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連載長編小説『別嬪の幻術』2-2
午後六時を過ぎると、平日でも河原町の人出がぐっと増える。増えた人出の分だけ、年齢層も上がってくる。仕事帰りの大人が一杯やって帰ろうとするからだ。僕と同年代の若者も多いが、人口分布的に、やはり年齢層は上がっているだろう。四、五十代の男女が多いだろうか。その年齢層を少しでも下げられれば、などとは思わないが、僕は河原町にいた。
ささやかだが、千代の誕生会を行うためだ。河原町で夕食を摂ると聞いた時は誕生日を串カツで済ますつもりだろうかと思ったが、むろん、そうはならない。もし千代が「串カツ予約してあるから」と言っても僕が別の店に引っ張って行っただろう。千代は焼き肉を選択していたので、そうはならなかったが。
河原町通から少し外れた路地の中にその焼き肉屋はあった。高級店ではないが、手頃なチェーン店というわけでもない。漆喰の建物は真新しいが、京都らしく外格子のある店で、雰囲気も悪くない。暖簾には年季が入っているので、最近改装したのかもしれない。これは期待できそうだ。千代はよくこんな店を知っていたな、と思いながら暖簾をくぐった。
牛肉の焼ける匂いにタレの香りが絡まって鼻孔を刺激した。店内を曇らせるもくもくとした煙は、刀鍛冶が鉄を打つ時のように赤く色を変えた炭の姿を思い起こさせる。
腹が鳴った。さっきまで薬品の臭いばかり嗅いでいたから、まるで竜宮城にでも来た気分になった。
千代は個室を予約していた。店員に連れられ、その部屋に入り、「お疲れ」と言ってから動きを止めた。今日は二人だと思っていたのだが、個室には千代と向かい合って真綾が座っていた。僕を見ると、千代は挨拶代わりに「おお」と声を上げ、真綾は恭しく金髪を軽く下げた。僕はもちろん、笑顔を浮かべた。
座席を確認して千代の横に座ると、僕はジャブを打った。「真綾ちゃん、今日は最後までいられるの?」
真綾は箸を置き、玉蜀黍の入った口を手で隠しながら、小さく首を横に振った。
「八時頃にはお暇させてもらうつもり」ゆったりとした口調は、京都弁に近いものがある。今や京都弁を話す京都人は殆どいないが。僕の知る中で、京都弁を話すのは洞院才華くらいだ。
僕は微笑を浮かべた。心の中は満面の笑みだ。
「この後は……?」真綾の背後を指差しながら訊いた。方角はでたらめだが、祇園を指していることを真綾は察したらしく、小さく頷いた。九時頃から出勤するのだろう。軽いファンデーションと気持ちばかりの紅を引いた真綾は殆どすっぴんで、やはり目鼻立ちは整っているものの、目の下の隈は目立つ。軽く食べたら化粧という魔法で隈を消し、祇園で蝶になる……普段の真綾からは想像し難い変身だ。真綾の祇園での写真を見せてもらったことがあるが、それを見ると、逆に普段の真綾を想像することはできない。驚くべき変身……カフカに見せつけてやりたいくらいだ。
僕はビールを、千代はカシスオレンジを、真綾はウーロン杯を手に乾杯した。注文の時、真綾はこの後のことがあるからここでは一杯だけ、と念を押した。当然、僕達は了承した。何なら烏龍茶にしてくれても構わない。
プレゼントは千代と二人になってから、と思い、僕はトングを持ち牛タンを網に載せ始めたが、すぐに千代が紙袋を指差し、それを気にしたので、先に手渡すことになった。中身を確認した千代は、予想以上に高価なプレゼントだったからか、唖然としてブレスレットを見つめているだけだった。声を上げたのはむしろ真綾だった。ひとしきり喜ぶと、「いくらしたん?」と千代は訊いた。関西人はなぜ値段ばかり気にするのか、僕にはわからない。大事なのは値段ではなく気持ちだと思うのだが……。指を四本上げると、悲鳴が上がった。
「あほちゃうか、こんな高いのん……」そう言いながら、「つけてみていい?」と千代は訊き、僕が頷くと、左手首にブレスレットを巻いた。その手首を仮面ライダーの変身ポーズのように顔の前に上げ、ブレスレットの奥ではにんまりとした笑みを浮かべていた。ぺちゃっとした鼻がどこか間抜けで、微妙にポーズが決まっていない。
「ええなあ」と、真綾は心の声を漏らした。彼女も客にはそれなりに貢がせているはずだが。猫背がさらに丸まった。
その後も、いつ買いに行ったん、どこで買うたん、と千代は嬉しそうに訊いて来た。暇さえあれば手首に視線を向けていて、気がつけば鼻の下を伸ばしていた。鼻の下を伸ばすのは千代の癖だった。
たぶん千代は、僕からのプレゼントに期待はしていなかった。むしろ今日の楽しみは焼き肉のほうだっただろう。実際、どの部位も柔らかく、脂も乗っていてうまかった。しかし千代はすっかりブレスレットを気に入ったようで、千代の皿に肉を置いてもブレスレットに目を奪われるばかり。顔の前で手を振るまで肉には気づかない。肉を食べて、また笑顔。それは真綾が飛び立ってからも変わらなかった。それどころか、大学にもつけて来て、まるで腕時計で時間を確認するように、時々白衣の袖からブレスレットを覗かせていた。
それは次の日も、その次の日もそうだった。まさかこんなに喜んでくれるとは。「彼女さん喜びますよ」という店員の声が蘇る。きっと彼も、笑っているだろう。
3へと続く……