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連載長編小説『破滅の橋』第六章 希望の橋5
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陽射しが少し弱くなってきた気がする。蝉の鳴き声はもう聞こえないし、河川敷を歩いているとトンボをちらほら見られるようになった。
あっという間に秋やなあと祐里は体を起こしながら思った。珍しく、峯本がすでに起きていてキッチンに立っている。ぼんやりと彼の姿を眺めながら、祐里は息を吐いて立ち上がった。
「もうちょっと横になってていいよ。昨日は疲れたんだろう?」
昨夜は以前からしつこく誘われていた島本との食事に行ったのだった。うん、と祐里は頷く。期待はしていなかったが、正直祐里にとっては苦痛だらけの時間だった。職場の先輩ということもあって常に島本の顔色を窺いながら食べ方ひとつにまで気を配った。祐里はまったく意識していないのに島本が祐里を異性として意識しているせいか、会話もうまく続かなかった。それなのに「伊藤ちゃんには、俺が本気ってことをわかっていてもらいたい」などと告白めいたことをいわれた。
やっと心が休まったのは、帰宅してからだった。
「仕事の一環とはいえ、堅っ苦しい会食はしんどいよな」
「うん。ほんまに」
祐里は苦笑した。
ひどい寝ぐせのついた髪を掻き上げながら祐里はキッチンのカウンターに手を置いた。何をしているのか気になり覗いてみると皿の上にはスクランブルエッグとハム、レタスが載っていた。
料理ができるんだ、と感心したのも束の間、玉子焼きを握り潰したようなスクランブルエッグを見て思わず口を開いた。
「朝ご飯、ありがとう」
「もっとまともなものを作れたら祐里の負担も減らせるんだけど……。スクランブルエッグは小学校の時に調理実習で習ったんだ」
「そうなんや。浩平君が料理できるん、ちょっと意外」
峯本は顔をしかめると、苦しそうに笑った。「料理なんてできないよ。これ以外に作れるものなんてないし」
祐里はカウンターに置かれた皿をテーブルに運んだ。フォークとスプーンを準備しているとトースターが勢いよく音を鳴らした。焦げ目のついた食パンが二枚出てきた。
あのさ、と祐里はいった。彼は食パンを取り出しながら、うん、という。
「私、困ってることがあって」
咄嗟に峯本の表情が曇る。感情を読み取れなくなっていく彼の顔に不安だけが残った。「いきなり何だよ……」
「大丈夫。浩平君のことと違うから」
祐里の言葉を聞いて安心したらしく、峯本は身構える姿勢を解いた。表情も、少しだけ和らいだ。
食パンをテーブルに運びながら、彼は続きを促した。
「じつは、会社の先輩からしつこくいい寄られてて、それに困ってる」それもこれも、峯本との関係性がはっきりしないから生じる問題だ。それを彼がわかってくれれば、二人の関係をはっきりしてくれるだろう。
祐里は、彼の表情を窺いつつ、島本とのやり取りをいくつか話した。
「そんなことが……」峯本はゆらゆらと視線を落としていく。微かに彼の唇が動いた瞬間、彼の表情が翳った気がした。「そんなに嫌なら殺せばいい」
妙にリアルなトーンにどきりとした。祐里は大きな瞳を震わせながら峯本の顔をじっと見たままだ。彼はひどく冷酷な、鋭い目をしている。
祐里は弱々しい笑い声を発した。
「それは大袈裟やわ」大きな声で笑い飛ばしたかった。必死に笑おうとするが顔が引きつってうまく笑えない。ようやく絞り出した笑い声も、失笑となって儚く萎んだ。「ご飯、食べよう。いただきます」
「ごめんな。俺が頼りないから祐里に迷惑ばっかり掛ける」
ううん、と祐里はひとつ首を横に振った。
「それは違う。べつに迷惑なんて私掛けられたことない。むしろ浩平君がいてくれることが、私にとってはたくさんプラスになってるんやから」
そうか、と呟いた彼の顔は、いつもの温かく優しいものに戻っていた。
「でも、私たちのことを公にできたら先輩からしつこく誘われたりすることもなくなると思う」
峯本は険しい表情になり俯いた。「ごめん。俺のせいで」
「浩平君が悪いわけじゃないねん。だから謝らんといてほしい。ただ……ひとついいたいことがあって」
峯本は顔を上げて頷く。視線はまっすぐ祐里を捉えていた。「何でもいってくれ。すべて受け入れるから」
祐里は思わず笑ってしまった。彼女の様子に峯本は困惑顔を浮かべている。体の動きは止まっているのに、瞬きだけは回数が増えている。
「そんな大そうなことじゃないで。そんなふうに構えられたら、話す私が恥ずかしくなっちゃうやん」
ごめん、と峯本は謝った。それを見て祐里は思わず溜息を吐きたくなる。彼は本当にごめんが多い。
「それで、いいたいことって?」
祐里はうん、と頷いてからいった。「あんまり気を遣わなくていいからさ、もっと私を頼ってほしいの。この前だって、ちゃんと話してくれたら交通費くらい私が出したのに」
先日梨沙から聞いた話がずっと胸の中に蟠っていた。彼に工藤のような信頼できる友人がいたことを知ったのは嬉しかったが、心のどこかで祐里は工藤に負けた気がしていたのだ。峯本の中で、祐里はまだ工藤ほど信頼されていないのだ。
この前、と峯本は眉根を寄せて呟いた。しばらく思案を続け、何かに思い当たったのか、「まさか」といって祐里を見返した。「母さんのこと……」
うん、と祐里は神妙な顔つきでいった。梨沙は、祐里に心配かけたくないのだといったが、祐里は彼と一緒に心配したかった。大切な人の母親なのだから。
私と翔太君、どっちのほうが信頼できるの? そう訊きたかった。しかし祐里は逸る気持ちを抑え込んだ。
「わかった。でも祐里に余計な心配掛けたくなかったんだ」
「私なら大丈夫やから。余計な心配、掛けてくれていいねん。突然いなくなったら、そっちのほうが余計に心配しちゃう」
そうか、と峯本は囁くほどの声でいった。「ごめん」
「また謝ってる。もういいから。そんなに謝らんで」
うん、と彼は項垂れるように首を折った。
「それで、お母さんの具合は?」
「疲労が溜まって倒れたらしい。二三日で退院できるって」
「そっか」何か大きな病気ではなく安心した。「良かった」
祐里は峯本に笑い掛けたが、彼の表情が変わることはなかった。どこか味気ない。それなのに、彼の作ったスクランブルエッグは、やけに塩気が強い味付けだった。
6へと続く……