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連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火6
6
半月ぶりに店を開けたが、客足は乏しかった。悪い噂を知らない観光客は店先で足を止めるが、店内に漂う良からぬ雰囲気を感じ取るのか、すぐに店から離れていった。結局、何もできないまま夕方を迎えた。
峯本は思った。もはやこれまで――と。営業の続行は不可能だった。その原因は、やはり峯本にある。店を畳むことも考えたが、瀬川が起こした事業を跡形もなくすことに彼は納得がいかなかった。峯本さえ去れば、この店はまだ立ち直ることができる。そう思ったから、尚美に店を託すことにしたのだ。尚美は、何もいわずに受け入れてくれた。ただ、峯本を見上げる顔には不安げな表情が浮かんでいた。
このような事態を招いてしまって、瀬川に会わす顔がなかった。
アパートに着くと、彼女が帰宅していないことにほっとした。心のどこかで、彼女の姿を一目見たいと思いつつ、いないでくれ、と念じてもいたからだ。祐里の期待も、裏切ることになってしまった。彼女にも、会わす顔がない。
祐里は、俺の希望だった――。
峯本はそう走り書きを残した。これまで散々迷惑を掛けてきた。その度に峯本は暗い気持ちになり、心が打ちひしがれて、精一杯頭を下げた。しかしそんな峯本に彼女は謝らなくていいといった。なのに彼は謝り続けた。まるでそれしか芸のない猿のように。だから最後に、ごめんなさいを残して行くのは心のどこかで憚られた。
ペンを止めた時、峯本の顔には笑みが浮かんだ。その理由が、彼にはよくわかった。祐里には、本当に感謝しかないのだ。祐里の元を離れることで、彼女が救われるのならば峯本にとっても喜ばしいことだった。
祐里を自分の人生に巻き込んでしまったことこそ、罪だった。それはひとつの命では償い切れないほどの大罪だと彼は思った。赦してもらおうとは思わない。しかし彼女は慈悲深く、峯本のすべてを受け入れるだろう。迷惑を掛けていいのだと必ずいう。そうして祐里に重荷を背負わせているという自覚が、苦痛となって彼の胸に押し寄せるのだ。もう、その苦痛を耐えることはできない。
部屋から駆け出すと、峯本は全力で街を駆け抜けて行った。
パンケーキ屋を見て祐里と出会った時のことを思い出した。カフェを見て、祐里と初めて言葉を交わした時のことを思い出した。コンビニを見て、アルバイトを不採用になった自分に寄り添ってくれた祐里の姿を思い出した。警察署を見て、自分の過去を温かく受け入れてくれた祐里を思い出した。山の麓に来て、祐里と結ばれた時のことを思い出した。
峯本が山に踏み入った時にはすでに陽が暮れていた。普通なら、こんな時間から山になど登らない。だが、今はいいのだ。
あの走り書きを見て、祐里は今どうしているだろう。こんな俺のために、涙を流しているのだろうか。いや、祐里は涙なんて流していない。そんな気がした。今頃工藤のところにでもいって、捜索を始めているのではという気がした。
山の中から見上げる空は壮大で美しかった。一番星の隣で、月明りが目立った。
足場はすでに暗がりだ。もし今日が晴れていなかったら、山などとても歩けなかっただろうと峯本は思った。しかし辛うじて足元が見える。牢獄に閉じ込められている時よりは、遥かに明るい景色だった。
七合目に到達する前に、彼は道から逸れていった。そのままぐんぐん進むと、星の輝きと遠くでぼやけた街の光で夜の闇が照らされた。
峯本は、視線の先で捉えた橋に近づいていった。
俺はいったい、いつ破滅の橋を渡ってしまったのだろう――。
ぎいぎいと不気味に軋む橋の中央まで進んだ峯本は、街の光に目をやった。祐里はこの街のどこかにいる。足元には深い渓谷が広がっているはずだが、今は真っ暗闇で何も見えない。くるりと向きを変えると、見上げるまでもなく月が視界に映った。
もう朝が近づいてきたのだと、峯本はそれで悟った。長い夜が、こんなにも早く過ぎ去るなんて。今夜は特に底冷えが厳しかったというのに。
峯本はポケットから蝋燭を二本取り出した。彼にとって、それは何よりも祐里への想いが詰まったものだった。
「あとは時間に委ねよう」
そう独り言をいい、峯本は一本の蝋燭に火をつけた。それを橋の端に寝かせた。木材の隙間から、火に照らされて川底が少しだけ見えた。そのまま峯本は反対側へと渡り、蝋燭を置いた。
少しすれば、火は橋に燃え移る。がたがたと橋は焼け落ち、自分はその流れに飲み込まれて死んでいく。
峯本は落ち着き払って、橋の中央に腰を下ろした。見上げた空は喜びに満ちたように笑っていた。