ。その時、あんたにはモデルとしてもう一度僕の前に立ってもらう必要がある。血は体の上を流れる。それをきっちりと描かないといけないからな。だから手荒なことはしない。それをして初めて絵が完成するんだ。その後のことは、何とも言えないがな」
どうやら僕の性質を理解してくれているらしい女は南京錠を外し、檻の中に入って来た。僅かに警戒心を残して。緊張を和らげるため僕はナイフを逆手に持った。刃先が自分に向いているかどうかだけでも心持ちはずいぶん違う。彼女が少し肩の力を抜いたのを見て、僕は近づいた。ワンピースを脱がし、その傷が露になる。遠目に見るとすっかり肌に同化しているように見えたが、間近で見るとほんのり赤い。ピンクといったほうが近いだろうか。少し描き直す必要があるかもしれない。僕は細い腕に目一杯の力を込め、女を押し倒した。女は眉をしかめていた。
「手荒なことはしないって……」
「これが手荒?」
沈黙。少しの溜息。僕は口の端を上げた。
「この傷で死んだのは、どんな男?」鎖骨のすぐ上の傷に触れ、僕は訊いた。
「覚えてない」
「覚えてない?」
「何人殺したと思ってるの? 全員を覚えてるわけないでしょ。この傷はずいぶん前につけたものだから、そんな昔のことなんて覚えてないわ」
僕は右胸の傷を指差した。「じゃあこれは?」
「それは確か、ずいぶん年配の男を殺した傷。たぶんね」
「これは?」
「それは若かった。婚約者がいるとか何とか言って死んだっけ」
「これは?」
「覚えてない」
「これは?」
「覚えてない」
「これは?」
「ああ、それは確か、免許を取って初めてドライブに来た男。ドライブじゃなくて、ドライブの練習?」
「これは?」
「覚えてない」
「これは?」
「覚えてない」
「これは?」
「でかい男の致命傷ってことしか覚えてない」
「これは?」
「覚えてない」
「これは?」
「それはさすがに覚えてる。あなたの前でつけたもの。まだ瘡蓋でしょ? そっちの檻で死んだ男よ」女はにやりと笑った。
どうやら適当に言っているわけではないようだった。あの男も、いずれ忘れ去られるのだろう。
「これは?」
「あたしが殺した男の中で一番のイケメンだった」
「それは覚えてるのか。女子丸出しだな」
「あたし、女よ? 男だと思った?」
いや、と僕は首を捻った。初めは人とも女とも思えなかった。化け物だと思っていた、とは言わなかった。だが化け物と対峙していても、自分が彼女の上にいると思うと、優越感で恐怖は感じなかった。不思議と苦笑いも漏れた。
「僕はこの絵の心臓をずいぶん前から決めていた」僕は胸の下の、一際目立つ古傷を指差した。「ここだ」
女は息を呑んだ。そして口を大きく広げ、笑った。目には不気味な生気が宿り、その目を快楽に身を貫かれたように閉じて、微かに口が開いているのに鼻で息を吸った。黒々とした目が再び僕を捉えた時、狂気的なまでの色気を感じ、今度は僕が息を呑んだ。
「お目が高いのね。さすが画伯」
狂気の目覚め。怪女の命の泉。その泉から湧き出た聖なる血が、僕の体内にも流れている……。
「この傷は、あたしの体についた最初の傷。確かに自分でつけた。でも自分で傷をつけるつもりはなかった。言ってみれば、これは自分でつけた傷じゃないとも言える。この傷は、唯一自分でつけた傷じゃないと」
唾を飲み込んだ。「と言うと?」
「これはあたしがまだ社会に存在した頃、存在したと言ってもほんの子供だけど。病院でちょっとした騒ぎを起こしたのよ。包丁を持って、病棟からロビーに向かってそれを振り回して歩いた」女は額を擦った。「ここに穴が開いてるからね。誰もがあたしを恐れたけど、あたしと歳の変わらない一人の少年だけが避難しようとしなかった。そこであたしと揉み合いになって、結局、あたしは自分で自分を刺していた。その傷がこれ。自分でつけたものじゃない唯一の傷」
「やっぱりそうか……」
女はよくその傷を撫でて相好を崩していた。まるで赤ん坊に乳をやる母親のように。彼女はその傷を愛でていた。その傷は、僕にとっても愛でるべき傷だったのだ。この傷は僕がつけたものなのだから。間違いないだろう。あの日のことははっきりと覚えている。あの時、少女の体内に滑り込む包丁の感触も。ただ、少女の名前は聞いていない。いや、聞いたかもしれないが、覚えていない。だからこの女がどこの誰かはわからない。だがあの時の少女だということは確信した。手が疼く。喉がからからだ。僕は驚いているようだった。
僕は胸の下の古傷にナイフを突き立てた。再び、怪女が他人に傷をつけられる。血はあの時と同じ場所から流れ出る……それは芸術となり、永遠となる。僕の手が傷に触れると、女は悶えるように顔をしかめた。他人に触れられると痛みを感じるとでも言うように。あるいはあの時と同じ手に触れられたことを感覚的に察知して、あの痛みを思い出しているのだろうか。僕は女の顔を覗いた。
「血を採るよ。いいね?」
こんなにも愛すべき女はいない。こんなにも愛すべき肉体はない。
「一つ訊きたいことがある」ナイフの刃先を立てる場所を調節しながら、僕は言った。「まさかあんたは――」
喀血。急に血がせり上がって来て、僕は吐いた。女の顔がべっとりとした鮮血で染まっている。突然のことに、女は驚いているようだった。手先が震え、僕はナイフを落とした。鈍い金属音がやけに遠くに聞こえた気がした。
喀血。血は止めどなく口から洩れた。それを女は身じろぎ一つせず受け止めていた。女の美しい顔が、華奢な首が、豊満な乳房が、僕の血で染まっている。
足に力が入らない。太腿が痙攣を始めた。胸が苦しく、肺が絞られるように痛い。戸惑いの中で、彼女が微笑んだ。血に染まった美貌は怪女というのに相応しいものだった。僕は最後に、究極の美を見た気がした。女の柔らかな乳房に支えられたまま、僕は動けなくなった。
第三部へと続く……