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連載長編小説『美しき復讐の女神』10-3

 九十九里浜から東京に帰った二日後、三浜は大学に出向いた。実に八日ぶりの登校だった。この日瀧本は丸一日授業がないはずだった。しかし大学の門をくぐると、そこには瀧本の姿があった。彼の横には、明奈もいた。瀧本の隣に乃愛がいないのは第三者にとって非常に居心地の悪いような、そんな違和感を覚えさせる。だが、三浜はそんなことは気にせず、ちょっと親しくなったからといって臆せずまっすぐこちらを見つめる明奈に腹が立った。なぜそんなにまっすぐな目ができるのか、その純真な眼差しに、三浜は彼女の決意を見た気がした。
「授業が終わったらカフェに来い。話がある」
 瀧本に、三浜は従った。約束通り、授業が終わった三浜は学内カフェに赴き、瀧本そして明奈と向き合った。相変わらず子供じみた低俗な話ではしゃぐ連中にはうんざりさせられた。大学生など、能天気と馬鹿しかいない。
「それで話って?」
 カフェオレを一口飲んで三浜は言った。瀧本の奢りだった。
「この一週間、何してたんだよ」
「べつに」毎日電話を掛けていただけあって、瀧本の口調に滲む真剣味は相当のものだった。三浜は、瀧本の隣で眉間に皺を刻む明奈を見て、少し安心した。「気分が乗らなかったから来なかっただけだ」
「もう単位やばいって。これ以上欠席したら本当に進級できなくなるぞ」
「ゼミはまだ余裕あるだろ。他にも必修はちゃんと出てるし……まあ、別に進級できなくてもいいんだけどな」
「どうして気分が乗らないの? みんなでご飯食べた次の日からだよね、休み始めたの」
 三浜は明奈に微笑み掛けた。
「みんなとは関係ないよ。俺個人の問題だから」
「関係なくないだろっ」
 瀧本がテーブルを叩いた。その衝撃で、カップがソーサーの上でカタカタと音を立てた。周囲の馬鹿共がこっちを注目している。低俗な連中に混ざってお茶をするのも耐え難いというのに、その上こんな場所で目立つような行動は控えてほしかった。瀧本の態度に気分を害したと言って立ち去ろうか。しかし周囲の目が光っていて、どうにも腰を上げる気にはなれなかった。
「何なんだ?」三浜は言った。瀧本の言葉は、何かを知って断言しているように思われた。三浜は、背中に嫌な汗をかいた。「俺の何かを知ってるような感じだな」
「知ってるよ」
 瀧本の一言に三浜はぞくりとした。いったい瀧本は俺の何を知っているというのか。さらには、瀧本を宥めている明奈の姿も気に掛かった。二人の様子からして、明奈も何か知っているらしかった。だが三浜は狼狽を見せるわけにはいかなかった。
「何を?」毅然として三浜は訊いた。「俺の何を知ってるっていうんだ」
「キャバクラ通いがそんなに楽しいか」
 瀧本の鋭い視線が、放たれた言葉と共に三浜の胸を貫いた。なぜそれを知っている……予期せぬ暴露に三浜は青ざめた。指先が痺れ、末梢から中枢までの感覚が鈍くなっていく。体は、内側は燃えるように熱いのに、触れた腕は冷たかった。体中から血の気が失せ、顔面蒼白になっていくのが自分でもわかった。三浜は、思わず目を泳がせた。
「キャバクラが悪いかどうかはわからん。でも人生を棒に振ってまで通う場所か?」
「おまえ……」三浜は荒い鼻息を出して、瀧本を睨んだ。「どうしてそれを知ってる」
「あたしが!」明奈が割って入った。「あたしが最初に知ったの。あの日、四人でご飯を食べた後、三浜君のことが気になって――」
「つけてきたのか!」
 三浜は掌底を額に打ち付けた。テーブルに肘をつき、掌底に載せた頭を横に何度も振った。
「つけるつもりなんてなかったの」
「言い訳は聞きたくない」
「本当なの! 初めは尾行するつもりなんてなかった。でも三浜君がお花屋さんで薔薇を買ったのを見て、気になったの。その……彼女がいるんじゃないかって。これから彼女に会いに行くんじゃないかって。それで気づいたら、あたしも電車に乗って、三浜君を追いかけてた」
 三浜は重い溜息を吐いた。
「事情はわかったけど、人をつけ回すってどうなの? もし柊さんに知られたくないことがあって、それを俺とか瀧本とか乃愛とかに尾行されて、暴露されたらどう?」
「……嫌かも」
「かも? 絶対に嫌だろ。まあ仮に、仮に人の秘密を知ってしまったとして、それを安易に口外するっていうのはどうなんだろう? 道徳的に、人格的に間違ってるんじゃないかな」
「そこまで言うことないだろ。明奈はあの日からしばらく経って俺に知らせてくれたんだ。それは浩介が大学に来てないのを心配したからだ。決して安易に口外したわけじゃない」
「そうだとしても、人の秘密を知った以上、その人にもそれ相応の責任が生じるんだ。どんな事情があっても、当事者の俺に断りもなく暴露するのはおかしな話だ。今時腐り切った週刊誌でもそんなことしない」
「明奈は浩介のことを思ってだな――」
「もういい。わかった。それはわかってるから、それ以上言うな」
「三浜君……」
「さっきの言葉は取り消せよ」と瀧本は迫った。
 それに三浜は言い返した。「さっきの? どれのことだよ」
「明奈の人格を否定した言葉だ」
「どうして? 俺は今誰にも話してない秘密を暴露されて気が立ってるんだ。こんな状況で謝れるか。冷静になって、もしその時に俺が間違ってたと思ったら謝るよ」
「人間として間違ってるのはどっちだ」瀧本はくぐもった声で言った。「泣いてる女の子を罵倒し、大学をサボってキャバクラ通い、それを心配した人間に反発する……。そんな浩介が人格なんて語れんのかよ」
「いいよな瀧本は。気楽に生きてやがって。何不自由ない、何も背負わない、気の合う恋人がいて、普通に大学を出て就職して、順調な人生を送って死ぬんだろうよ。まるで苦のない、お気楽な――」
 三浜ははっとして言葉を切った。テーブルの上に残るカフェオレが振動で微かに揺れている。三浜はテーブルを思い切り拳で打ちたくなったが、理性が何とか持ちこたえた。何も言わずに立ち上がり、この場を去ろうとしたが、瀧本が三浜の腕を掴んだ。
「まだ話は終わってない」
「離せ」
「離さない。俺達は心配してるんだ。わかってくれ」
「もうわかったから」
「まだ他にも心配事があるんだ。俺はキャバクラがどんな場所か知らないけど、莫大な金が要るようなイメージはある。浩介の家だって資産家じゃないだろ。浩介は普通の大学生で、そんな浩介がキャバクラに通える金がどこにある? 浩介の通うセイレーンって店は、一見様お断りなんだろ。つまりあの日が初めてじゃないってことだ。それに知人の紹介がないと入れない店なんて金が掛かるに決まってる。浩介もしかして、多額の借金があるんじゃないか?」
 三浜は瀧本の手を振り払った。
「そんなことまで心配してくれてんのかよ。本当におまえ、お節介が過ぎるんだよ」
「面倒見が良いと言え」
 ちらっと明奈のほうを見た時、もう明奈は目の周りを赤くして、頬をめちゃくちゃに濡らしていた。まさか好意を寄せた男が、こんな堕落した、手のつけようがない野蛮人だったとは夢にも思わなかっただろう。思い描いていた甘い光景が崩れ去り、絶望しているのだろう。三浜は明奈を哀れとも思わなかったが、ただ心からの心配は見て取ることができた。それが三浜の心に、ほんのわずかの良心を呼び起こした。
「バイトで貯めた金があるんだよ」三浜は最後に、明奈を安心させようと嘘を吐いた。「これまで贅沢して来たわけじゃないし、大して物欲もない。だからしばらくキャバクラに通うくらいの金はあるんだ。心配なんていらない」
 三浜は今度こそ立ち去ろうと腰を上げた。だが歩き出してすぐに、瀧本の声に足を止めた。
「この前居酒屋に行ったよ」瀧本は三浜が戻るのを待って、続けた。「九月いっぱいでバイト辞めたんだろ。貯金があったとしても、もう二ヶ月も収入がないのに、余裕綽々とキャバクラに貢ぐ金がどこにある」
 三浜は瀧本の胸倉を掴んで持ち上げ、明奈に一瞥をやり、胸倉を掴む手を離した。一つ深呼吸した三浜は、静かな声で囁いた。
「心配しなくていいから」
「ご両親は知ってるの?」明奈が控えめな声で言った。「今の三浜君の生活のこと」
 三浜は奥歯を噛んだ。同時に、剣道に打ち込む明奈の姿が脳裏に浮かび、腹の底から憤怒が湧き上がってきた。
「関係ないだろ」憤激が、抑え切れずに口を衝いて出た。「何で親の話をするんだ。他人の親のことなんか関係ないだろ。俺の生活を知っていようがいまいが、柊さんには関係ない。……厚かましいんだよ」
「浩介っ――どうした……何で泣いてるんだよ」
 三浜はどかっと腰を下ろした。背もたれに身を預け、がっくりと項垂れると、目元に手を当てた。手の甲が濡れているのを見て、まさか本当に泣いているのか、と自嘲した。
「ごめん。あたしのせい……かな」
「もういいんだ」三浜は項垂れたまま言った。「本当しつこい。こんな面倒なやつにここまで世話焼くなんて、どんな神経してんだよ」
「友達だろ? いつも一緒にいれば、こういう時だってあるさ」
「友達か……」三浜は苦笑した。「だったら俺の苦しみを察してほしかったよ」
 上目遣いに二人を窺った時、明奈が首を傾げた。「苦しみ?」
「親が死んだ」三浜はぶっきら棒に言った。そうした口調じゃないと、心が持たなかったのだ。「九月のはじめに、交通事故で」
「え?」
 二人の声が揃って驚いた。その中から、瀧本の声だけが続いて言った。
「そんな素振り、少しも……」
「言えるわけないだろ。親が二人とも死んだなんて。別に気を遣ってたわけじゃない。そんなこと、俺が話したくなかったんだよ。今でも毎日苦しいんだ。何であの時、一緒に旅行に出掛けて一緒に車に乗って、それから一緒に死ねなかったのかって。家族旅行を断ったこと、ずっと後悔してるんだ。もしあの時親と一緒に死ねたら、今のこのやるせない毎日に苦しめられることもなかったのにって」
 三浜は乱れた前髪の隙間から二人の様子を窺ったが、二人とも声が出なくなったみたいに口を開けたまま何も話さない。三浜は続けた。
「親は、二人とも生命保険を積み立てていて、事故で自動車保険とか、その他にもいろいろと保険に入ってて、その受取人は全部俺だった。だから親の遺骨と一緒に二億を超える金が俺の手元に入って来て、でも金があってもどうすることもできなくて、もう何をしても心は満たされなくて、バイトも辞めて、どうにでもなれって思ったんだ。そんな時にセイレーンに行くようになって、そこで大金叩いて遊んでる時だけが唯一親の死を忘れさせてくれた。気を紛らしてくれるのはその時だけだった」
 三浜は、全身に脱力感を感じた。もうこのまま、この場から動けなくなってもいいとさえ思った。瀧本は明らかに動揺していたし、明奈はずっと前から泣いているせいで今どんな気持ちでいるのかなんて見て取れなかった。三浜は天井を仰ぎ見た。親の死と引き換えに、明奈を罵倒したことを赦してもらおうなどとは思わない。だが三浜は、瀧本と明奈に縁を切られたとしても、両親を失ったこの苦しみだけは理解してもらいたかった。
「そんな……」
 声を漏らしたのは明奈だった。だがそれに続く言葉はなく、再び重い沈黙が流れた。三浜はそれを苦とも楽とも感じず、時間の流れすらも感じずに、その場に座っていた。まるで自分が意思のない、ただの肉の塊になったかのように思えた。瀧本も明奈も、ただの肉の塊だった。

 両親の死を打ち明けた日から、もう自分が大学にいる意味はないと三浜は考えていた。しかしわざわざゼミのために大学を訪れたのは、瀧本や明奈が三浜の苦しみを理解してくれたと思いたいからだった。構内を歩いていると、後ろからトントンと肩を突かれた。驚きもせず振り返ると、明奈だった。あの健気な笑みを口元に浮かべていた。三浜は、先週の罵倒について謝ろうかと思ったが、あの時の自分が間違った態度を取ったとはとても思えず、結局何も言わずに明奈を見つめた。
「この前は、厳しいこと言われてちょっと傷ついたけど、一週間近く経ってやっと三浜君の事情を理解できてきた気がする」
「そう……よかった」
「尾行なんてしてごめん」並んで歩き出すと明奈が言った。「三浜君の言葉はひどかったけど、でもあのことは全部水に流すことに決めた。三浜君は辛くて苦しいかもしれないけど、あたし、三浜君とちゃんと向き合いたいなって。何とか三浜君の毎日を満たしてあげられたらって、思ってる」
 おそらくそれは、明奈が思っている以上に厳しいものだ。しかし三浜は、明奈が自分と真摯に向き合おうとしているのを感じた。三浜は何も言わずににっこりと微笑み掛けたが、やはり明奈では無理だろうと思った。三浜にどんな過去があり、どんな心境で毎日を過ごしていようと、すでに三浜の心を満たす存在がいるのだ。やはり凛と比べれば明奈は分が悪い。
「だから」と明奈は言った。「あたしが尾行したことも赦してくれないかな」
「いいよ。そんなのはもうどうだって」
 二人は、別々の教室に入った。三浜が入った教室では乃愛が号泣しており、三浜の姿が見えた途端に熱い抱擁を交わさんばかりの勢いだった。三浜は瀧本に微妙な気まずさを感じ、普段とは違って少し離れた席に座った。だが瀧本は、三浜のすぐ後ろの席に移動してきたのだった。

11へと続く……

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