連載長編小説『美しき復讐の女神』19
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まるで試合前のような緊張感を持って隼人は図書室に向かった。そのせいか、静かに開けるドアに掛けた指先に神経が集中した。冬の冷気と暖房の温気が混ざり合い、胸がぐるぐると掻き回されるような温度を感じる。それは図書室に和葉がいるから、という理由ではなかった。
テーブル席にはヘアクリップを手元に置き、彫刻のように美しいポニーテールを束ねた和葉がいて、受験勉強なのか週明けから始まる期末試験の勉強かをしていた。誰かが図書室に入ったことは気づいたかもしれないが、隼人であることは気づいていない様子だった。隼人はもう一週間以上図書室に来ていなかった。
小説の文庫本が並ぶ書棚を通り過ぎ、スポーツや芸術関連の本が収められた書架を通り過ぎ、隼人は図書室の入り口から見て最も遠いフロアで立ち止った。そこには古い新聞がいくつも収められている。その隣には文芸誌やファッション誌のバックナンバーが不揃いながら置かれていた。
隼人は、新聞紙を一枚ずつ掻き分け、選り分けていった。歴代の図書館司書が自ら取っている新聞を図書室に寄付していることもあって、古いものは学校創立時のおよそ六十年前の記事から近々のものでは昨年の七月まで入っていた。新聞を選り分けながら、どうやら大きな事件が起きた日の新聞を歴代の図書館司書は寄付しているらしいことに隼人は気づいた。あさま山荘事件に地下鉄サリン事件、神戸連続児童殺傷事件など、隼人が生まれる前の、しかし隼人も聞いたことのある大事件を報じた記事がそこにはあった。比較的新しいものでは、附属池田小事件や京田辺警察官殺害事件、尼崎連続変死事件などを報道する記事が収められていた。
その中に、あった。――十人同時毒殺事件。
間違いなく、凛の部屋の抽斗にしまってあったのと同じものだった。さらに新聞の中を探ると、やはり篠木渚死刑囚の死刑執行を報道した記事も見つかった。凛の部屋でこの記事を目にした時、隼人は混乱のあまり書かれている内容を理解できなかった。だが今なら冷静に記事を読むことができた。
事件が起きたのは今から二十二年前の二月十四日、東京の高級住宅街に立つマンションの一室だ。そこは篠木渚が常連客の一人から買い与えられた部屋だった。そこで篠木渚主宰のバレンタイン・パーティーが行われていた。そこでは篠木渚の手料理が振舞われ、皆が持ち寄った高級ワインを次々に開けていく豪勢なパーティーとなる予定だった。ところが結果的に開けられたワインは一本だけで、篠木渚の手料理を口にした者は一人もいなかった。なぜなら乾杯のワインに篠木渚が毒薬を混入させていたからだ。篠木渚は入念に、全員でまずはワインを飲むように言い、果たして男達はその指示に従った。そしてワインを飲んだ全員が次々に倒れ、死亡した。被害者は京都の資産家鴨啓士郎、医師の越智新一、実業家の渡瀬宏信、大手企業の会長三木邦夫、大手企業の取締役原島吾郎、投資家の浜田道雄、若くして不動産売買に成功した柳川誠二、化粧品メーカーで営業部長を務める栗尾春利、若手実業家の友部俊作、中小企業の社長土井謙太郎の十名だった。
事件の起きたマンションについて、篠木渚は鴨啓士郎から買ってもらったと話した。また、事件で使用した毒薬については医師である越智新一に頼み込み、以前に病院から少量の毒物を盗み出させたと逮捕後の取り調べで語ったようだ。
その後起訴された篠木渚は死刑判決を受け、事件から六年後、刑が執行された。
――一世を風靡した絶世の美女は、現代を代表する高嶺の花ではなく、黒々とした素顔を持つ魔性の女だったのだ。
凛の部屋で見た強烈な一文が目についた。この記事には篠木渚がどのような女性であったかが細かく書いてあった。篠木渚はその美貌を以って、多くの男を虜にした。自らの美貌を熟知していた篠木渚は男を見下ろし、時には公の場で男に靴を舐めさせ、時には男の靴に酒を注ぎ、そのまま男に酒を飲ませるなど横暴な態度を取っていた。その態度に、自ら離れていく客も多かった。だが一部の客にはその魔性とも言える驚異的な接し方で取り入っていた。ある者からは大金を吸い取り、ある者にはその家庭に干渉し、結局離婚までさせた過去があるという。それでも客がついて離れなかったのは、篠木渚のその美貌があるためだった。当時、篠木渚のいるキャバクラに通っていた客の間では、彼女の接客態度について次のように言われることがあったという。「渚がまだやっていないことは殺人くらい」
隼人は、篠木渚が起こした事件について理解した。魔性の女と呼ばれた理由についても理解した。それでもやはり、魔性の女という言葉に現実味を感じなかった。だが二年前に見た凛の姿は今も目の前に存在する現実のようにはっきりと思い出された。
すべてはあの日、あの時に変わったのだ。大学受験を断念し、水商売に身を投じることも、永岡と別れたことも、何もかもがあの瞬間に変わったのだ。凛の人生、そして運命までもが。この記事を見、篠木渚を見、凛はすべてを察したのだろう。
「もう私達は姉弟じゃない」
そう言った時の凛が決然としていたのは、すべてを悟り、絶望の淵にいたためだ。凛は両親にも、弟にも、当時交際していた永岡にも、誰にも相談することなどできず、一人ですべてを抱え込み、家を出たのだ。親が親でなく弟が弟でない事実を確信して。そして同時に、十人もの男を殺害した殺人犯の娘であることを確信して。
隼人自身、ようやく解けた謎があった。それは絶世の美女である凛の弟でありながら、平凡な容姿を持って生まれた自分についてである。幼い頃から、隼人は常々凛と比較されて来た。学力や運動能力はもちろん、特に比較されたのが容姿だった。隼人はずっと劣等感を抱いて生きて来たのだ。
凛の弟なのに――周囲の嗤笑が、隼人の骨の髄までズタズタに切り刻んだ。屈辱、憤慨、そんなものでは表しきれないほどの感情に、隼人は今まで何度自分を呪ったことか。自分の背負った十字架を、どれほど惨めな目で眺めたことか。
だが凛と一切の血の繋がりがなかったことがわかった今、これまで打ちのめされて来た劣等感もいくらか軽減した。周囲の見る目が変わらなくとも、隼人の中で、一つ重荷が解けたのだ。凛は姉であり姉でなかった。本来ショッキングであるはずの事実が、今は隼人に安堵をもたらしていた。
凛は篠木渚の娘だ。それは間違いないだろう。今となっては疑う余地がない。凛を知る者に篠木渚の写真を見せれば全員が凛だと答える。だが隼人にはどうしても腑に落ちない点があった。それは篠木渚と太一に接点がないことだ。凛が篠木渚と太一の間に生まれた娘なら、太一が凛を引き取るのもわかる。むしろ当然のことだ。だが先日のDNA親子鑑定の結果で太一と凛に血縁関係がないことは証明されている。ならば太一はなぜ凛を引き取ったのか。また篠木渚とどんな関係にあったのか。
最初に隼人が思いついたのは篠木渚の事件を隼人が捜査していた、ということだ。事件当時太一は二十三歳で、警察官になったばかりだった。しかし、事件は東京で起きているため、埼玉県警の太一にとっては管轄外であった。
埼玉と東京、管轄の異なる地域で生活する二人が知り合う機会などないように思われた。ところが隼人は思いついた。キャバクラだ。鴨啓士郎が京都から篠木渚に会いに来ていたように、太一も篠木渚を求めてキャバクラに通っていたのではないか。太一は学生時代、事業に成功した親の金でキャバクラに入り浸っていたといつか話していた。篠木渚と接点があるとすれば、それ以外には考えられなかった。
しかし、たとえそうだとしても、凛を引き取る理由にはならないだろう。自分の子供ではないのだから。それに、社会人一年目の太一にとって赤ん坊を引き取る負担は計り知れない。美代子と結婚するのはこの事件の一年後で、男手一つで凛を育てるのは不可能に近かったはずだ。
考えれば考えるほど、太一が凛を引き取った理由がわからなかった。そんな時、予鈴にふと我に返った。直後、背中を優しく突かれ、慌てて新聞を閉じた。
振り返ると、和葉だった。
「予鈴鳴ったよ」
「うん、知ってる」
「何見てたの?」
隼人は苦笑しながら新聞を元の位置の、少し奥のほうに押し込んだ。「何でもない。ちょっと昔の出来事調べてみようかと思って」
「テスト余裕?」
「いいや、全然余裕じゃない」隼人は和葉を促し、二人で図書室を出た。「勉強漬けだよ。昨日までは昼休みもずっと勉強してたんだ」
「ああ」と何か納得したように和葉は言った。「だから今週、図書室に来てなかったんだ。勉強してたんだね。あたしでよかったら勉強教えるよ」
隼人はゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ないよ。南野さんは受験勉強もあるんだし」
「うん」と和葉は小さく言った。「むしろ受験勉強しかしてない。今度のテストは殆どノー勉」
「それで点数取れるの?」
「授業は聞いてるし、最後は先生も受験のことを考えてそんなに難しくない問題にしてくれると思うから」
「そっか」隼人は納得した。確かに、期末試験よりも大学受験のほうが重要だ。試験問題の難易度を下げるくらいの配慮はあって当然かもしれない。「ちょっと余裕出てきた」
「本当?」和葉は笑った。「でも、ちょっと寂しいね。最後のテストで三年間を思い出しちゃう。テストの度に勉強するのも大変だったけど、もうこれで最後なんだって。あっという間に、本当に卒業なんだって」
「確かに」隼人は和葉の言葉にしみじみとした声で言った。思い返せば、部活も勉強も辛いことばかりだった。その上、高校一年の頃から女性恐怖症に悩まされたこともあって学校生活が充実していたとは言えない。この三年間、何を取って見ても恐怖と苦痛に耐えた期間だった。だがそれでも、部活や勉強での苦痛は、思い返せば輝かしい思い出で、今となっては憧憬すら覚える貴重な時間だった。「卒業か。何か、変な感じがする。変というか、不思議?」
「わかる」和葉は嬉しそうに言った。「中学の時はなかった感覚。大人に近づいたからかなあ?」
「どうだろう? 成長したってことなんじゃないかな。人間として」
「だね」
窓から望む中庭を背景に歩く和葉は美しかった。両手で持った参考書を胸に抱きながらゆっくりと歩く和葉に歩幅を合わせるのが、何とも心地よかった。今日で図書室に行くのが最後で、今日で和葉と図書室で会うのが最後だと思うと、窓辺に揺れるポニーテールが名残惜しかった。今なら思い切って和葉を抱きしめられそうな気がしたが、人目を憚って横目で様子を窺うことしかできなかった。
横顔に紅一点を添える小さな赤い唇は可憐で、すらっと通った鼻筋は日本人離れした美しさを持っている。きっと俺は、いつまでもこうして眺めていることしかできないんだろうな、と隼人は思った。が、結い上げられて露になった白い項は溜息が出るほど隼人の目に華やいで見え、その華奢な首筋につい触れたいと思わせた。
「どうかした?」
こちらを向いたアーモンド型の目は温かさを感じさせるほど柔らかかった。
「え?」
「思い詰めたような顔してたから」
「そうかな?」隼人は渡り廊下を渡り終え、その間じっと横目で和葉に見惚れていたのだと思うと、何となく喜ばしい気持ちになった。だが同時に恥じらいもあった。隼人は声が上ずらないよう努めて言った。「そんなことないよ」
自分は何も成長していないじゃないか、と隼人は自嘲する他なかった。剣道が上達しても、進路が決まっても、結局中身は二年前のままだ。
「そっか」和葉は教室の前で立ち止った。「テスト、頑張ろうね」
隼人が頷くのを見て、和葉はくるりと向きを変えた。和葉が教室に入ったのを見て、隼人も教室に入った。隼人が席に着くと、席替えで座席が離れた下野がやって来て、「余裕だなあ、いいなあ」と諦観するように言った。「今回はもう無理。まったく勉強してないんだよな。赤点必至だ」
隼人は小さく笑った。その態度が下野には鼻についたようだが、チャイムが鳴って彼は退散していった。
五限は自習だったが、隼人は太一と篠木渚の関係が気になってまったく集中できなかった。一度考え始めると、記事にあった篠木渚の顔が頭から離れなくなるのだ。隼人はやはり、そういったところが凛によく似ているのだと思った。頭の中で凛と篠木渚を比べると、やはり面影があった。勝気な性格を表わす切れ長の目には殺人犯の獰猛な光が、そして殺人犯の面影が、確かに受け継がれているのだった。
20へと続く……
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