連載長編小説『十字架の天使』3-1
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「鳴海聖子は売春を行っていた」
寺戸の一言に捜査員からどよめきが起こった。鳴海聖子ほどの美人が男に体を売っていたことへの羨望も混じっているように薙沢は思ったが、最も衝撃的だったのは小松諒太という婚約者がいるにもかかわらず、という状況だろう。
元来男探しに苦労するタイプではなかったはずだ。
鳴海聖子が売春を行っていたと聞き、薙沢は個人的にがっかりしたが、腑に落ちたこともあった。
一つはあれだけのブランド品を収集する財源の所在だ。鳴海聖子ほどの美人となれば相手によってはかなりの高額を渡していた可能性がある。そしてもう一つ、華奢な割に豊満だった胸だ。往々にして肉付きのない女性はそれに比例するように胸は小さい。もちろん鳴海聖子のように細いが大きな胸をしている女性はいる。でもそれは稀だ。あの胸は、そうとう男に揉まれている。
「いわゆるパパ活だ。鳴海聖子はSNSをやっていたが、そのアカウントから主に体を買わせていた。ダイレクトメッセージにやり取りが残っている者もいる。身元がわかっている者にはすでに昨日話を聞いている。売春については認めている。そして鳴海聖子の連絡先に残っていた電話番号の中にも、彼女を金で買っていた者がいる。シライナオキとタチバナトモアキだ」
薙沢は手元の資料に目を落とした。白井尚希、立花智明という名前が目についた。
「白井は鳴海聖子と同じ化粧品会社に勤める同僚だ。年齢は被害者の一つ上、昨日福岡が得た情報によると白井は被害者に好意を寄せていたらしく、本人もこれを認めている。白井は最後まで鳴海聖子の寿退社に反対していた人物だったそうだ。金で彼女を買ったことも渋々ながら認めた」
捜査員が一人立ち上がった。
「売春の件、小松さんはご存知なんでしょうか」
話に水を差され、寺戸は鋭い視線で部下を見た。だが捜査員の質問は皆が気になっていることだった。
「売春については知らなかったらしい」寺戸は言った。「だが他に男がいることには気づいていたようだ。ブランド品を買う際に借金を懸念しても鳴海聖子は大丈夫と言い張っていた。それは背後に男の影があるからだろうと察していたらしい」
「鳴海さんに、浮気をやめるよう小松さんは言わなかったんでしょうか」味田が立ち上がった。話題が小松諒太の件に移ったと見て、今なら寺戸に睨まれることはないと踏んだのだろう。
寺戸はああ、と答えた。
「言わなかったそうだ」
味田は着席すると声をひそめて言った。
「これ、動機じゃないですか」
「可能性は大いにある」薙沢は味田に一瞥をやり、前を向いたまま答えた。「だが小松諒太に鳴海聖子さんは殺せない」
「アリバイがありますもんね……」味田はいじけたように呟いた。
「一方で、白井にも動機はある。独占欲に駆られて殺害した可能性は考えられる。ただ、白井が犯人なら、部屋に争った形跡がないのはおかしい」
「もう一人、立花智明は芸能事務所の社長だ」
寺戸は某大手芸能事務所の名前を口にした。薙沢もテレビでよく耳にする芸能事務所だ。最近ドラマや映画で活躍している俳優もこの事務所に所属しているため、最近は特にその名を目にする機会が多い。
「年齢は五十四歳、被害者とは四年前から繋がっている。近頃は顔を合わせる機会が減っていたようだが、今でも関係は続いていたそうだ」
おそらく鳴海聖子を最も高値で買っていたのは立花智明だろう。もしかしたら一度の逢瀬で十万円近く渡していたかもしれない。ならば鳴海聖子としては、立花智明と三度寝れば高級バッグが買えるわけだ。
散財癖を支えていた重要な人物と言える。
だが年齢が大きく離れていることから鳴海聖子を殺害する動機はないのではないか。考えられるとすれば金銭を巡るトラブルくらいだろう。
「鳴海聖子のパパ活は知人も知っているほどだった。パパ活を知っていた知人の印象は、豪遊していた、だそうだ」
さっきとは別の捜査員が立ち上がった。
「豪遊していた、と仰られましたが、同じことをフカガワリカさんも話していました」
手元の資料に深川梨華と名前がある。
「深川さんは鳴海さんの大学時代の友人で、鳴海さんに連れられて知らない男性との飲み会に参加させられたことがあるそうです。その際は飲み会に参加するだけで二万円から三万円の現金を渡されていたといいます」
ギャラ飲みというやつだろう。男だけで酒を飲んでいても華がないから誰かも知らぬ若い女性を無作為に選んで侍らせる。その報酬として数万円の謝礼が出るという。ギャラ飲みについて知った時はこんなものもあるのかと思ったが、薙沢は前向きに捉えられなかった。中年以上の男性が主宰することが多いからかもしれない。
「そういった飲み会に鳴海さんは度々出席していたそうで、本業以上に稼ぐ月もあったそうです。深川さんはそんな鳴海さんを豪遊していたと言っていました」
「深川梨華は事件当日被害者と最後に連絡を取った人物だな。アリバイは確認できたか」
「はい。午後七時頃から七時三十分過ぎまで、待ち合わせ場所の秋葉原で鳴海さんを待つ姿が防犯カメラに映っていました。それより早い時間帯のアリバイについては証明できません」
「立花と白井のアリバイはどうなんでしょうか」立ち上がり、薙沢は訊いた。
「白井は残業」答えたのは福岡だった。「立花は早い時間から銀座で女と飲んでた。どっちも裏は取れてる」
「そうですか」軽くお辞儀をして着席すると、福岡は手をひらひらと上げて応えた。
「それと凶器に付着していた血液だが、鳴海聖子さん以外の人物の血液反応は見られなかった。つまり被害者の手にあったナイフは被害者だけを殺した凶器であり、他三件とは別のものということだ」
「犯人は凶器を持ち帰りながら、一つ一つの事件で違うナイフを使用しているということですか」味田が訊いた。
「そう考えられる」
「では犯人は事件を起こす度にナイフを調達してるということですか」
「ああ」寺戸は頷いた。「ところで不思議な記録が見つかった」
そう言うと寺戸は手元にあるパソコンを操作した。会議室前方にパソコンの画面が拡大表示された。
「これは凶器と同じナイフのインターネットでの取引履歴だ。この中に、こんな名前がある」
さらに拡大された画面に映る名前を見て、会議室はざわついた。拡大された名前を見て、薙沢も目を丸くした。
「鳴海聖子だ」
「これは、どういうことでしょう」捜査員の一人が困惑顔で言った。
「今の段階では何とも言えない。だが鳴海聖子が凶器と同じナイフを購入したのは確かなことだ。そのナイフが彼女の手に握られていたナイフかはわからない。これまでの三つの連続殺人は鳴海聖子が犯人かもしれない。仮にそうだとすれば、鳴海聖子は誰かに復讐された可能性がある。これはあくまで仮説だが、皆念頭に置いて捜査に当たってほしい。時間がある時は鳴海聖子の写真を持って東中野、麻布十番、日本橋周辺で聞き込みを行ってくれ」
寺戸の言うように、鳴海聖子が連続猟奇犯であることを知った被害者側の関係者が彼女に復讐したことは十分考えられる。だが一方で、凶器の刃物を使用して鳴海聖子が自殺したとも考えられるのではないか。彼女はヒステリックな性格で、度々自傷行為を行っている。衝動的に自殺を図っても不思議ではない。
ただ自殺説は説得力に欠ける。確かに鳴海聖子はヒステリックな女性だが、そもそも敬虔なクリスチャンなのだ。クリスチャンは自殺を許されていない。その戒律を破るだろうか。それに遺体が発見された時、鳴海聖子は刃物を順手で持っていた。自ら突き刺したなら逆手で持っているはずだ。何より、胸を突き刺した後に自分で十字架を埋め込むことなどできるだろうか。
「それから被害者のスマートフォンの解析が終了した。GPSの位置情報によると、事件当日鳴海聖子は昼過ぎに外出している。この日彼女は有給休暇を取っていた。その後恵比寿のカフェに三十分ほど滞在、一時間ほどその近辺を移動した後マンションに戻っている。買い物をしていたと推測される」
また買い物か、と薙沢は毒づきたくなった。
「誰かと会っていた可能性も考えられる」寺戸は続けた。「この後福岡は恵比寿のカフェで鳴海聖子について聞き込みをしてくれ。誰かと一緒にいるところが目撃されていれば重要な手掛かりになるかもしれない」
「了解しました」福岡は答えた。
「それから今日で司法解剖も終了した」
それが合図だったらしく、前方に座っていた監察医が立ち上がった。
「鳴海聖子さんを解剖したところ、胃には昼食時に摂ったと思われる食材が僅かだけ残っておりました。これはキッチンの流しに置かれていた洗浄前の食器に残されていたものと一致しています。また死後硬直がすでに見られていなかったことからも死亡推定時刻は午後六時四十五分から七時半の間と考えられます。死因は失血死ですので、犯行時刻は午後六時から六時半の間と推察されます」
監察医の報告が終わると寺戸が各方面に指示を出し、会議は散会となった。
鳴海聖子の売春について、その売春相手が誰であったかを小松諒太は知っていたのだろうかと思った薙沢は味田を連れて外出しようとしたが、席を立ったところを寺戸に呼び止められた。
会議室前方に向かうと福岡も近寄って来る。
「おまえ達に伝えておきたいことがある。だがこれを事件と関わりがあると考えていいものかがわからない」
そう言って寺戸はタブレットの画面を見せた。画面にはSNSのフォロワーの一覧が表示されていた。ちょうど画面の中央に鳴海聖子のアカウントがあった。
「これは磯山夏妃のフォロワーだ。ここに鳴海聖子、そして――」寺戸は慣れない手つきで画面をスクロールした。「ここには永島小春の名前がある。二つとも、一連の事件で被害者となった本人が使っていたアカウントだ」
「連続殺人の繋がりってわけですか」福岡が舌なめずりするように言った。
「でも磯山夏妃のアカウントですよね」薙沢は訊いた。「インフルエンサーということでしたけど」
「問題はそこだ。磯山夏妃のフォロワーは二十五万人を超える。事件の被害者がフォローしているからと言って事件と関係があるとは言えない」
「そうですね」薙沢は寺戸と同意見だった。「たとえばフォローバックしていたりすれば関係性があるとは言えるんですけど」
薙沢が画面をスクロールしようとした時、「待て」と寺戸が制した。
「これだけじゃない」そう言って寺戸は画面をスクロールさせた。「深川梨華、それに白井もこのアカウントをフォローしてるんだ」
「磯山夏妃は特に女性から強い支持を受けていたようですから、深川梨華がフォローしていても不思議じゃありません。鳴海さんに勧められてアカウントをフォローしたのかもしれないですし、その逆もあり得ます。白井に関しても、磯山夏妃のカリスマ性に惹かれていたのかもしれません。今の段階ではただの偶然としか思えません」
「やはりそうか」
「永島小春が磯山夏妃のフォロワーにいることは先に起きた事件の係で話題にならなかったんですか」
「議論はされた。だが今と同じように偶然とされた。今回の事件で関係者がさらに関わっていることを踏まえればどうかと思ったが、やはり偶然か」
「一度でもダイレクトメッセージでやり取りがあれば関係性は見出せますが」
「それもない」
「じゃあ今は置いときましょう」福岡がじれったそうに言った。さっきから薙沢と寺戸の会話についていけていないのが面白くないのだろう。
しかし現時点では何の手掛かりにもなりそうにない。
同意した薙沢は、味田と捜査本部を後にした。
3-2へと続く……