連載長編小説『別嬪の幻術』1
1
寝汗は、意外と夏より冬のほうが多い。布団が分厚いからだ。今はまだ残暑も厳しく、夏といっていいだろう。エアコンのタイマーが午前三時に切れてからの四、五時間で、ひどい汗をかいていた。背中と胸に張り付くTシャツが気持ち悪い。首筋には今も汗が流れているようだった。
今日から十月だが、寝苦しい夜が続いている。秋はどこへ行ってしまったのか。この調子だと、電気代はまだまだ嵩みそうだ。
半袖半ズボンという薄着にタオルケットも掛けず眠っていたのに、これだけの汗をかくのは珍しい。もしかすると、悪夢でも見ていたのかもしれない。だがどんな夢を見ていたのか、それが悪夢だったのかどうかさえ、まるで幻の霧の中に消えてしまったかのように僕は思い出せなかった。
「千代……帰ったのか」
部屋を見回し、欠伸をしながら呟いてみた。昨夜は夏季休暇の最終日ということで恋人の千代と深夜まで飲んでいた。僕のアパートに彼女が泊まっていくこともあるが、今日から大学が再開するからか、千代は昨日のうちに帰ったらしい。
少し飲み過ぎた。頭が痛い。寝汗が多いのは、昨夜のアルコールのせいだろうか。
テーブルには千代の置手紙が残されていた。やはり、昨夜のうちに帰ったらしい。僕が寝てしまったので、黙って帰ったのだとそこには書かれていた。
明日は千代の誕生日か……。プレゼントを用意しなければ、と僕は思った。
シャワーを浴び、バスタオルを首に掛けたままサイダーを飲んだ。さっぱりとした頭に、爽快な炭酸が弾ける。二日酔いというほどではないけれど、少し頭がすっきりした。ドライヤーで髪を乾かし、前髪をさっと分けると出発した。
一乗寺のアパートを出て、自転車で東大路を下る。国立古都大学にはそれだけで到着する。東大路を上り下りするだけの通学は、京都で生活している実感がない。むしろアパートのある一乗寺に帰ってからのほうが京都らしさを感じる。全国的にも有名なラーメン店が軒並み並んでいるからだ。夕食は、よくラーメンを食べる。北白川のラーメン屋は、この三年ですべて常連になってしまったくらいだ。しかし体質なのか、太らない。千代にも「なんでその食生活で太らへんの」とよくぼやかれる。
古都大学の敷地を抜け、古都大学附属病院まで下り、病院内の駐輪場に自転車を停めた。薬学部は多くの授業を附属病院内で受ける。今年の前期、僕は附属病院内ですべての授業を受けた。実習も多い。
薬学部棟で白衣に着替え、午前中は薬学科の授業を受けた。わざわざ教授の話を聞かなくてもわかるような、基礎を少し応用しただけの内容だ。それをいかにも難解な顔をして教鞭を執るから、大袈裟な内容に思える。僕は十分に一度欠伸をしていた。
授業が終わると、同じ薬学科の風見蒼介と附属病院を出て、二、三分北上したところにある古都大学に移動した。学内カフェで昼食を調達し、二人はカフェテラスに腰を落ち着けた。附属病院の食堂で昼食を摂ることが殆どだが、今日風見に声を掛けると、「佐保も一緒でええ?」と訊かれたので、了承した。奈良原佐保は医学部で学ぶ風見の恋人だ。風見はむしろ、「千代は一緒ちゃうくてええのん?」と言った。
「その千代のことで話があるんだ」と僕は答えた。
風見は、おや、と興味深げに眉を綻ばせたが、僕はその場で続きを語らなかった。話とは、腰を落ち着けてするものだからだ。関西人は、その場でぺらぺら話してしまう傾向があるが。特に京都では、立ち話が一つの文化にもなっている。アパートの近くでも、御婦人同士が長々と立ち話をしているのをよく見かける。今朝アパートを出た時もそんな光景を見たが、もしかしたら僕が帰宅する頃もまだ話を続けているかもしれない。そうしたゆったりとした時間の感覚も、京都ならではだ。
佐保は少し遅れて来るようだった。二人は先に昼食を摂り始め、附属病院を出る時の会話はもう忘れてしまったのか、風見は「実家帰ったん?」と訊いて来た。彼とは入学以来親しくしているし、飲みに出掛けることもあるが、しばらく会っていなかった。夏季休暇中も何度か顔を合わせたが、最後に会ったのがいつだったか、僕は覚えていない。
「八月末にね。お盆が過ぎて、少しした頃……」
正確な日付けは覚えていない。だが八月末に帰省したのは確かだろう。東京の実家には一週間ほど滞在した。
「ああ、あれか……」風見はデミグラスソースに染まった割り箸を上下に振りながら言った。「千代のインスタのやつ。東京行ってんの見たわ」
「そうそう」
僕の帰省に合わせて千代は東京旅行にやって来た。ディズニーやスカイツリー、東京タワーに浅草寺など、いわゆる観光名所を回っていた。
「これやこれ」と言って風見はスマートフォンをこちらに向けた。
画面には千代のインスタグラムのアカウントが表示されていて、ちょうど東京観光についての投稿ページになっていた。各地を巡った写真と共に、短いがエンジョイしているのがわかる文章が綴られている。風見は画像を右にスクロールした。ディズニーランドの入場ゲートで撮影した写真から、スカイツリーを真下から見上げるようにして撮影した写真、東京タワーとのツーショット、明治神宮の入り口、どこかの小洒落たカフェで撮影したティーセット……いずれの写真も、千代とその友人が映っている。中町真綾という名前で、僕も何度か会ったことがあるが、それほど交流はない。ただ、千代の親友で、それなりに苦労をしているようなので無下にはできない。
「この娘誰?」と風見が興味を示したので、千代の親友だと教えてやった。真綾は目鼻立ちがくっきりしている。髪は短く、金々髪々。男受けはいいだろう。実際、祇園でホステスをやっている。
真逆とは言わないが、佐保とはタイプが違う。
「紹介しようか?」風見が真綾の写真に何度も目を落としているので、少しからかってみた。
「やめとけ」と風見は笑った。「それで、千代の話って何よ?」
どうやら覚えていたらしい。僕は安心して、アイスティーを口に運んだ。汗ばんだ喉がひんやりとして、心地いい。この瞬間だけは、首筋を伝う汗も不快ではなくなる。ただ、僕が汗をかいても不格好だ。風見のように筋肉質な体格なら恰好がつくかもしれない。しかし僕のように線が細く、白い顔をしている男が流す汗は病的に映る。風見は目の前のひょろ男の体調を気遣うように、柔和な目で返答を待った。まるで精神科医だな、と僕は思った。
明日、千代の誕生日であることを話すと、風見は毎年その日と決まっているとでも言いたげで、「おもんない」とでも思ったのか、露骨に落胆の色を示した。
だがまだプレゼントを用意していないと言うと、彼は掌を返して表情を明るくした。まるで畳の下に札束を見つけた金融屋のように、風見は前傾姿勢を取った。
「そら、あかんで。俺でも明日のプレゼント用意してんのに。そんなんやったら、振られんのも時間の問題や。栄一と千代カップルの破局の噂なんか聞きたないなあ」
嘘吐け。噂話大好きじゃないか。大学にいても、アルバイト中も、街を歩いていても、アパートに帰っても、京都人はそこかしこで誰かの噂を口にしている。重要なのは内容ではなく、ゴシップを持っているということだ。真偽のほどは棚に上げ、わたしこんなに黒い噂持ってるんです、と示すのが目的なのだ。それが権威の象徴とでも思っているかのように。
風見も佐保も、そして千代も、皆人の噂を話したがる。知らない人物の話も少なくないので、いつもどんな顔をして聞けばいいのか困っている。他人のことなどどうでもいいじゃないか、というのが本音だ。
とにかく、僕は千代のプレゼントをどうするかを決めあぐねていた。去年はケーキ屋に特注で巨大なホールケーキを作ってもらい、二人で三日かけて食べ切った。その頃は付き合い始めてちょうど一年といった時期だったので、規格外のホールケーキだけでもかなり喜んでくれたのだが、今年はそうはいかない。同じものでもいいが、あまりに芸がない。今年は何か、物をプレゼントできればと考えている。少し高価な……。
そこまで話すと、風見は「化粧品とかでええんちゃう」と五分前まで前のめりだったのが嘘のように、ぶっきら棒に言った。恋人へのプレゼントを悩む、それは男にとって、この世で最も面倒な悩みかもしれない。考え過ぎると重いと言われ、適当に済ませば愛がないと言われる。誰かちょうどいい塩梅を教えてほしい。
「化粧品ねえ」と僕は呟き、思わず苦笑した。千代はそれほど化粧をするほうではないが、なぜか化粧品の種類は多い。色鮮やかで時々テーブルに並べるのが壮観らしいが、化粧品が無闇に増えるのも困ると話していたことがある。
「なんや不満そうやな……化粧品はなし?」
「いや、なしではないけど」
ブランド物も、それなりに持っていた気がする。今日はどこそこの何とかっていうリップ塗ってみたの、と言われたことがあるが、僕には何のこっちゃわからない。
「じゃあアクセサリーとか、ジュエリーとか……てか、予算は?」
僕は指を三本立てた。それを見た風見が「おお」と声を上げた。もちろん上限が三万円というだけで、二万円でも一万円でも、五千円でも、千円でも構わない。いや、千円はまずいか……。
「ええ店知ってんで」
「アクセサリー?」
「そうやな。ジュエリーも置いてる。まあ、宝石店ってとこかな。ブランド物もあったと思う」
教えてくれ、と頼むと、風見の口から「ノリカネ宝商」という名前が出た。店の名前は漢字で、乗金宝商と書くらしい。北山のほうに店を構えているとのことだった。
「どうしてこんな店知ってるんだ? 北山なんて滅多に行かないだろう?」
「まあな。俺も佐保にプレゼントどうしようって考えてる時に才華に教えてもろた。才華のおすすめ店なら間違いないやろおもてな」
ふうん、と相槌を打つ間の悪さを自覚しながら、僕は風見から視線を外した。地面に模られた夏の木陰は少しも涼しさを感じない。
「不満か?」
風見は鋭く、そう訊いて来た。不満。不満だ。僕は洞院才華が嫌いだ。僕の地位を剥奪した女……国立新都大学を蹴ってまで古都大に進んだ僕が、古都大でナンバーワンになれない障壁。僕が手に入れるはずだった天才の名を欲しいままにして、僕を秀才で留まらせる女……首席で入学し、一年生でミスコンのグランプリに輝き、その年の最優秀論文を発表した女……洞院才華のおすすめ店? そう聞くだけで、足を運ぶ気にはなれない。
「まあ一回行ってみ。ええのあると思うわ。馬鹿高い宝石だけじゃなくて、意外と小物とかも置いてあったし」
そうだな、とだけ言っておいた。気は進まないが、背に腹は代えられない。千代の誕生日が三日後なら、乗金宝商になど絶対に行かない。普段から、欲しいものをそれとなく訊いておけばよかったな……去年とまったく同じ後悔をした。
他にも、ディナーのセッティングや花束、旅行の提案など、風見はいろいろ案を出してくれた。今年は形あるものと考えているため、花束以外は即却下したが。
話が落ち着いた頃、風見は僕の背後を見て「おっ」と声を漏らした。振り返ると、佐保が長い髪を揺らしてこちらに歩いてくるところだった。高い身長に白衣がよく似合う。ただ妙なのが、足取りは確実に僕達の方向を捉えているのに、誰かを探しているように四方八方を窺いながら歩いて来るところだった。その様子に自分を見つけていないと風見は思ったのか、立ち上がって大手を振った。
佐保はちらりと恋人に目をやったが、手を振り返すこともなく、またあちこちに視線をやった。
「ごめん、実習でちょっと延長しちゃって。片付けも時間かかってしもて」
佐保は形成外科を専門としている。主に美容整形についてだが、僕はいつも、佐保は自分の顔をいじるために勉強しているのかな、と思ってしまう。百七十センチ近く、スタイルもいいため白衣はよく似合う。しかし細い眉、濃い口紅、白いがほんのり赤い頬、長い睫毛は化粧によって作られた顔で、彼女は決して人前で素顔を見せることはない。殆ど仮面だ。佐保は将来美容整形をするだろう。百万円賭けてもいい。
近くで見ると、長い黒髪の中にピンクのインナーカラーが入れられていた。夏季休暇の間に染めたのだろう。化粧は濃いが、その分自分の外見に気を遣っているのはいいことで、佐保の髪は艶があって美しい。小さな弁当を広げると、佐保は肩に掛かる黒髪を後ろに振り払った。彼女はいつも手作り弁当だ。それを風見が横からちょこちょこ摘まむ。
「なあ、才華見てへん?」
また洞院才華か、と僕はうんざりした。専門分野は違うが、佐保と洞院才華は同じ医学部で、下級生の頃から親しくしている。
佐保はどちらともなく言った。風見は首を傾げただけ、僕はテーブルに視線を落とした。
「なんで?」と恋人が訊いた。
「今日まだ一回も見てへんねん。一限は一緒なんやけど、それにも出てへんかったし……」
佐保はまた周囲を見回した。どうやら、ずっと洞院才華を探していたらしい。僕は一応、周囲を見回した。
「今堀君ならあそこにいるけどね」今堀史人は洞院才華と付き合っているのではないか、という噂を風見や千代が口にしているのを聞いたことがある。「一緒にいる女性は彼女とは違うみたいだけど」
今堀の顔は長い前髪で隠れていて表情は確認できないが、その特徴的な髪形で遠くからでも彼だとわかる。話したことはないが。身長も高く、目立つ。そんな彼の横にいる女性は、明らかに洞院才華ではなかった。小柄でぴょんぴょん跳ねるように身振り手振りを交えて一方的に話をしている、ブランド物で全身を固めているが、足は短い。その足を組んでいるが、様になっていない。下品な女だ。
「夏風邪かな」風見が憶測を口にした。何でもいいから、口にすべきと思ったのだろう。たぶん、それが正解だ。
「もう秋やけど」
佐保の切り返しに、いいやまだ夏だよ、と僕は言おうとしたが、その言葉は呑み込んだ。
「ラインも返信ないしなあ」
「サボりじゃない?」僕は訊いた。
佐保は目の前に銃を突き付けられ、脅されているのかと思うほど、激しく頭を振った。表情も険しく、切羽詰まっているように見えるが、僕とは違い、彼女にとっては真剣な問題だということだろう。
「そんなわけない」佐保は言った。「だって才華、一回も休んだことないんやで。今日も皆勤賞っていつも言うくらいやから」
女将に仕込まれた愛想の良い笑顔が思い浮かぶ。おまけに飛び切りの美人だから、余計にたちが悪い。大抵の男はころっと悩殺される。洞院才華の実家の旅館の宿泊客は「こんな別嬪さん見れて幸せや」と口を揃えて言うのだろう。僕は惑わされないが。
「まあ、ちょっと体調崩してるだけちゃうか」心配しているようで、関心のない言葉を風見は言った。
「才華、大丈夫かな……」
「大丈夫や」とまた無責任な言葉を風見は口にした。
昼食を食べ終え、僕は席を立った。目的はとっくに果たしていたし、千代がいないこの状況で、二人の相手をするのも骨が折れる。おまけに、今日は佐保が合流してから洞院才華の話ばかりだ。うんざり……うんざりだ。
千代に附属病院の食堂に呼ばれたと言い、僕は風見を残して附属病院へと戻った。もちろん、千代に呼ばれてなどいなかった。
2へと続く……