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連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 14-2

 昼食を摂った後、天羽は阿波野と丹生脩太の元恋人に当たってみた。二人の居場所は幸い掴めたものの、結論から言うとあまり踏み込んだ話を聞くことはできなかった。丹生脩太の絵のモデルを務めた過去は、相当なトラウマとして今も残っているらしい。
 堀内葉子の実家の弁当屋は築地にあった。築地市場の只中にある弁当屋は年季が入っていて、創業以来触れていないという外装にはそれだけの歳月が染み込んでいるようだった。市場にもよく馴染んでいる。その弁当屋に堀内葉子その人はいた。
 赤のエプロンに赤の三角巾がよく似合っている。高い鼻の横顔を一目見て、日本人離れした美人だなと天羽は思った。その横顔はまるで彫刻のようで、美しい。華奢な体つきは肩や肘の出っ張りが服の上からでもわかるほどで、肉がついているというよりも皮が張ってあるといった印象だ。背が高い分、余計に細く見える。
 事情を話すだけで堀内葉子は顔をしかめた。それだけで丹生脩太のことを思い出すのに抵抗があるのだと天羽は察したが、これは殺人事件の捜査であり、引いては真太の失踪事件の真相に繋がる聞き込みなのだ。配慮して何も聞かずに帰るわけにもいかない。
 堀内葉子は丹生脩太と同い年の三十一歳だ。出会いは彼女が高校生の時だった。彼女が、というのは、丹生脩太は高校には通っていなかったからだ。その高校時代、友人との食事会に丹生脩太が同席していた。彼女の友人の知り合いが丹生脩太の中学時代の同級生だったのだ。殆ど合コンのような形だったという。
 惚れたのは丹生脩太のほうだった。彫刻のように美しい顔立ちをした堀内葉子に画家として、あるいは単純に男として惹かれたのだろう。その後丹生脩太と二人きりで何度かデートを重ね、やがて交際へと発展した。当時の印象は穏やかで優しく、愛情表現も豊かだったそうで、彼女自身は深く愛されていると実感していたらしい。特によく覚えていることは、丹生脩太が弟皓太の話をよくしていたことだった。彼女自身、皓太とも何度か会ったことがあると言う。彼の家庭環境については交際に至ってまもなく聞かされたという。画家として活動していることも承知していて、休日などは彼のアトリエでもあった自宅マンションに手作りの弁当を差し入れていたそうだ。天羽はペンネームについて知っていたのかと訊いたが、丹生脩太は本名で活動しているとしか言わなかったらしい。アトリエに保管されている絵もすべて風景画で、疑う余地はなかったと堀内葉子は言った。
 それだけを聞いていると、高校生にしては少しドラマチックな恋愛話である。だが丹生脩太は、ある日豹変した。
 そこまで語って聞かせたところで堀内葉子は声を詰まらせた。画家との恋愛というやや特殊な思い出を懐かしんでいる様子はすでになく、目をしかめ口元を歪めて奥歯を噛んでいた。
 肖像画のモデルを頼まれたのだ。交際を開始してからおよそ一年が経った頃だったそうだ。丹生脩太は優しく微笑み掛け、「君を描きたいんだ」と囁いたという。せっかくだから記念に描いてもらおうと堀内葉子もすぐに受け入れたという。むしろモデルを頼まれた時はお花畑でワルツを踊っているような気分になったという。
 耳を疑ったのは、服を脱ぐよう言われた時だったそうだ。すでに肉体関係は結んでいて彼に裸を見せることに抵抗はなかった。が、絵になるのは別だと思ったらしい。堀内葉子はヌードモデルを頼まれたとは思っていなかったのだ。
 その後丹生脩太の手によって堀内葉子の肖像画が描かれたわけだが、その時の仔細はわからない。堀内葉子は言葉が幻に消えたみたいに訥々と、「ナイフで両肩を切られて、痛くて泣いて、でも彼は絵を描いていて……」と要領を得ない様子で話すだけだった。
 その時の、いつもとはまるで別人の丹生脩太を見て震え上がったという。その後堀内葉子はすぐに別れを切り出した。丹生脩太は戸惑ったようだが、それ以降会うことも連絡を取ることもなくなったという。
 天羽はスマートフォンの画面を堀内葉子に向けた。築地に向かう車内でビッザロの肖像画を検索していた。君島辰斗が足を運んだと思われる個展の時に撮影された写真がネット上には多く上がっていて、その中に今彼女が話した内容と一致する肖像画があったのだ。それは正面ではなく体は斜めを向いていて、そこから顔はさらに横を向いている。キャンバスに浮かび上がる横顔は彫刻のようで、やはり丹生脩太も彼女の横顔に芸術性を見出していたのだと天羽は思った。彼女の横顔は絶品である。その横顔のすぐ下に覗く露出した肩には出血が描かれている。まるでキャンバスの中の女性が本当に血を流しているように……。
 その絵を見ると、堀内葉子は目を瞠り、何度も大きく息を吸った。モデルをした時のことがフラッシュバックしてしまったのかもしれない。その様子を見て、天羽はすぐにスマートフォンの電源をオフにした。
「この時つけられた傷は、今どうなっているのでしょう」
「もう十年以上前の話ですから、傷は小さくなっています」
「でも残っているんですね?」
 天羽はネット上で『血に溺れた女』も見た。その絵は君島辰斗が言ったように電子版で見ても血の臭いが漂ってくるような悍ましい絵だった。まず目が行くのが表題の通り血に溺れた女性の体だ。女性は全裸だが、胸元や陰部などは大量の血液で隠れるようになっている。絵画に使われた血液は女性の顔や手足、背景など、キャンバスの至る所にその色を落としており、大量の出血で意識が遠のくモデルを写実的に描いたのか、顔色は悪く目にも力がなかった。『血に溺れた女』と比べると堀内葉子の出血は微々たるものに思えるが、今も傷が残っているということは、傷はかなり深い。当然その分痛みを感じ、出血もある……。そして傷は一生残るかもしれないのだ。
 丹生脩太のことを恨んでいて当然だろう。だがそれについて訊くと、恨むことすらできないほどのトラウマなのだと彼女は話した。恨むのではなく、忘れたい。仕返しなどを考える以前に会いたくない。それが本音だという。堀内葉子は天羽に責めるような目を向けて、できることなら思い出したくなかったと言った。
 最後に一つ、もしかすると心苦しい思いをさせるかもしれないがと断った上で、天羽は一枚の写真を見せた。それは現場に残された、鮮血に染まった刃物だ。
「丹生脩太があなたの体に傷をつける時に使ったのは、この刃物ではありませんでしたか」
 堀内葉子は息を呑み、目を瞑ってしまった。彼女の名前を呼び掛け、もう写真はしまったと言っても、彼女はその瞳を見せようとはしなかった。ただ確かに、堀内葉子は僅かながら首を縦に振った。確認のためもう一度訊くと、彼女はやはり頷いた。今度は阿波野も確認できるくらい大きな動きだった。
 現在の想いに関しては、小口凛花が同様のことを口にした。彼女もまた、丹生脩太の絵のモデルを務めて深い傷を負った一人なのだ。
 小口凛花は今年に入って結婚し、姓が変わっていた。現在は粟田というのが彼女の姓だが、天羽は丹生脩太と交際していた当時の名前で呼ぶことにした。小口凛花は上野のマンションで四歳歳上の夫と暮らしていた。現在は専業主婦のようだ。
 やはり好みというのは人を見る時の軸としてそれぞれ持ち合わせているのだろう、と天羽は思った。小口凛花も堀内葉子同様、華奢な体つきをしていた。顔はまるで違っていて、小口凛花は目尻の垂れた狸顔で、美人というよりは愛嬌のある女の子らしい顔をしている。ただ華奢な体つきの中でも彼女が堀内葉子と違うのは、小口凛花のほうはやや丸みのある体をしていて、遠目に見るとややふくよかに映るような、つまり女性らしい肉感が備わっていたのだ。身長も堀内葉子とは対照的で、百五十五センチとのことだった。
 一方で、小口凛花は歳上を好む女性のようだった。彼女は現在二十九歳。丹生脩太の二つ歳下だ。そして現在の夫は四歳上……偶然だろうか。これまでの恋人も、たぶんすべて歳上だと天羽は勝手に思った。
 二人の出会いはナンパだったそうだ。小口凛花が友人と公園で写真を撮っている時、ちょうどその公園の風景画を描いていた丹生脩太に声を掛けられたという。それから親交を持つようになり、やがては交際へと発展していくのだが、今回は二人が恋人になるまで少し時間が掛かったそうだ。というのも、小口凛花はナンパには硬派で、言い寄って来る男性と付き合うことはそれまでして来なかったのだそうだ。そのため丹生脩太と知り合った後もすぐには心を開かず、交際までに二年の期間を要している。小口凛花が二十二歳の時に知り合い、二十四歳で恋人になったそうだ。それから二年近く交際したが、やはり丹生脩太が絵のモデルをさせたことで二人は別れることになった。
 ナンパ男をことごとく返り討ちにしてきたことからもわかるように、小口凛花はかなり勝気な性格だった。これまでの恋愛でも、交際のきっかけは常に彼女のほうが作って来たらしい。ただし、告白をしたことはないとのことだ……。
 そうした性格もあって、交際中の二年間、喧嘩も多かったという。特に小口凛花は丹生脩太の画家としての地位を聞かされていなかったため、定職に就くべきだとよく窘めていたらしい。しかし聞く耳を持たない彼に彼女は感情的に言葉を浴びせ、そこから怒鳴り合うこともしばしばあったそうだ。他にも丹生脩太の生活リズムや食習慣など、細かいことでもたくさん喧嘩をしたと彼女は語った。すべて彼を思ってのことだったが、自分の言葉は一向に彼には響かなかったと無念そうに肩を落とす。
 当時の彼女の注意を素直に受けていれば、丹生脩太はもっと長く生きることができたかもしれない。彼の病気のことを知ったら、小口凛花は自業自得だと吐き捨てるに違いない。
 本題に入ると、やはり小口凛花は声を落とした。脇腹の辺りに手を当てて、頬を引きつらせている。どうやらそこを刃物で傷つけられて、血の肖像を描かれたらしいと天羽は思ったのだが、今回はそんなものではなかった。
 小口凛花はヌードモデルまでは許容できた。だがナイフを突き立てられた瞬間、これから行われる行為をあれこれと想像してしまい、じっとしていることに耐えられなかった。考えるより先に体が拒否反応を示し、力一杯抵抗した。抵抗する小口凛花を力づくで押さえつけようとした丹生脩太と揉み合いになり、その拍子に脇腹に刺さったナイフは争っていた分深く刺さった。幸い命を落とすことはなかったが、彼女は気を失った。応急処置は行われたものの、丹生脩太はそのまま絵を描き続けたという。
 小口凛花がモデルの血の肖像は、ソファに横たわる失神した女性の脇腹から今も少量の血が流れ出ている、そんな絵だった。全裸で横たわっているせいか、堀内葉子の肖像画よりも艶めかしい雰囲気を感じる一枚に仕上がっていた。
 天羽はまず、樽本京介殺害事件の凶器として確定しているナイフについて訊いた。すでに堀内葉子の証言がある。その証言をさらに正確にするためにも、小口凛花からも言質を取りたい。丹生脩太だって、そう何本もナイフを持っていたとは思えない。おそらく血の肖像画を描く際は、いつも同じものを使っていたはずだ。
 その予想は正しかった。小口凛花は堀内葉子と同様に首を縦に振った。ショッキングな記憶というのは強烈に残るものだが、やはりその記憶の一部として、その刃物ははっきりと残っているのだそうだ。
 続いて丹生脩太への恨みについて訊いたが、堀内葉子と同じような答えが返って来た。意識を取り戻した後なぜ警察に被害届を出さなかったのかと訊くと、錯乱していて当時のことをよく覚えていないため、状況を正確に説明できないと思ったことが一つ、丹生脩太から警察に通報して芸術を損なわせるようなことはするなと脅されていたことが理由だと答えた。その時の丹生脩太の顔を思い出すと、今でも恐怖に身が竦むという。
 その後小口凛花は鬱の症状がみられていたが、現在の夫と出会い、深く愛されることで回復したのだという。
 一応、小口凛花にはアリバイを確認した。堀内葉子は丹生脩太が失踪した時、店頭に立っており、その様子が防犯カメラの映像にも記録されていた。しかし小口凛花にアリバイはなかった。丹生脩太に会いたくもないというのは嘘ではないだろうが、勝気な性格なだけあって、ある時復讐を決意したかもしれない。復讐を思い立つきっかけは、今もその体に刻まれているのだから。毎晩風呂に入る度に物騒なことを想像していても不思議ではない。それだけのことを丹生脩太はしてきたのだ。
 そういう意味では、とりわけビッザロのデビュー作が気掛かりだ。出血の量は、すべての絵を見渡しても『血に溺れた女』が突き抜けている。この絵のモデルの女性が最も強い犯行動機を持っていると考えてもおかしくない。天羽は小口凛花にその絵のモデルについて訊いてみた。肌の艶などを見ていても、描かれた当時、この女性は大学生くらいだったのではないだろうか。この質問には堀内葉子も小口凛花も首を横に振った。モデル同士の繋がりなどは一切ないらしく、ましてデビュー作となると彼女達が中学生の頃の話である。丹生脩太以外の誰かがモデルの正体を知っているはずはなかった。
 その予想は正しく、この後丹生皓太、君島辰斗にも『血に溺れた女』のモデルについて訊いたが、揃って首を横に振った。その後堂島総合病院に足を運んだが、堂島母子は不在だった。そういえば、見合いをしているんだったと天羽はそこで思い出した。
 堂島翼不在の旨を市井俊夫から聞かされている時、天羽のスマートフォンが着信を告げた。古藤だった。
「どうした?」
「警部!」と古藤にしては珍しく切迫感のある声で怒鳴り込んだ。「またです」
「何がまただ?」
「またなんです。失踪事件が、車乗り捨て失踪事件がまた起きました」

第二部へと続く……

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