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連載長編小説『別嬪の幻術』5-2

 実験を終え、片付けを済ませるとこの後どうする、と千代が訊いて来た。二人とも、今日はもう授業はなかった。僕は当然、事件について調べるつもりだ。昨日見当たらなかった今堀に話が聞きたい。それを言うと、千代はあたしも行くとついて来た。「その後はご飯やろ?」と言いながら。
 時間的にもちょうどそうなるかもしれない。千代はたぶん、足手まといになる。どちらかと言うと足枷のほうが近いかもしれない。しかし千代がいてくれたほうが、殺人事件の話を訊かれる相手にしてみれば、安心できるのかもしれない。足枷をつけられ、足を引きずっている人間に同情するように……。
 運のいいことに、薬学部棟を出て、東大路を上り始めたところで長髪の男を見つけた。長身に長髪という目立つ男はまだ汗ばむ時期だというのにカーディガンを羽織っていた。僕も千代も、シャツ一枚だというのに。僕は歩く速度を上げ、今堀に追いついた。
 今堀君だよね、と声を掛けると、男は感情の読み取れない黒い瞳だけをこちらに動かした。僕を見下ろす長身にこけた頬も相俟って、不満げに見える。見知らぬ男に突然声を掛けられて、実際不満なのだろうが。しかし僕が洞院才華なら、古都大生の誰に声を掛けても、あら、といった反応を引き出せるはずなのだ。そうならないことがもどかしい。僕のことを知らないやつがいるなんて!
「ちょっといい?」
 僕が訊くと、今堀は千代のほうを見た。眉間を指で掻くと、一つ溜息を吐いた。ちょっとなら、と今堀はかすれた声で言った。足枷に同情したのかはわからないが、ひとまず千代を連れて来てよかったと思った。
 古都大学に入ると、青紅葉の下の椅子に腰を下ろした。名乗ると、「ああ、君が築山君か」と今堀は呟いた。どういうわけか、彼は僕の名前を知っていた。わけを訊くと、洞院才華からその名前を聞いたことがあるらしい。彼女は僕のことを「優秀」な学生だと話していたらしい。天才、ではなく優秀だ。気に食わない。僕のことを見下しているから、そんなふうに他人に話せるのだ。怒りのやり場を足元に見つけ、僕は小石を目一杯踏み、アスファルトにがりがりと擦りつけた。膿が押し出されたように地面が白くなった。
「まさにその洞院さんのことで話があるんだ」少し大きな反応をしてみせ、僕は言った。「昨日松尾で起きた事件を知ってるかな。正確には一昨日の午後九時前後、遺体が発見されたのが昨日の朝の事件だ」
 今堀は訝しむように眉間に皺を刻み、こけた頬に苦笑を浮かべた。小さく首を傾げたかと思うと、小さく頭を左右に振った。その件で話を訊かれる意味が分からないと言った様子だ。
 今堀は事件を知っていた。僕が問うと、ああ、うちの学生が殺されたあの事件か、と言ったのだ。
「それで?」というのが今堀からの返事だった。まるで関心がない、といった様子だ。確かに彼には関係のない事件かもしれない。今堀は文学部で学ぶ学生だ。医学部の佐保とはまったく接点がない。洞院才華から話を聞いていなければ、佐保の名前すら知らないだろう。
 だがこの事件に洞院才華が絡んでいるかもしれないとすれば、今堀の事情も変わってくるはずだ。洞院才華が失踪していることについて僕は訊いた。居場所を知らないか、と。
 今堀の答えはノーだった。「知らん。そもそも、なんで俺に訊くん?」
「今堀君には、洞院さんと付き合ってるって噂が流れてるから、何か知ってるんじゃないかと思って」
「噂は噂や。俺と才華は付き合ってへん」
 でも、と言ったのは千代だった。恋愛が絡むと、女性のほうが遠慮のない質問をしてくれる。「よく一緒にいますよね」
「まあ、才華とは高校一緒やし、仲良いのは認める。でも付き合うてるかは別の話やろ。俺と才華はそういう関係ちゃう」
「まあ、その話は置いといて……」一度会話を切り、僕は座る位置を直した。「今堀君が洞院さんと付き合ってないのはわかった。でもそれとはまた別の話で、洞院さんのことを心配したりはしない? 後期に入って、彼女は一度も大学に来ていない。それどころか、警察には捜索願も届けられてる。心配じゃない?」
 今堀は長い足を組み、遠くを見た。夏の名残の風を受けて揺れる長髪が気障ったらしくて鼻につく。額に玉の汗を浮かべている者もいるというのに、どうして髪を切らないのか。背が高く、コケティッシュな顔だけに、髪を切り爽やかな風貌になればモテるだろうに。それこそ、洞院才華も彼に好意を抱くかもしれない。
「心配と言えば心配。でも才華のことやから、大丈夫やろ」
「屈強な男達に拉致られてても? 洞院さんは頭がいい。でも力では男に敵わない」
 たとえ危険な状況に置かれていても、彼女が夢催眠を駆使すれば、その男達を操ることもできるだろうが、幻術を使える環境にあるはずはない。同じことを今堀も考えているのか、「力では、な」と言った。洞院才華を完全無欠の人間とでも思っているのか、彼はどこか余裕すら感じさせる。何か知っているのではないか。やはり洞院才華が佐保殺しに関与しているのではないか。
 佐保についても質問をぶつけた。彼は佐保を知っていた。やはり洞院才華から話を聞いていたらしく、何度か面識はあるようだ。だがそれほど記憶に残っていないらしい。洞院才華の親友だったという程度の記憶だ。洞院才華が佐保の悪口や愚痴をこぼしていなかったかと訊いたが、「才華は人の悪口言わんよ」と一刀両断に切り捨てられた。
 殺害現場や殺害方法で思い当たることはないかと訊いてみたが、さあ、と首を捻るだけだった。ただ、「松尾さんねえ」と意味深長に呟いたのが気に掛かり、僕は詰め寄った。何か心当たりがあるのか、と。だが今堀は答えなかった。
「心当たりいうほどのことやないけど、犯人が殺害現場にこだわりがあるんやったら、松尾さんでの殺しには何か意味があるんちゃうかと思っただけや」
「意味ってどんな?」
「そのくらい調べたら誰でもわかる。ウィキペディアで調べ。俺に訊くほどのことでもない」
 神社にはそれぞれ祭神が祀られている。それにより御利益も様々だ。金運、恋愛運、安産など、例を挙げればきりがない。祭神についても同じことが言える。日本神話は多神教だから、教会とは違って神社ごとに特色がかなり異なる。
 松尾大社の祭神はオオヤマグイノカミとナカツシマヒメノミコトの二柱で、オオヤマグイノカミは山の地主神であり農耕治水を司る神として知られ、ナカツシマヒメノミコトは商売繁盛、芸能、金運、勝負、豊漁、交通安全、五穀豊穣、海の神として信仰されている。また、松尾神は神々の酒奉行であるとされ、神事に「福の神」という狂言が奉納されるなど、酒神として酒造関係者の信仰を集めている。さらには京都の最西端にあることから西の要として、四神獣のうちの白虎に重ねられ、松尾大社で販売されている御朱印長の表紙には白虎が描かれているそうだ。
 そこまで見ても、わからないというのが正直なところだった。そもそも、京都に住んでいても、祭神などを気にして生活している者は少ないのではないか。神社に詣でる時も、せいぜい御利益について調べる程度だろう。ただ昨日松尾大社に行って目についたのは、松尾橋を渡ったところにある大鳥居の傍にあった大きな瓢箪の置物だった。京都人の感覚で言えば、松尾大社は酒神神社という認識が一般的なのではないか。酒は確かに、トラブルの元になってもおかしくはない。
 画面を目で追っていると、今堀は立ち上がった。「呼ばれてるから」と彼は言った。少し離れたところに、小柄で茶髪の、以前下品な女だと思った学生がいて、彼を手招きしている。恋人なのかと問うと、サークルの後輩だと今堀は言った。二人は京都探求サークルに入っているようだ。彼女は高島美佐というらしく、高校時代から今堀と同じ部活動で、古都大にも一年浪人した後、入学したそうだ。今堀は口にしなかったが、彼女は今堀に惚れているのだろう。長髪コケ男の魅力が僕にはわからないのだが……。
 今堀と別れた後、僕と千代は北白川でラーメンを食べ、二時間ほど一乗寺のアパートで過ごした。僕は今夜、現場の雰囲気を確かめるため、午後八時を過ぎた頃に松尾に行くつもりでいた。それを千代に話すと、止められた。しかし僕が折れないでいると、また自転車で行くん、と訊かれ、さすがにもう自転車は足がもたないと思った。電車で行くと答えたが、千代は危ないからレンタカー借りていき、と言った。僕がペーパードライバーなのを知っているのに。まあでも、車ならそれほど時間も掛からないし、殺人犯が出るかもしれない場所に行くのだから、身の安全も考慮しなければならない。
 近所のレンタカーに電話をすると、すぐに一台用意できるということだった。せっかくなので嵐山のほうまでドライブでもするかと千代を誘ったが、千代は乗って来なかった。

6へと続く……

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