連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 26
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仮説は仮説に過ぎないが、その仮説から新たなヒントが見つかることもある。そのヒントの糸が真相に繋がっているかはわからないが、とにかく手繰り寄せてみないとわからない。今は単なる仮説でも、証拠が揃えばそれは事実になる。
古藤が天羽の思いつきをすべて間違っているとは限らないと言ってくれたおかげだ。天羽は『血に溺れた女』が三十万円ぽっちで売買されたことに丹生脩太が怒ったのではないかという説を調べてみようと思った。現時点で、樽本京介と永川雄吾を繋ぐのは『血に溺れた女』しかなく、それは丹生脩太を間に挟んでも同じことが言える。
三人を巻き込んだ今回の事件すべてに関連性があるとすれば、やはり血の肖像絡みではないかと思うのだ。
問題点は、本来の価値より遥かに低い価格で自分の絵画が売買されたことを丹生脩太が知れば、彼は怒るかということだ。人を殺すほどに。
それについて君島辰斗に訊いた。彼は今日午後からの出勤らしいことを整体院のロビーの勤務表で知った。
「それは、怒るでしょうね」君島辰斗はさらりと言ってのけた。「人を殺すかどうかは、ちょっと何とも言えませんけど」
「過去に似たケースで丹生さんが激昂されたことがあるんですか?」
君島辰斗は微笑を浮かべ、体の前で手を振った。
「そういった覚えはないですけど、そもそも脩太が画家になったのは生きるためですからね。絵が売れてしまえば脩太と皓太は生きることができました。人によってはそれで満足するかもしれません。でも脩太は違います。言ってみれば、オークションでの落札額というのは自分の存在価値の物差しでもあったと思うんです。当然脩太にもプライドはあります。落札者が自分を数百万円払う価値のある画家だと認めてくれた。その絵が本来の価値よりずっと低い値段で売られたとなると、それは怒りますよ」
「そういったトラブルはこれまでになかったんですか」
君島辰斗は首を傾げ、低く唸った。
「わかりません。そういう話を聞いたことはないですけど、どうなんでしょう、そういう――つまり本来の価格よりずっと安い値段で美術品が取引されるということは、よくあることなんですかね?」
逆に質問され、天羽も言葉に詰まった。ビッザロの絵に凄まじい狂気が存在することは天羽の感性でも理解できる。事件が起きてからのこの数日で丹生脩太の絵を何枚か目にし、絵画を見慣れて来てはいるものの、そもそも天羽に美術の知識はない。
「さあ、美術には疎いもので……」ボールペンの尻で頭を搔きながら天羽は苦笑を浮かべた。一つ咳払いを挟み、気を取り直した。「ところで、岩沢美亜さんについて伺いたいんですが――」
相手の出方を窺うように、天羽は一拍置いた。その名前が出ると君島辰斗の表情筋が少し緊張したように思えた。それが自殺した同級生の話題だからなのか、天羽が考えていることが正しいのかはわからない。
「岩沢美亜さんの自殺について、少し調べてみました。結論から言うと、これは自殺ではないのではないか、と私は思いました。その理由は昨夜あなたにも見せた一枚の絵です」
君島辰斗は黙ったまま、小さく頷いた。眉間に皺が刻まれているところを見ると、やはり同級生の死というのは関係の浅かった者にもそれなりのショックを与えるようだ。
「あの絵をあなたは岩沢美亜さんだと証言しました。あの後話を聞いた丹生皓太さん、それから堂島翼さんからも同様の証言を得ています。つまりこの絵は岩沢美亜さんで間違いないということです。そうなると、彼女の死が自殺だったのか、疑わしいものになってきます」
天羽はスマートフォンに岩沢美亜の血の肖像を表示して、君島辰斗に見せた。天羽は続けた。
「見ての通り、絵に描かれた岩沢美亜さんの背中には無数の傷跡があります。手首には、その後彼女を死に至らしめるリストカットの傷が深々とつけられているのがわかります。あなたもご存知の通り、丹生さんは女性の体に実際に傷をつけ、その絵を描く。そういう癖を持っている。欲情に駆られた丹生さんが彼女を殺害した可能性を考えています」
「それは……考え過ぎじゃありませんか?」
「あらゆることを疑うのが警察です」
「でも、美亜が亡くなった風呂場からは何の証拠も出なかったんでしょう? だから当時の警察も自殺と判断したのでは?」
その通りだ。ただ、当時の警察は岩沢美亜のすぐ近くにビッザロという猟奇の画家が存在することを知らなかった。丹生脩太に話を聞くくらいはしたかもしれないが、当時彼は中学生だ。画家をしていることを彼は話さなかっただろう。捜査員も追及はしなかったはずだ。当時丹生脩太を疑う刑事はいなかっただろう。
「弟の皓太さんは、岩沢美亜さんのことを兄の元恋人だと思っていたようです。でもあなたは昨日恋人関係ではなかったと話した。実際のところはどうなんです?」
「付き合っていませんでした。中学の頃、脩太に彼女はいませんでしたから。高校になって、葉子ちゃんと付き合い始めた頃に紹介されて、初めての彼女ができたことを翼と一緒に祝福しましたもん」
まさか三人とも、初めて恋人ができた時は皆でそれを祝福していたのだろうか。それを聞くと、丹生脩太は特別なんだと君島辰斗は言った。両親を早くに亡くし、中学卒業後その才能を頼りに生きるしかなくなった。自分を殺し、弟を養うことを第一に生きている。そんな彼に初めての恋人ができた。それを祝福せずにはいられなかったと語った。堂島翼は中学時代に初めての恋人を作ったそうだが、君島辰斗は高校に進学後初めての恋人ができたらしい。だが丹生脩太のような小宴会はなかったそうだ。
「昨日あなたは、丹生さんが絵にしたということは彼女を魅力的だと思っていた可能性があると話しましたが、丹生さんの口から決定的な言葉を聞いたことはありませんか。岩沢美亜さんが好きだと」
「ありませんね」
「岩沢美亜さんの自殺後、丹生さんはどんな様子でしたか。何か変わったところはありませんでしたか」
君島辰斗は腕を組み、うーん、と唸った。
「十五年以上前のことですからねえ。覚えてないです……でも覚えてないということは、変わったところはなかったってことじゃないですかね」
「そうですか」
礼を言うと、天羽は整体院を後にした。阿波野の運転で、次は堂島総合病院に向かった。今日は金曜日だから、堂島翼は院内にいるはずだ。先に君島辰斗に当たったのは、これまで彼を訪ねて話を聞けなかったことがないのと、堂島翼はひょっとしたらまだ診察室にいるかもしれないと考えてのことだった。君島辰斗は初めて会った時から刑事を煙たがる様子がないので、気兼ねなく聞き込みに行けるという点もある。
堂島翼はすでに診察時間を終え、脳外科の病棟で患者の回診の結果を整理していた。案内してくれたのはやはり副院長の市井俊夫で、天羽にとっては副院長というより単なる案内係だ。腰の高い位置に持ち上げたベルトに手を掛け、ナースステーションの壁をコンコンと叩くと堂島翼に刑事が来ていることを手で伝えた。
堂島翼の白衣姿を見るのは初めてだった。立ち上がり、白衣の裾を翻すと額の真ん中で分けられた髪を手櫛でさらりと梳いた。君島辰斗とは対照的に、迷惑そうな表情で、笑み一つない。それだけ忙しいということだろう。大抵の者は、刑事が訪ねて来るとこういう反応になる。かといって、君島辰斗が暇を持て余しているわけではないのだが。
質問の内容は君島辰斗に訊いたのと同じだ。
本来の価格よりずっと低い値段で自分の絵が売買されたら丹生脩太は怒るか、怒るでしょう。丹生脩太と岩沢美亜は恋人ではなかったか、なかった。丹生脩太は岩沢美亜に好意を寄せていたか、たぶん寄せていた、それは岩沢美亜のほうも同じだったかもしれない。岩沢美亜の自殺後、丹生脩太に変わった様子は見られなかったか、覚えていない。
君島辰斗と同じような返答が返って来た。「もういいですか?」と堂島翼は仏頂面で言った。天羽のほうも、これ以上は特に聞き込むこともなかったので頷き掛けたのだが、ちょうどその時、「あら刑事さん」と陽気な声に呼ばれ、振り返った。
堂島妙子だ。それともう一人、写真でしか見たことはないが、特徴的な切れ長の目で彼女が誰かすぐにわかった。倉本亜沙美だ。堂島翼の婚約者。
天羽ははっとして、脳外科医に向き直った。
「改めましてご婚約おめでとうございます」
「いいですよ、そんなことは」
天羽は倉本亜沙美のほうに向きを変え、同じように結婚を祝福した。倉本亜沙美は長い足を綺麗に揃え、心持ち頭を下げ、「ありがとうございます」と品よく言った。なかなか洗練されている、と天羽は思った。
それから天羽は、堂島妙子によって、まるで親族のように倉本亜沙美に紹介された。この一週間に限って言えば、親族以上に顔を合わせているが、天羽はどんな顔をしていればいいかわからず困ってしまった。まったく、堂島妙子のおしゃべり好きは困ったものだ。倉本亜沙美も、「現在翼の友人について捜査してらっしゃる刑事さんなの」などと紹介されて目のやり場に困っていた。パンツ一丁だったかなと天羽が慌てるほどに。
どうやら今日、花嫁は堂島妙子によって院内を隅から隅まで案内されていたらしい。堂島妙子のおしゃべりが教えてくれた。どうでもいい情報なのだが。
倉本亜沙美は入籍後家庭に入るつもりのようなので、夫の職場を熟知していて損はないのだが、堂島妙子は膳を急ぎ過ぎているようにも思えた。縁談がまとまって昨日の今日で夫の職場を案内されても荷が重いだろう。だが堂島翼の働きぶりを見るには今日しかないのだと堂島妙子は言った。それは今日が堂島翼の診療日だからだ。今日を逃せばまた一週間待たねばならない。
別に一週間待てばいいじゃないか、と天羽は思うのだが、やはりこれまで見合いを断り続けていた息子が見初めた女性だけに、膳は急ぎたくなるのだろう。
「そういえば、今回はどうしてお見合いを受けられたんですか?」
堂島妙子の愉快そうなおしゃべりを遮らないように、折を見て天羽は堂島翼に訊いた。
「捜査に関係ないじゃないですか」と堂島翼は吐き捨てたが、婚約者の手前不愛想に振舞うのはよくないと判断したのか、「素敵な女性だと思ったからですよ」と言った。「容姿も、性格も。彼女とならうまくいくと思ったんです。もういいですか? 仕事に戻ります」
そう言うと、堂島翼はナースステーションに入っていった。
「倉本さんもお見合いの前に翼さんが縁談を断り続けていることは聞いてらしたんじゃありませんか?」
「ええ、少しですけど」
「断られるのは精神的に辛いところもあると思うんですが、今回はどうしてお見合いを受けられたんですか?」
堂島妙子はにこにこと上機嫌で花嫁を見上げている。倉本亜沙美は背が高い。小綺麗な風貌、洒落た髪、スレンダーな体型……おまけに歯科医の娘と来ている。見合いなどしなくても、男には困らないだろう。
堂島翼は大してイケメンでもない。狙いは金か、堂島総合病院の看板だろうか。過干渉な姑に愛想よくしている彼女を見ると、そんなことを想像してしまう。
倉本亜沙美は口角を上げて微笑むと、堂島妙子と目を合わせた。
「お母様が、あなたなら翼も首を縦に振るとおっしゃられたので、思い切ってお見合いを受けさせてもらおうと思ったんです」
たぶんそれは、堂島妙子が見合いを取り付ける時の常套句だろう。そう言いたかったが、天羽は喉元で飲み込んだ。倉本亜沙美は聡明そうな女性なのでそれには気づいているかもしれない。ただ「お母様」の顔を立てるために気づいていない振りをしているだけかもしれない。
天羽は柔和な笑みを心掛け、二人に会釈すると病棟を後にした。収穫はなしだ。
27へと続く……