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連載長編小説『十字架の天使』2-1

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 自動ドアが開く度に身を切るような冷たい風が吹き込んでくる。店内は暖房が効いていて薄手の制服一枚でも快適なのだが、ドアが開くと途端に世界が変わる。まるで南極の中心でサウナにでも入っているかのようだ。
 フロントで受付を行ったが、会員の客だったので簡略化された対応で済んだ。
「いつもご利用ありがとうございます」とマニュアル通りの文言を口にし、吉高和也はルームキーを差し出した。客は与えられた部屋に入るや否や廊下に姿を見せ、ドリンクを注いですぐに部屋に籠った。
 それと入れ替わるように退室客がフロントにやって来た。吉高は会計を行い、釣銭を手渡した。不愛想な客が自動ドアをくぐり、また冬の風が吹き込む。吉高は身を震わせたが、今出て行った客の様子を目で追いながら入店する二人の男性を見て首を傾げた。
 男二人でネットカフェを利用する客など滅多にいないからだ。
 それでも吉高は接客用の笑みを口元に浮かべ、「いらっしゃいませ」と応対した。何時間のコースにしましょう、と訊こうとしたが、片方の男性に制された。
「客じゃありません」
 そう言うと、二人はトレンチコートの下に着こんだスーツの内ポケットからバッヂ付きの手帳を取り出した。
「我々、こういう者でして」
 刑事ドラマでよく見る場面に吉高は口をぽかんと開けた。しかし二人が提示した手帳が警察手帳だとはすぐに気づかなかった。
 短髪の前髪を逆立てるようにセットしたいかにも優秀そうな男は薙沢といった。彼の半歩後ろに立つ男は味田というようだ。おそらくそれほど歳は離れていないのだろうが、味田は薙沢と比べるとどこか頼りないように見えた。味田も薙沢と同様短髪だが、ワックスはつけていない。そのせいだろうか。
「警察の方がどうして……」
 本音が口を衝いて出た。あからさまに狼狽を見せ、吉高は恥ずかしさに顔を赤らめた。刑事ドラマを見ている時は、刑事を前にしてもこんなにあたふたするものかと小馬鹿にしていたものだ。
「昨夜小松諒太さんがこのネットカフェをご利用になったことを確認に参りました」
 刑事の口から知っている名前が出て、自分のことではないのにどきっとした。小松諒太は数ヶ月前から当店を頻繁に利用している、店にとってはお得意様だ。
 吉高は昨夜シフトに入っていなかったが小松諒太の利用履歴は店のデータベースに記録が残っている。昨夜は十九時二十六分から二十時五十六分の九十分コースを利用していた。
 吉高は端末を二人の刑事に見せた。
「念のため、この九十分間の防犯カメラ映像をお見せいただいてもよろしいですか」
「わかりました」
 店長不在時の警察への対応マニュアルでは、最大限捜査に協力すること、だった。事情聴取にやって来た際は丁寧に対応し、記録の提示を求められれば速やかに提供する。吉高はそれに従った。
 リザーブの店員にフロントを任せ、バックヤードで昨夜の映像を見せた。そこにはデータベースに記録されている通り小松諒太の姿が映っていた。
 映像を早送りで確認した刑事は何やら手帳にメモしていたが、納得している様子はなかった。
 フロントに戻ると、二人は「出入り口はこの正面だけですか」と訊いた。
 吉高は頷いたが、刑事はそれぞれ店内を歩き回り、それが正しいことを確認した。自分の目で確かめなければ気が済まないのだろう。むろん、吉高は嘘など吐いていない。
「ご協力、ありがとうございます」薙沢が腰を三十度折り曲げた。「今度は吉高さんにいくつかお伺いしたいことがございます」
「俺にですか?」
 薙沢は精悍な顔つきを微かに緩め、頷いた。
「我々は現在昨夜発生した鳴海聖子さん殺害事件について捜査を行っています」
 それを聞き、吉高は顔を青くした。まさか刑事の口からその名前が出て来るとは思わなかったからだ。それにその後に並べられた物騒な文字が吉高の頭に重くのしかかり、すぐに空中で分解されて、言葉を理解する前に消え去ってしまった。
「鳴海聖子さんをご存知ですね」
 吉高は顔を引きつらせたまま僅かに首肯した。頬の奥のほうで痙攣が起きていて、目の下が熱い。
「知ってますけど……殺された? 聖子が?」
「ご存知ありませんでしたか? 各局今朝から大々的に報道していましたが」
「テレビはあまり見ないんです。スマホでもニュースは時々確認する程度で」答えながら、今すぐスマートフォンを取り出して、事件の詳細を知りたいと思った。
「そうですか」
 知人が殺害された時、すでに大々的に報道されているにも関わらず未だ知らないというのは容疑を掛けられる状態なのだろうか。
 そんなことを考えたが、そんなことはどっちでもいいというように薙沢は次の質問に移った。
「鳴海聖子さんとのご関係を教えていただけますか」
「同級生です。小中学校の。幼馴染とまでは言えないかもしれませんが、昔はよく遊んだりしました」
「最後にお会いになったのはいつですか」
「五年前です」吉高は淀みなく答えた。「成人式で会ったのが最後です」
「それまでは頻繁に会われていたんですか」
「いや、中学を卒業して高校が離れてからは一度も会っていませんでした。だから成人式の時は五年振りでした」
「鳴海さんはどんな方でしたか」
「それはもう、活発な人でした。人見知りしない性格で、誰とでも仲良くなれる気さくな人でしたよ。男女両方から人気があったと思います」
「では吉高さんも?」
 それはどういう意味合いなのか、と訊こうとしたが、喉元で留めた。吉高は頷いた。
「もちろん、一緒にいて楽しい人でしたから」
「鳴海さんは綺麗な女性でした。昔からよくモテたんじゃないですか?」
「人気はありました。もちろん男子生徒から告白されたという話を聞くことは多かったです。でも中学の頃に聖子に恋人がいたという話は聞いたことがありません。聖子にとっては男子も友達という認識だったんじゃないですかね」
「成人式で再会された時の印象は?」
 次々に繰り出される質問に吉高は記憶の抽斗を慌てて開けていった。成人式で聖子と再会したことは記録のようなものなのですぐに思い出せたが、当時の様子となると記憶が朧になっていた。
「美人になったなというのが本音です」結局一番手前にあった記憶をそのまま拾って投げた。「中学までは化粧をしていなかったせいかもしれませんけど。すっかり大人の女性という印象です」
「再会して、五年間のことを話されました?」
「話しましたけど、内容はよく覚えてません。通ってる大学の話なんかしたかな。まあ、近況報告程度ですね」
「そうですか」薙沢は一拍置くと、言った。「ちなみにですが、鳴海さんが御結婚されることはご存知でしたか」
 吉高は言葉に詰まった。刑事の口からは非日常的な言葉しか出てこない。
「……いいえ」
「そうですか。ところで吉高さんは昨夜十八時半から二十時半の間、どこで何をされていましたか」
「アリバイですか。俺が聖子を殺すはずがありませんよ。五年も会っていないんですから」
「一応、皆さんにお聞きしていることなので」
 吉高は昨夜のことを思い返した。
「七時頃に新大久保のラーメン屋で夕食を摂りました。店を出たのは七時四十五分頃だったと思います。それから高円寺のアパートに電車で帰りました。帰宅したのは八時半頃だったと思います。ラーメン屋は常連なので、大将に話を聞いてもらえればわかると思います」
「わかりました。ご協力ありがとうございました」
 そう言うと、二人は顔を見合わせ踵を返した。ドアが開き冷たい風が吹き込んだ。だが吉高の体は内側から火照っており、木枯らしでは身震いすらしないほどだった。
 刑事が車に乗り込むのを見つめていた吉高ははっとしてスマートフォンを取り出した。インターネットで「鳴海聖子 事件」と調べるとすぐにいくつもの記事が引っ掛かった。一番上の記事をタップすると、物々しい見出しが吉高の脳を揺らした。
「四人目の十字架の天使 浅草で二十五歳女性死亡」
 十字架の天使――あまりニュースを見ない吉高でもその名は知っていた。数ヶ月前から都内で発生している連続猟奇殺人だ。被害者は胸を刺されて殺された後、なぜか傷口に十字架が突き立てられているといういかにも変態思考の強い猟奇事件だ。
 被害者はいずれも女性であることから吉高は他人事として事件を見ていた。
 まさか聖子が被害者になるとは……。
 目を瞑り、彼女の冥福を祈った。今にも大粒の涙が溢れて来そうになったが、苦しさを噛み殺して何とか耐えた。
 だが、どうして聖子が殺されなくてはならないんだ、と怒りが込み上げてきた。
 これまで読んだネットニュースでは十字架の天使を生み出す殺人犯は快楽犯で、無動機殺人が繰り返されていると書かれていた。何の罪もない聖子がその事件に巻き込まれたことを思うと、悔しくて仕方がなかった。
「ちょっといい?」
 声を掛けられ、吉高は重い瞼を上げた。いつのまにか握りしめていた拳を開き、フロントで客に対応した。声を掛けて来たのは三時間コースを利用している明智哲人という男性客だった。今日が初めての来店だが、寝癖だらけの長髪が印象的で記憶に残っていた。フロントにはもう一人店員がいたが、客は吉高に話し掛けていた。
「何でしょうか」声が掠れた。
 明智はフロントに両肘をつき、頬杖をつきながらこちらを上目遣いに見ていた。その体勢のまま彼は言った。
「君鳴海聖子の知り合いなんだ?」
「ええ……そうですが」
「仲良かったんだって?」
「まあ、昔は」
「ショックでしょ」
「それは、もう」
「鳴海聖子と会ってなかったのは本当?」
 さっきの刑事との会話を盗み聞いていたのだろう。明智は躊躇なく訊いてくる。その遠慮のなさに腹が立った。
「あの、明智様。勤務中ですので、私的なお話は控えさせていただきます」
「もう一回呼んで」
「はい?」
「名前、もう一回呼んで。やっぱり良い響きだからさ」
 面倒な客だ。吉高は足元のごみ箱を蹴り飛ばしたいのを必死に我慢した。
「明智様、現在私は勤務中ですので」
「ああ、いいねえ」
 明智はスウェットのポケットに手を突っ込むと、長方形の白いものをフロントに投げ捨てた。
 拾い上げるとそれは名刺で、「左向哲人」と記載されている。名前と一緒に探偵事務所の住所、電話番号が併記されていた。どうやら彼は私立探偵らしい。
「それが本名、明智は偽名だよ。一度話が聞きたくてね、その住所に来てもらいたい」
「サコウ様……でよろしいでしょうか」
「ああ、そうだよ。様はやめてくれ」
「あの、話というのは」
「鳴海聖子が殺された事件だよ。今日もそれを調べるためにここに来た。婚約者がここのネットカフェを頻繁に利用していたのを知ったからね。まずは最も身近な人間のことを考えようと思って。思いがけず小松諒太のアリバイを耳にすることもできた」
「今話すのじゃだめなんですか?」
「ぜひ事務所に来てもらいたい。話はそこでだ。それに君には一つ頼みたいことがあるからね」
 そう言うと左向は支払いを済ませて店を出た。吉高は名刺をごみ箱に捨てようかと思ったが、どうも気になって捨てられなかった。
 探偵が自分に頼みたいこととはいったい何だろう。

2-2へと続く……

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