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連載長編小説『別嬪の幻術』7

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 次に受ける講義で使用する教室の、一つ前の授業が少し早く終わった。講師が「今日はここまで」と言うのと同時に僕は教室に入った。講義室は電車ではない。出る者優先というマナーはない。そんなマナーがあれば、授業開始二分前まで廊下に立っていることになる。今日も一人の学生が、授業が終わるのを待っていたかのように、そそくさと講師の元に行き、質問をしている。意欲的なのは結構だが、もし僕達が退室完了を待つようなお人好しなら、その意欲は迷惑でしかない。僕は最後列に腰を落ち着けた。三人掛けの長机の右端だ。
 まもなく千代がやって来て、後ろ姿の僕を見つけ、同じ長机の左端に座った。肩に提げていた鞄をするすると下ろしながら、眠そうなおはようを言う。全然グッドモーニングではなさそうに思えた。実際、グッドモーニングではなくなる。
 僕が話を切り出す前に「昨日どうやった?」と訊いて来た。特に発見はなかったと答えると、千代はどうでもいいことのように小さく首を縦に振った。やや唇を突き出していた。続いて何時に帰ったのかと問われ、午後八時半頃だと答えた。なぜそんなことを訊くのかと思ったが、特に意味はなかったようで、適当に相槌を打つと、今日泊まりに行ってもいいかと訊かれた。明日は土曜日だ。佐保が殺されてからまだ三日目だが、三ヶ月以上歩き続けたのかと思うほど、体は疲れていた。神経が擦り減っている証拠だ。刑事を仕事としている野々宮には頭が下がる。絶対に頭は下げないが。
 今夜泊まりに来ることを了承し、僕は話題を変えた。九月二日の午後四時頃、どこにいたかを訊いた。千代は面食らった様子で、顔をしかめていた。何でそんなこと訊くん、というのが彼女の答えだった。僕ははっきりとは答えず、返事を催促した。しかし千代は「そんな前のこといちいち覚えてへんわ」と記憶を手繰ろうともしなかった。
「覚えてるはずだ。その日は東京にいた。俺の帰省に合わせて旅行に来ただろう? その期間だよ」
 そうやっけ、と覚えていないのか惚けているのかわからない顔で千代は首を傾げてみせた。ちょっと待ってな、と言うと千代は写真を見返した。インスタグラムに上げていた写真の日付を見れば、その日どこにいたかがわかるからだろう。軽くスクロールすると、そこで千代は指を止めた。
「ああ、ほんまや……。九月二日、東京行ってたなあ。四時頃やったら真綾と明治神宮にいた頃やわ」
 だよな、と僕は呟いた。事件現場となった永田町から明治神宮まで、観光客である千代と真綾の移動手段は電車だろう。電車だと少なくとも三十分以上は掛かる。歩いてだと当然その倍以上の時間を要す。仮に二人が犯人だとして、永田町で駒場敬一を殺害した後、四時半頃までに明治神宮にいることは不可能だ。
「何でそんなこと訊くん?」
「いや……何でもない」
「あたしのこと疑ってんのん?」
 いやいや、と慌てて否定した。苦笑交じりになってしまったせいで、否定にならなかったかもしれないが。千代は頬を膨らませ、続けた。
「そもそも九月二日って何? 洞院さんが連れ去られた日? 別の事件が起きてたん? それやったら、東京にいたあたしが京都で事件なんか起こせるわけないやんか」千代は画面に目を落とすと、一気にまくし立てた。「ほんで見てみいや。九月二日の四時十五分から、栄一とテレビ電話してるし。その時あたしら明治神宮おったやろ? このこと覚えてた? 何かが起きてたその時間、あたしはリアルタイムで栄一と話してたんやで。顔出して、横には真綾もいて……」
「覚えてる。覚えてるから。念のために訊いただけ」
 千代の言う通り、九月二日の午後四時過ぎから僕と千代はテレビ電話をしていた。実家で羽を休めていた僕の元に千代から電話が掛かって来たのだ。細かい内容は覚えていないが、彼女は僕に休めているかと訊き、僕は彼女に楽しんでいるかと訊いた。千代はさっきまで竹下通りにいたことを話し、これから明治神宮を参拝することを報告した。そこに真綾が呼ばれ、千代と同じ画面に収まった。二人とも確かに明治神宮にいた。アリバイはある。それを証明するのは他でもない僕で、疑いの余地はなかった。
「今日は風見君来てはるな」
 不愉快な話題を切り捨てるように、千代は顎をしゃくった。教室の右端にがっくりと肩を落とした風見が座っていた。背中が灰色に見えるほど、陰険な雰囲気を漂わせている。そのせいか、風見の回りの席に学生はいない。とても大丈夫そうには見えないが、大学に来られるくらいならひとまず安心だ。
「あとでお昼誘おう」
「来てくれるかなあ」
「それでも誘うんだよ。だめでも、声だけは掛けよう」
 わかった、と千代は頷いた。こんな時、そっとしておいてほしい気もするが、奇怪な目に嬲られるだけよりは、友人が寄り添ってくれたほうが気は楽だろう。自分から話し掛けられる状態ではないだろうから、誰かが歩み寄ってやらなくては。
 講義が始まった。僕はまるで授業に耳を傾けず、座ったまま腕を組み、一応机の上に出しているノートの罫線を睨んでいた。
 考えていたのは、真綾のことだ。真綾のことはそれほど詳しく知らない。だが千代に聞いた話では、母子家庭に育ち、高校生の頃に母親を病気で亡くしたそうだ。末期癌だったそうで、一縷の望みを賭けて古都大学附属病院で行われた新薬の臨床試験に被験者として加わったが、最後は亡くなった。大学には進学せず、昼は事務員、夜は祇園でホステスをしている。真綾には晴人という弟がいるそうで、年齢は十七歳。まだ高校二年生の弟には大学に行かせてやりたいという思いが強く、祇園でホステスをしているのもそれが理由だ。決して余裕のある暮らしとは言えない中で、こつこつ弟の学費を貯金している……。生活費を切り詰めるほどではないそうだが、食べ盛りの弟に少しでも栄養を与えようとしているらしく、その光景が目に浮かぶように真綾はガリガリだ。
 そんな真綾が千代と共に東京旅行に来たことに、僕は当時から違和感を抱いていた。むろん、真綾が旅行するのは自由だ。ただ彼女は、弟のために一円でも多く貯金しておきたい。そのために自分を犠牲にしているような姉なのだ。疲労やストレスは、常に抱え込める限界値を超えているかもしれない。普段の自分を労うためにガス抜きをする。それは悪いことではない。だが両親を喪ってから、これまでひたすら耐え続けて来た彼女が突然東京旅行に出掛けたことへの不自然さは否めない。不可解だ。何か目的があるのでは……。
 考え過ぎか。僕は頭を左右に振った。
 旅行くらい誰でもする。これまでの努力のおかげで、晴人の進学費用はすでに確保できたのかもしれない。そうでなくとも、弟から「たまには息抜きしておいで」と言われ、偶然にも千代が東京旅行を計画していて、一緒に行こうとなっただけかもしれない。いずれにせよ、真綾と佐保は面識がないし、駒場敬一と繋がりがあるはずもない。歳も離れていれば生活する地域も遠く離れているのだ。高校も、千代と同じということは洞院才華とは別の高校に通っていたということだ。
 そもそも佐保が殺害された事件では関係者に入らない、部外者だ。駒場敬一が殺害された日にたまたま東京にいたというだけで、事件に関わっているはずなどない。仮に動機があったとしても、彼女にはアリバイがあるのだから。
 佐保が殺されてから、何かと疑ってしまう。些細なことでも、事件に関わりがあるのではないかと考えてしまう。ガスを抜かなくてはならないのは僕のほうかもしれなかった。前髪を掻き上げながらふうと息を吐くと、目の前に細い指が飛び出してきた。千代だった。
 いつのまにか、授業は終わっていた。一度も欠伸をしなかったのはこれが初めてかもしれない。だとすれば教授は賞賛されるべきだ。まったくもって、授業が面白かったわけではないが。
 千代は風見のほうを顎でしゃくった。彼は早々とノートを鞄にしまい、立ち上がっていた。僕の目の前には白紙のノートがまだ広がっている。慌ててノートをしまいかけたが、僕はひとまず右手でサインを出した。カスタネットを手で表すような形で親指と残りの指を叩き合った。目の端に映り込んだのか、風見は立ち止り、こちらを見た。僕は手招きした。
 のんびりとノートを片付け、昼食に誘った。カフェでも学食でも、外食でも、よければ奢るよ、と。いつもの風見なら調子よく外食を選んだだろう。だが今日の風見は学食を選んだ。ハムカツサンドじゃなくていいのかと訊いたが、あまり食欲がないと彼は言った。実際学食に入った彼は、素うどんしか食べなかった。しっかりと一人前食べる僕達のほうが、むしろ申し訳なく感じる。いつも千代は、小食の僕にこんな感情を抱いているのだろうか。
 授業前の一幕を根に持っているようで、千代は風見に「栄一があたしのこと疑ってんねん。どう思う? ひどいと思わへん?」と詰るように訊いた。
 風見は大したリアクションも見せず、「栄一、千代のこと大切にしいや」とまるで声が口から地面にぽろりと落ちたような声で呟いただけだった。どうして事件の話題を出すのか、と千代の膝に僕は膝を当てた。千代は眉を八の字に曲げ、反省を示した。
 僕は首を動かさず、目で頷いた。
 しかし不思議な感覚に囚われた。千代は大切だ。だがもし佐保ではなく千代が殺されていたとして、僕は彼ほど落ち込んだだろうか。今となっては千代を好いているし、恋人として満足している。だが当初は、彼女に熱烈に惚れていたわけではなかった。風見と佐保のように共通の趣味があり、同じサークルに所属しているわけでもない、美男美女というわけでもない、学部学科が同じで話す機会があった。それから成り行きで交際に発展した……。
 きっかけは僕が実験を欠席したことだった。たまたま近くで作業していた千代に声を掛け、前回の実験についていくつか聞かせてもらった。それで彼女のことを認識したが、名前までは知らなかった。それから挨拶を交わすようになり、風見が茶化し始めたことがきっかけで、お茶をする機会が増えた。実験ではいつも同じ班になり、同じ作業をした。恋人になってもいいかもしれない、と思ったのは一年の夏季休暇に入る直前だった。教授が洞院才華のレポートを手放しに褒めるので、僕は憤怒を煮え滾らせていた。それを察したのか、千代は「築山君のほうがええの書いてたのに」と言ったのだ。千代とは、一緒に図書館に行き、文献を探した。だから僕のレポートの内容を知っていた。その出来栄えに、僕も満足していた。洞院才華のレポートが後に最優秀論文に選出されるなどとは想像していなかったが、一年の前期のレポートでは群を抜いた出来だと確信していた。それだけに、洞院才華に負けた僕の味方でいてくれたことで、千代に愛着が持てたのかもしれない。その後僕達は恋人になり、早二年が経とうとしている。
 未だに、あの時なぜ千代に声を掛けたのかはわからない。別に彼女でなくてもよかったはずなのだ。それこそすでに親しくなっていた風見に訊けば済んだ話だ。千代に惹かれていたのならまだしも……まるで自分が自分でないような、思い返してみてもそんな感じがした。霊的なことはあまり好きではないのだが、今こうして楽しくやれているということは、運命という非科学的なもので結ばれていたのかもしれない。そんなことを考えながらも、千代が殺されたとしても風見ほど絶望しないのではないかと思う自分も、また不思議だった。
 もしそうなったら、落ち込むより先に復讐に燃えるからかもしれないが。僕なら何としても自分で犯人を見つけ出し、徹底的に痛めつけた後に殺害する。そのためには、落ち込んでいる暇などない。
 ようやく風見も、そうした考えになったらしい。「この事件は俺が解決する。絶対に犯人捕まえたる」
「僕も手伝うよ」洞院才華を見つけ出し、すべて吐かせてやる。加害者だろうが被害者だろうが、何が起こっていたのか、洗いざらい吐かせてやる。
 しかし風見はかぶりを振った。まるで泣き腫らした後のように妙な力を感じる目は決然としていた。これが復讐を決意した人間の目なのだろうか。
「これは俺が解決せなあかん事件や。佐保に聞かされてたこともある。佐保のためにも、俺が解決せなあかんのや。ここは俺に譲ってほしい。行き詰まったら、古都大もう一人の天才の頭脳を借りることになるかもしれへんけど」
 そう言うと、風見は初めて微笑を見せた。そうだ、洞院才華を天才、僕を秀才と分けるのではなく、二人とも天才でいいじゃないか。ただ、もう一人の、と頭についていることが気に食わない。それではやはり、僕は洞院才華の後塵を拝していることになるではないか。天才は僕のほうだ。もう一人の天才が洞院才華なのだ。
「僕をこの大学唯一の天才と言うのなら、この頭脳を貸してやる」
「わかった」と言うと風見は食堂を出て行った。僕と千代も、少しして薬学部棟に戻った。

8へと続く……

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