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連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火1

    最終章 夜明けの灯火

        1

 瀬川の退職と同時に美智子も店を去ることとなった。
 瀬川から社長の座を譲り受けた峯本は、美智子と働く最後の日の営業時間を午後七時までに短縮した。真夏の十九時は、空が霞み始めた程度でまだ明るい。商店街は、まだ活気で溢れていた。峯本は、美智子と電車で河原町に向かった。
 河原町に着くと焼き肉屋に入った。高級焼き肉店などでは決してない。峯本の財布で、何とかご馳走することのできる店を選んだ。店のほうには、三名で予約を入れていた。本当は四人がよかったのだけど。
 店員に座席へと案内された。すでに、工藤の姿があった。夏らしく、浅黒く日焼けした顔がにやりと見せた歯の白を一層強調させた。
 峯本と握手をした後、工藤は美智子と同じように握手を交わした。
「いつ振り?」
「三年……くらいかな」工藤の質問に美智子は腕を組んで答えた。あっ、と何かを思い出したように美智子はいった。「結婚おめでとう。まだいえてなかった」
 工藤は礼をいうと、美智子に同じ言葉を返した。工藤の視線が美智子の手元を確認するのを、峯本は見ていた。峯本自身は、工藤と何度か顔を合わせている。
「今日は俺の奢りだから、腹いっぱい食べてくれ」
 峯本がいうと、工藤は舌なめずりする代わりに白い長袖シャツをまくり上げた。矢継ぎ早にオーダーを済ませると、肉がないのに膏をひき始めた。
 生ビールが届いたので乾杯し、三人揃って一口飲んだ。真夏の熱気を体が記憶しているらしく、喉越しは最高だった。
 学生時代の昔話などで談笑しながら肉を焼き続けていたのだが、浩平社長就任おめでとう、と突然工藤がいった。
「今日は俺じゃない。河村さんが店を辞めるから、今までの感謝も込めてこの食事会を開いたんだ。だから俺の話はよしてくれ」
 そういいつつ、ほろ酔いのせいもあって気分は良かった。トングで肉を持ち上げると無意識に笑みが浮かんだ。が、今いったように、美智子には感謝しかない。
「美智子がいなくなって、店は大丈夫なのか? あれだったら、俺が手伝いにいってやろうか」
 酔いが回ったらしく、工藤は意地汚い笑みを浮かべていう。
「翔太が来てくれるなら百人力だ」峯本も笑った。「でも一人、河村さんに代わって来てくれる人がいるんだ」
「アルバイトか」
 峯本はかぶりを振った。
「知り合いだよ。俺が就職した時から興味を持ってくれてたんだ。だから声を掛けたらすぐに応じてくれた」
 工藤は眉をひそめた。顔を歪めたままもも肉を食らい、胃に収めるといった。
「こっちに知り合いがいたのか?」
「前の職場の人とか?」美智子も工藤に続いた。尚美のことは、美智子にも話していなかった。
 まあ、と峯本はいい淀んだ。「とにかく知り合いなんだ。広告会社で働いてた人で、そろそろ転職しようと考えていたみたいなんだ」
 ふうん、と工藤は鼻を鳴らした。眠そうな目を細く開けたまま、枝豆を口に放り込んでいる。
「だから俺の話はいいんだって」
「祐里ちゃんも喜んでただろう? 浩平が社長になるって伝えた時」
 祐里に、瀬川に代わって社長に就任することを伝えたのは先週だった。自分自身が社長になることは以前からわかっていたことだが、わざわざ祐里に話す必要はないと思っていた。しかし、いざその時が近づくと落ち着いていられず、祐里に話したのだ。彼女は目を丸くしていたが、峯本の手を取って喜んでくれた。
 うん、と峯本は頷いた。「喜んでた」でも、と彼は続けた。「心配のほうが大きいみたいだよ。それはもちろん俺自身もそうだけど……。サラリーマンとして働いたのは一年足らず、先生に雇ってもらって修行したけど、その修行も一年。社長なんて、とても務まるとは思わない」
 峯本は冷やし中華を一気に啜った。二人の食欲が予想以上だったから、彼はすでに締めを注文したのだ。
 弱気な彼の言葉に、工藤は大きく首を振った。
「大丈夫だ。浩平は、就活とかボランティアでしっかり世の中と向き合ってきた。もし神様がいるなら、浩平の努力を裏切るはずがない。絶対にな」
 美智子は神妙な顔で、しかし柔らかい目つきで首を振っている。
「そういえば、先生は?」工藤が訊いた。
 ああ、と峯本はジョッキを持つ手を止めた。美智子と顔を見合わせると、お互いが苦笑いをした。
「誘ったんだけど――」
 峯本は昨日、瀬川と美智子の送別会を催したいといった。しかし瀬川は、「俺はこの店を、おまえに譲るために作ったんだ。だから、おまえのために俺が何かをやっても、俺のために峯本が何かをやる必要はない。送別会なんてなくていい。おまえが感謝してくれたら、これ以上の喜びはない」と答えた。
 工藤が参加することを明かすと一瞬心が揺らいだようだったが、瀬川の決断は変わらなかった。
「なるほどな。じゃあ、今度みんなで集まればいい。それなら先生だって来るだろう」
「そうね」
 会計を済ませると、生暖かい夏の夜風を全身に受けた。二人の暴飲暴食のせいで懐はかなりの重傷を負ったが、今日は飲食代以上の価値がある時間だった。そう思えば、今日の支払い額など露ほどのものに感じられた。
「浩平なら大丈夫だ。きっと店を大きくする」
 最後に工藤はそういった。
 翌朝から店には尚美がやって来た。店内に新顔が立っているのは新鮮で、また社長の自覚からか、自然に背筋が伸びた。美智子に仕事を教わった時のように尚美を指導した。普段から浴衣などには関心があるのだろう。尚美は、飲み込みが早かった。
 工藤のいったように、尚美が加わって以降店は順調で、安定した業績を積み上げていった。
 ところが突然、峯本の視界が暗転した。それは、尚美の元に刑事がやって来たからだった――。

2へと続く……

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