連載長編小説『別嬪の幻術』19
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このままだと今日も眠れないだろう。それがわかっていたから、僕は真綾と連絡を取った。土曜日だ。真綾は夕方には仕事を切り上げ、帰宅しているところだった。連絡を取った時、ちょうど夕食の食材を買い物している最中だったようで、真綾は弟の夕食を作ってからでよければ、と言ってくれた。七時には来られるということだったので、僕もその時間に合わせてアパートを出た。店は肩肘張らないよう、河原町の串カツ屋にした。串カツなら値段も張らない。今の僕と真綾には好都合だ。
真綾は約束通り、七時きっかりに現れた。ロフトの前で合流し、僕達は店に入った。並ばずに入れたのは幸いだった。テーブルを確認すると、それぞれ串揚げにする食材を取りに立ち、酒ではなくソフトドリンクを用意した。僕はオレンジジュースを、真綾はジンジャーエールを選んだ。
急に呼び出したことを詫び、僕は真綾が最近祇園に出ていないことに触れた。腰は落ち着けたが心は落ち着かない。いきなり千代の話を切り出すのは気が引けた。今僕は、自分の都合しか考えられない。真綾は「ああ」と何でもないことのように声を上げ、ハラミに衣をつけた。実際、何でもないことなのだろう。「最近、疲れてたから」
苦笑交じりに真綾は言った。金髪ショートは少し伸びて、顎にまで毛先が届いている。そのせいで、脳天では薄っすらプリンが店の照明を照り返していた。確かに、千代の誕生日の夜に会った真綾にはひどい隈ができていた。いつものことだが、疲労が溜まると隈もより濃くなるのかもしれない。真綾の隈に注目しているわけではないので、変化はわからないが。最後に会ったのは洞院家の旅館前で鉢合わせた夜だが、あの日は日が暮れかかっていたこともあり、目元はよく見えなかった。というより、よく見ていなかった。今日も隈はあるが、それほど濃くはない。
体壊すと元も子もないからなあ、と真綾はのんびりとした声で言った。一つ微笑を浮かべると、ハラミを油の中に投入し、今度は根菜に衣をつけ始めた。「でも月曜から復帰する。もう大丈夫やから」
「無理は禁物だよ。千代も心配するから……」
わかってる、と言うように真綾は小さく頷いた。ジンジャーエールを喉に流し込むと、上唇を軽く舐め、真綾は本題に迫って来た。それで話とは何なのか。それこそ、千代のことなんじゃないか、と。別に真綾が鋭いわけではない。僕が真綾に折り入って話があるとすれば、千代のことしかないだけだ。僕は顎を引く程度に頷いた。
千代は僕に、何か嘘を吐いているのではないか。その疑念を包み隠さず真綾にぶつけた。真綾は子気味よく首を傾げてみせたが、表情は険しい。嘘を疑う何かがあったのかと問われ、僕は決定的な場面を目撃したかもしれないとだけ言い、洞院才華のことは伏せた。彼女は未だ、失踪人扱いだ。
真綾は浮気を疑っているようだった。真綾は即座に否定したが、それを今度は僕が否定した。疑っているのは浮気ではない。古都大生が二人殺された連続殺人事件の調査の中での話だ。紛らわしかったことを僕は詫びた。なんせ今は、自分の都合しか頭にない。確かに恋人の親友に、恋人に嘘を吐かれているかもしれないと相談すれば、最初に思い浮かべるのは浮気かもしれなかった。千代の浮気を疑ったことはないが、とりあえず、副産物としてありがたく納めさせてもらった。
事件のことは真綾も知っていた。詳しくは知らないが、千代から少しだけ話を聞いたという。僕は一連の事件の概要をできるだけ掻い摘んで話し、佐保が殺されるきっかけとなった失踪人――洞院才華が千代の実家に入っていくのを見たかもしれないこと、その洞院才華と千代は面識がなく、僕と洞院才華を比較して、彼女を軽蔑していたことを説明した。真綾は途中一度だけ口を挟み、以前千代が東京で起きた殺人事件のことで僕に疑われたことがあると愚痴っていたが、東京の事件と京都の事件は関係あるのかと訊いた。話がややこしくなるので、僕は東京の事件については除外して語ったのだ。東京の事件は関連していると説明し、その証拠を僕自身が見つけたことを聞かせた。その上で、事件の鍵を握る洞院才華と面識がなくどちらかと言えば嫌悪していた千代の実家になぜ彼女が入っていったのか。千代はどうして彼女との関係性を隠してきたのか。面識がないとなぜ嘘を吐いて来たのか……。
張り裂けそうな胸の内を、僕は垂れ流すように吐露した。真綾は背筋を伸ばし、胸を張ったまま、時々金髪を耳に掻き上げて、うんうんと相槌を打ちながら聞いていた。
「あたしは、千代と洞院さんが知り合いかどうかは聞いたことないし、知らんけど。でも千代が嘘吐くとは思えへん、かな……」
「たとえば、洞院才華に敵意を持つ僕に気を遣って言わなかったとか、その可能性は?」
「ないと思う。だって千代ももう三回やし、友達やったら、学内で会って話とかしてるんちゃう? そういうとこ見たことないんやろ? それやったら、栄一君の見間違いなんとちゃうかって思いたくなるんやけど……」
確かに確証はない。寺町通から路地をちらりと見た時に、遠目にも際立つ美貌の持ち主が、黒髪を揺らして屋内に消えただけだ。それは間違いなく洞院才華だった。あれほどの美女を見間違うはずはない。そして洞院才華が姿を消した先には確かに千代の実家がある。しかしもしかすると、千代の実家の隣の家に入ったのかもしれない。そこだけははっきりしない。
それを聞くと、真綾は勢いづいて、千代は嘘など吐いていないと話し出した。千代は嘘を吐くような娘じゃない、と。真綾は高校時代の話を始めた。ちょうど真綾の母親――中町綾子が亡くなった時のことだった。
綾子は末期癌を患っていた。一縷の望みに賭けてガシーヌの被験者として臨床試験に参加した。その結果癌は完治したものの、重い副作用によって心不全を引き起こし、帰らぬ人となった。真綾の父親はすでに亡くなっており、高校生の娘とまだ小学生の息子だけが取り残された。祖父母も早くに亡くなっており、頼れる親戚はいなかった。悲しみに暮れる中、残された姉弟に更なる悲劇が降りかかったという。綾子が生涯大切にし、入院してからも病室のベッドの傍らに置いていたアクセサリーが病院側の不手際で紛失してしまったのだ。そのアクセサリーは鉱山で働いていた夫が自ら掘り出した砂金と鉱石を使って作ってくれたものだという。真綾と晴人にとっても父の形見だった。そして母の形見でもあるはずだった。それが紛失し、二人は失意のどん底にあった。そんな真綾を励ましてくれたのが千代だったそうだ。千代は最後まで真綾を見捨てなかった。千代は友達思いであり、恋人思いでもあると真綾は言った。今まで嘘を吐かれたことはないと断言した。真綾は千代を、誰よりも信頼し、信用できる人だと語った。
「千代は栄一君を愛してる。心の底から。時々、千代のほうが不安になるくらい。だから千代が栄一君に嘘なんか吐くわけない」真綾ははっとして、揚げ過ぎた串カツを皿に引き上げた。「ごめんなさい……差し出がましくて」
僕はとんでもないと体の前で手を振った。ブレスレットをプレゼントした時の千代の笑顔。あの笑顔に偽りはない。それははっきりとわかる。恋人同士、小さな嘘が一つや二つはあるかもしれない。僕だって、すべてを千代に話しているわけではない。
だが今度ばかりは別問題だ。洞院才華が千代の実家にいるのかどうか、千代との関係性はどうなっているのか、それをはっきりさせない限り、悶々とした思いは拭えない。
もし、と真綾は続けた。「もし千代が事件のことで何か嘘吐いてるとしても、千代は事件とは無関係。そうやんな? だって東京の事件もいっしょくたに考えるんやったら、千代にはアリバイがある。それは栄一君が一番わかってるやろ? あたしもその場にいたわけやし……」
そう……そうなのだ。真綾の言っていることはまったくもって正しい。一連の事件が誰か一人の犯行であるならば、千代は白だ。駒場敬一が殺害された時刻のアリバイはある。京都で起きた二つの事件のアリバイも一つはないが一つはある。風見が殺害された夜、僕達は一緒にいた。
だが犯人が三人いるとすれば、また話は変わってくる。そのうちの一人が千代で、千代が事件の全容を知っているのだとすれば、僕も引っ掛かることがあった。佐保が殺された後、松尾大社の様子を見に行くと伝えた時、千代は車で行くことを勧めた。僕はその通りレンタカーを借りて松尾に向かったが、あれは徒歩だと確実に殺害されることを知っていたからではないか。あるいは自分の手で僕を殺したくはなかったのか……。そんな想像をすることもできた。
真綾は僕の分の串カツを皿に取り分け、「大丈夫。千代を信じましょ」と祇園で見せている、柔らかな作り笑顔を顔面に貼り付けた。そう簡単に信じられるものなら、何も困らないのだが……。
20へと続く……