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連載長編小説『滅びの唄』第二章 歌姫の声 4

 それからというもの、杉本は日常業務の傍ら、直近半年間の劇場の使用状況について調査を行った。半年間に開催されたコンサートは全部で十六回あった。内訳はこうだ。
 株式会社清樹二ヶ月ごとに計三回のコンサート。
 室内管弦楽団の特別屋外四重奏演奏会一回。
 アマチュア・バンド三組、その内の一組が二度コンサートを開いて計四回。
 学生バンド四組がそれぞれ二回ずつの計八回。
 平均すると一月に二回から三回、公演が行われていることになる。
 この内入場無料の公演は株式会社清樹の三度だけであり、他の公演はいずれも有料となっていた。この半年間に一度だけ公演を開いた室内管弦楽団は地方にも一定数のファンがいるらしく、S市での屋外公演を珍しがって盛況したそうだ。アマチュア・バンドの三組はいずれにもコアなファンがついており、学生バンドに至っては学内の友人やバンドメンバーの知人が公演に駆けつけるらしく、それなりに利益が出ている。
 劇場はもはや再起不能の状態ではあるが今もS市の所有地である。そのため劇場を使用するにはS市に利用料を払わなければならないのだが、学生バンドでも利益が出ている。火災の後、劇場の利用料が格段に安くなったため、アマチュア・バンドや学生バンドは利用しやすくなったのだ。以前は立派な劇場で、プロのアーティストが訪れていたため利用料は決して安くはなかったが、施設維持に費用を掛けない分、現在の利用料は一部の人には大きな味方となっているのだ。
 もしかすると、S市で催される株式会社清樹のコンサートは利用料の安さが故に入場料を取らないのかもしれない、ふと杉本はそう思った。
 火災から二十年が経ち、話題の種ともならなくなった劇場だというのに、今尚こうして人々が足を運ぶということは、音楽を求めている人が一定数存在するということだ。劇場を商業施設に建て替えれば確かに経済は今よりも回るのかもしれない。しかし劇場を建て直せば、それはそれで利益になるのではないだろうか。
 杉本は調査結果を引っ提げ、改めて高橋に撤去の中止を迫った。
「今よりも施設利用料を少し上げれば、市としても利益が出ます。あれだけ荒廃した劇場でもこれだけのコンサートが開かれるんです。先日お話した声の真相がわかるまで施設利用料を引き上げるというのは――」
「施設利用料の引き上げ? そんなもんで何の足しになる。引き上げれば引き上げるだけ利用者はいなくなるだろうよ。それにコンサートが開かれるって言っても劇場が健在の頃と比べれば微々たるものじゃねえか」
「ですから声の真相がわかるまでの間です。今の状態でもコンサートを開こうとする人や、今の状態だからコンサートを開ける人がいるんです。そういう人たちがいるんですから、声の真相がわかるまで利用料を引き上げて、撤去を待ってはもらえませんか」
「声の真相だと? だからあれはただの噂だって言ってるだろ」
「噂じゃ留まらないかもしれないじゃないですか。実際に声を聴いた人だっているんです。僕もそうです。劇場の撤去が前提でも構いませんから、一度だけ劇場に足を運んでみてください。そこで声がしなければ、僕は諦めますから」
 高橋は大きく舌を鳴らした。
「打ち合わせは明日なんだ。今更撤去の中止など口にするなと言っただろ。それとも――」高橋は杉本の手から調査資料を奪って続けた。「この資料を使って先方にプレゼンでもしてみるか? 劇場を取り巻く噂と、多少上げたくらいじゃ黒字にならない施設利用料の話を」
「ですから一度――」
「くどいぞ。前にも言っただろ、おまえは黙って指示されたことをやってればいいんだよ」
 高橋は杉本のまとめた調査書類を両手で持つと、何の躊躇もなく破り裂いた。ビリビリと音を立てて裂かれていく用紙を見ていた杉本の中で、何かが音を立てた。
 明日の打ち合わせに向けた資料を作成して、杉本は退社した。しかし杉本は翠風荘には行かなかった。意図して向かわなかったのではない。胸が重く、体全体が怠かった。そんな時こそ祖母に励ましてほしいと思うものの、足が向かなかったのだ。帰宅してから、杉本は茫然自失として夕食を摂るのも忘れていた。
 翌日、市役所内の会議室で行われる建設会社との打ち合わせを前に高橋に呼ばれた。「撤去中止などと口が裂けても言うなよ」と釘を刺された。
 杉本は、撤去中止を進言する気など毛頭なかった。元々は劇場撤去に何も異論はなかったのだ。学生時代から耳に馴染んだ伝説を目の当たりにし、祖父と劇場の関係性を祖母から聞かされて、柄にもなく躍起になっていただけだ。上司に罵倒されて、心が荒んで、どうしてこれ以上自らを傷つけることがあるだろう。杉本は一晩中それを考えていた。女性の歌声も、祖母から聞いた祖父と劇場の話も、すべてなかったことにすればいいのだ。
 会議の内容を杉本はまともに聞いてはいなかった。高橋と建設会社の責任者の会話を聞き流しながら、必要だと思われる情報だけを手帳に書き残した。時々愛想笑いを浮かべて相槌を打っていると、頬の筋肉が緩くなって涙が出てきそうになった。
「それでは今月にも重機を運び込んで、工事の準備を始めましょうか。準備が整い次第、劇場の撤去を開始致しましょう」
 建設会社の責任者に高橋が応じた。握手する二人に臨席者が拍手を送るので杉本も倣った。手を叩きながら、建設会社の責任者から受け取った名刺に視線を落とした。責任者は前原という男だった。
 拍手をやめると、杉本は「今月中準備開始、それが完了次第撤去開始」と手帳に書き込んだ。書き込んだばかりの自分の文字を見て、ふと思ったことがあった。
「あの……」と建設会社の役員達が帰るのを待って言った。「撤去は来月には始まるということでいいんですよね?」
 高橋は上機嫌に頷いた。スムーズに打ち合わせを進められたからだろう。それに杉本が撤去中止を口にせず、機械的に会議に参加していたことも上機嫌の理由かもしれなかった。
「そう言ってただろう?」
「あ、はい。メモは取っていたんですけど、その件について確認したいことがありまして……」
「何だ、言ってみろ」
「劇場では今後も何度かコンサートが予定されています。それは予定通り開催できるんでしょうか」
 高橋の目が曇った。杉本は耳に反響する心臓の鼓動で脈拍の加速を察した。
「さあ、それはわからん。開催できるという保証はない」
「そうですか……」
 幸い、と言うべきか、現時点では劇場を仮押さえしている状態で、施設利用料を支払った団体はまだなかった。そのため契約違反などには当たらないだろうけど、コンサートを楽しみに待っていた人がいることを思うと心が痛んだ。
 それから、あの歌声はどうなってしまうのだろうか。

5へと続く……

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