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連載長編小説『美しき復讐の女神』8-3

 人間は不思議なもので、その人の好意を知ると無意識の内にその人のことを意識してしまうものだ。明奈と初めて学内カフェで知り合った日から、構内を歩いているとどことなく明奈のことを気にするようになった。どこかから明奈がこっちを見ているのではないか、もしかして同じ科目を履修しているのではないか、と。明奈に恋愛感情が芽生えたわけじゃない。明奈は恋愛対象に非ず、という三浜の認識は今も変わっていない。だが、あの日以来明奈がどんな様子で日々を過ごしているのか、少し気になるところはあった。というのも、明奈がまるで三浜と口を利けず相当落ち込んでいたと瀧本に垂れ込まれたのだ。そのために、三浜は講義を受ける教室で明奈の姿を認めた時、立ち止ったのだった。その瞬間、ばっちり明奈と目が合った。先日はなかった視線の交錯に三浜はどこか安堵した。しかし目が合った直後には、明奈が目線を逸らしていた。それでも三浜は、目線が交錯した瞬間の明奈の目の輝きをはっきりと見て取った。それを見て、どうやら同じ科目を履修していることを柊さんは知っていたのだな、と三浜は思った。
「ここ、いいかな?」
 明奈の座る三人掛けの座席の一つに手を掛け、三浜は訊いた。明奈は困惑してあっちやこっちに顔を振った挙句、静かに首肯した。三浜が腰を下ろすのとほぼ同時に、明奈が座り直したのがわかった。
「この前は――」
 意を決したらしい明奈は鼻に掛かったような甲高い声を出した。この前以上に緊張が見える明奈に、三浜は思わず吹き出しそうになったが、寸前で堪えた。笑われる前に恥を晒しておこうとするように、明奈は顔を真っ赤に染めていた。
「この前は」と明奈は囁くほどの、この前と同じ声量に戻って言った。「時間を作ってくれて、ありがとうございました」
「いいよ、そんなことは」もしかして、内心で感じていた煩わしさが態度に出ていただろうか、と三浜は先日のことを反芻したが、明奈に三浜の顔を見ているだけの余裕はなかったことを思い出し、これは社交辞令としてのお礼だろう、と納得した。「敬語使わないでいいから」
 明奈はかなり控えめに頷くと、机の上のノートを開いた。筆箱から取り出したペンを、その華奢な体から想像通りの骨張った小さな手がノートの中央にそっと置いた。
「この授業、受けてたんだね。全然知らなかった」
 明奈は口元に微笑を浮かべると、刹那こちらに一瞥をくれた。「あたしは、知ってた。三浜君が、この科目受けてるの」
「なら声掛けてくれたらよかったのに」
 明奈は大袈裟なほど首を大きく横に振った。
「そんなの……無理だよ。あたしから声掛けるなんて。今日も、三浜君が遠くの席に座ったら、あたしとても声なんて掛けられなかった」
 三浜は次の言葉を口にするかどうか、少し迷ってから言った。
「今日俺が声掛けたの、迷惑だった?」
 明奈は反応に困ったようで、刹那息を呑んだ。だが、それは返事に悩んでいるふうではなかったため、三浜に不快感を与えるものではなかった。明奈は返事に際して生まれる照れとせめぎ合ったがために、返事に困ってしまったのだった。明奈はかぶりを振った。
「迷惑じゃない。でも、びっくりした」明奈が教室前方を意識したのは、教授が入室したためだろう。彼女は続けた。「この前、あたし完全にやらかしたと思ったから。失望させちゃったと思ったから。だからこうして三浜君のほうから話しかけてくれて、びっくりした」
 明奈の感覚は、ある意味では正しく、ある意味では間違っていた。確かに三浜は先日のカフェでの明奈に好感は抱かなかった。だがそもそも明奈に対して何の期待も抱いていなかったため、失望などするはずはないのだ。ただ、それはやはり三浜が明奈を一目見て、彼女は恋愛対象ではないと判断したことによる。つまり三浜は、明奈に失望はしていないが、だからといってこの先恋愛関係が発展することはないと確信していた。この点は、明奈にしてみれば失望されたのと同じ意味なのかもしれない。明奈には残酷なことかもしれないが、三浜には凛という、唯一無二の存在がいる。明奈に女性としての魅力が欠如しているとは言わないが、凛と比較すると、三浜を惹きつけるだけの魅力は明奈に備わっていなかった。
「ノート取れてる?」
 講義が始まってしばらくして、三浜は訊いた。授業前に話した際、明奈がノートを開いた時にそっちを窺ったが、彼女のノートにはその生真面目さを示すようにびっしりと文字が並べられていた。中には図を描いている箇所もあり、なかなか凝ったノートになっていた。しかし今は、講義が始まってから結構経つのに、明奈はノートにほぼ何も書いていないのだった。
「大丈夫。こういう日も、ある。三浜君はノート取らないの?」
「ああ、うん。こうして出てるだけマシなほうだよ」
「この科目、期末試験だし、ちゃんとノート取っとかないと……単位落としちゃう」
「それならそれでいいよ。単位なんて取ったって仕方ないし」
「え?」
「でも柊さんは集中しないと。ちゃんと卒業もしないとだめだ。そろそろ集中しないと、さっきから教授が俺達のこと気にし始めてる。注意されるのも時間の問題だよ。顔覚えられたら面倒だし、そろそろ黙ろうか」
 三浜は鼻で静かに笑った。うん、と明奈が頷いたが、どこか呆気に取られたようだった。きっと俺が横にいるから緊張して、普段通りノートが取れていないんだ、と察した三浜は、明奈の緊張をほぐそうとあえて声を掛けたのだが、どうも肩の力が抜けないらしい。その後も三浜は、教授のほうに顔を向けながら明奈の様子を横目で窺っていたが、やはり講義に身が入っている感じはしなかった。三浜は横目で窺っていたわけだが、何度か視線が合ったような気がするし、何度も消しゴムを落としたり、何度もシャーペンの芯を折ったりしていた。それを見て、三浜は口の中で微笑んでいた。緊張が全面に表れたその様子に、明奈の素直さを見出したからだ。柊さんは良い人なんだろうな、と三浜は思った。嘘が下手というか、素直で健気な一面を持っている。打ち解けたら、和やかな彼女の雰囲気に愛着が湧くかもしれない。だが、それでも凛の魅力には敵わない。超人的な、ひょっとすると悪魔的と形容することが可能な、凛の危険で妖しい魅力には、たとえ明奈以外の女性であっても敵わない。敵うはずがないのだ。いつ、どこにいても、明奈を見ていても、凛の姿を求めてしまう。それは明奈の一面が凛に似通っているからではなかった。誰を見ても、どこを見ても、凛がいないだけで物足りなさを覚える。虚無感を覚える。目の前を通り過ぎる女性が凛の顔をしていないと、焦燥感を覚える。三浜は明奈と知り合って以来、一層凛の魅力に取り憑かれてしまったのだった。
 その夜、三浜はセイレーンに足を運んだ。店内に入った時、出迎えた玲華が意外そうな顔をした。
「あら、予約……してないよね?」
「凛はいますか」
「いるけど、今日三浜君をもてなす暇はないわ。他の子なら、当てられると思うけど」
「一目だけ、一目だけでも会わせてもらえませんか。この前話したことで、どうしても確認したいことがあって」
 玲華はシャンデリアの明かりを照り返す黒々とした長い睫毛を伏せて、また開くと言った。
「そこに掛けていてくれる? ちょっと確認してくるから」
 三浜は言われた通り、入り口から入ってすぐの赤いソファに腰を下ろした。玲華に指定されたソファの色を見た瞬間、三浜はついていると思った。赤、とは凛を象徴する色だからだ。玲華が普段青のドレスを身につけているように、凛はいつも赤のドレスを着ている。時々手に持っているポーチも赤だし、爪の色やハイヒールまでが赤で統一されている。そして凛は、その赤がよく似合うのだ。
 だから玲華が戻ってきた時、凛の姿がなかったのにはひどく驚いた。落胆する余裕を取り上げられてしまったみたいに、三浜はただ驚くことしかできなかった。
「今日はやっぱり厳しいわね。悪いけど、またの機会にしてくれる?」
「一言だけ、玲華さんから伝えてもらえますか」
玲華は一拍置いて、口を開いた。
「何?」
「この前話してたこと、ちゃんと考えてくれてるのかって訊いてもらえますか」
 玲華は三浜の願いを受諾すると、ホールから消えて、またすぐに戻ってきた。
「ちゃんと考えてるから、それについては次の来店の時に話し合いましょう、だって」
 三浜はその返事に有頂天になった。
 かなり酒が入っていたこともあり、三浜は凛がデートの約束を覚えていないのではないかと懸念していたのだ。前向きに考えると言っていた凛の言葉は確かなのだ。
 今日は凛とワインを飲めなくとも、その言葉だけで歌舞伎町を堂々と歩いて行ける。
「それから、大将があの日のこと気にしてたわ。浩介あれ以来店には来てないかって」
「何て答えたんです?」
 大将に連れて来てもらった時にあれほど不愛想な態度を取り、その上大将に失礼なことまで口走ったのだ。それなのにセイレーンに頻繁に通っていることが知られたら、大将は不愉快極まりないことだろう。憤るに決まっている。もし玲華が大将に三浜の現状を伝えていたら、今後セイレーンで、凛の横で酒を飲んでいても、居心地が悪くなるかもしれない。
「あれから一ヶ月ほど経ってから来店して、あの時は申し訳なかったと謝りに来られた、と言っておいた。その際何とかおもてなしして、満足してもらえるよう努めたって。また気が向いたら来店するらしいとも言っておいたわ」
 三浜は玲華の言葉を復唱し、頷いた。玲華の即興シナリオは、今後大将とセイレーンで鉢合わせても気まずくないものであった。三浜は玲華に深々と頭を下げた。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます」
「わざわざこんな話作ることなかったんだけどね」玲華は苦笑した。「大将、今度浩介がセイレーンに来たらまたよくしてやってくれって、言ってたから。もし不愛想な態度取るようなら、俺があいつのことボコボコにするからって」
「相変わらずだ。寛大だけど短気な人ですからねえ」そう口にしてから、三浜は店内を見回した。こういう発言をした時に限って、いつも大将は近くにいたものだ。しかし今は、居酒屋の営業時間中なのか、大将の姿はなかった。「大将って、いつも何時ぐらいに来ます?」
「うーん、日付が変わって少ししてからかな。それに、来ても二、三ヶ月に一度くらい」
 それなら三浜と大将がセイレーンで鉢合わせすることもなさそうだ。三浜はいつも、日付が変わった頃に帰宅する。
 来客があって、玲華は入り口のほうに離れていった。来店したのは五十過ぎと思われるサラリーマンだった。長崎に出張でもしていたのか、手土産にカステラを持参していた。
 セイレーンに来るお客様はケチなおじさんばっかり……凛の言葉を思い出した。
 三浜は手土産にブランド品を何点も持参して、先日凛に見直された。それは今来店した客などよりも三浜のほうが上得意客に今後なっていく可能性を秘めた言葉だった。三浜は来店したばかりの男性客に対して、優越感を抱いた。
 あの客には、若さもなければ金もない。
 すべてにおいて、三浜はあの客よりも優れていると感じた。が、五十過ぎのサラリーマンの席に、赤いドレスが向かっていた。
 凛である。
 どうしてこんな男の席に――三浜は込み上げる怒りを抑え切れず、凛のほうから顔を背けた。
 そして、凛のほうを見まいと心掛けながら、店を後にした。

 授業開始直前に三浜は教室に入った。先週明奈のことを紹介されたから、今日も乃愛は明奈の話題を持ち出すだろうし、三浜は明奈について乃愛と話すのは面倒なので、わざと時間を遅らせて登校した。ところが案の定乃愛に捕まり、やはり話題は恋愛について展開された。
「浩介って、好きな人いないんだよね? ああ、逆にこう訊いたほうがいいのかな。浩介って今好きな人いる?」
 凛のことを想い、頷き掛けたがやめた。頷けば乃愛に詮索されるのはもちろん、この手の話は瀧本も興味があるだろうから、二人から追究されることは目に見えていた。それに三浜が想いを寄せるのがホステスとなれば、二人はたちまち反対し、明奈を推して来るに違いない。
「いない」と三浜は二人に背を向けて言った。
「明奈はどう? 美人じゃない?」
「ああ、乃愛よりは」
「またまたー、浩介冗談言って」
 三浜は背中を小突かれた。乃愛の手が背中を叩いたのだと思ったが、振り返ると瀧本が、さらにもう一撃繰り出そうと構えているところだった。だが顔は笑っている。今度はばしっと肩を叩かれた。乃愛がさらに話を広げようとしたが、ゼミが始まった。開始直前に登校して正解だった。三浜は胸を撫で下ろした。

9へと続く……

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