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連載長編小説『破滅の橋』第七章 軌道修正と固めたい地盤2
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さっきから、洋服店と鞄専門店を行ったり来たりしていた。夕方に待ち合わせた時は、前回会った時からずいぶん間隔があいたせいでまるで遠距離恋愛をしている恋人のような喜びようだった梨沙も、今では「まだなん?」とくたびれた顔になっていた。
たしか、前に梨沙と会ったのは、祐里が峯本に告白される前のことだった。そこで工藤からアドバイスをもらったのだ。峯本から告白され、交際を始めたことは下山してから伝えた。それから、嬉しい報告が続いた。彼の就職が決まったのだ。就職祝いとして、何かプレゼントを贈りたいと思っていたのだが、何を贈ろうかと考えていたら、二ヶ月も経ってしまった。峯本から、「就職祝いなんていらないよ」といわれていることも、迷っている理由のひとつだった。
就職祝いについて梨沙に相談したところ、彼女は思いの外食いついてきた。
「居候君、着物屋さんやろ? それなら、スーツはいらんのと違う? 仕事中、着物か袴かなんじゃない?」
「ううん、仕事中はスーツらしいねん。やからスーツはあってもいいかなと思うんやけど……」
「鞄も捨てきれへん?」
祐里は頷いた。
「業者さんのところに行くことがあるらしいんやけど、その時とか、鞄はいるやろ? 浩平君には良い鞄持って行ってほしいと思うし」
梨沙はくすりと笑った。真剣に悩んでいるだけに、祐里は少しむっとした。
「何?」
「夫が大好きな良妻やな、と思って」
祐里は、顔が赤くなるのを自覚した。事実、祐里の頬は紅潮していたのだ。
「梨沙だって、翔太君のこと大好きやろ。力になってあげたいと思うやろ?」
とぼけると、梨沙は祐里に背を向けてしまった。祐里は気にせず、マネキンが来ているスーツを眺めた。
それから鞄を見て、買うほうを決めた。およそ二時間の熟考の末の決断だった。しかし決断した理由はあっけないものだ。値段を見て決めよう、と祐里が思った時、ふいにスーツは以前に安いものではあるが彼に買ってあげたことがあったことを思い出したのだ。今も、彼は祐里が買ったスーツを着て店で働いている。それもあって、だったら今度は違うものをと思ったのだ。
どうせなら、なるべくいいものをと思い、牛革の鞄を買った。色は深い茶色で、これなら使い込めば艶も出て、アジが出るだろうと見込んだ。七万円近くの出費は想定外だったが、峯本が喜んでくれるなら、祐里は金額などどうだってよかった。
「なんか、祐里が自分にご褒美かったみたい。にたにたして」
プレゼント用の包装がされた長方形の箱を見ながら歩いていると、梨沙に頬を指先で突かれた。
「これでより一層、浩平君が仕事頑張ってくれる気がして。だって浩平君、仕事に行くようになってから、活き活きしてる」
仕事を始めた直後は、帰宅した時には疲れ切っていて、すぐに眠りにつくことが多かった峯本だが、最近では仕事にも慣れてきたようで、帰宅してからでも余力があり、一時は激減した会話の数も元に戻ってきた。何より、話している峯本の顔には以前までにはなかった明るさがあった。
「生き甲斐って大事やなあ」
「それにな、旅行の予定も立ててるねん」まだ同僚にもいっていない情報だった。「年末にでも、温泉行こうかって」
へえ、というと、梨沙は腕を組んだ。「どこの温泉?」
「有馬とか、話してる。有馬方面やったら、そのまま中華街とかにも行けるし」
「居候君、人前苦手じゃなかったっけ?」
祐里は待ってました、と思った。
「浩平君、登山の後、外に出るのを嫌わなくなったねん。初詣だって、大晦日から八坂神社に並んでたんやから」
「あたしも学生の時に一回だけ行ったわ。でも、その時だけ。夜中から並んでると眠たくてかなわん。それに、大晦日って観たい番組が何個かあるから、もったいない気がしてそれ以来行ってない」
「録画したらいいやん」
梨沙はわかってないなあ、というふうに首を横に振った。
「録画はだめ。後から見ると、何か白ける」
顔を見合わせると、一拍置いて、まあ、と梨沙は息を吐くようにいった。
「順調みたいやし、このまま結婚を切り出されるかもよ」
それは、と首を傾げると、なぜか体が痒くなった。「まだ考えてないなあ。そういえば、梨沙は子ども作らへんの?」
祐里が訊くと、梨沙は苦笑した。祐里は申し訳なく思い、謝ると、梨沙は「そういうことじゃないねん」といった。
「あたしら、ずっと避妊してたから」
祐里は目を丸くした。驚きのあまり、二人の結婚式の様子まで記憶を遡った。祐里の記憶では、たしかに二人は結婚していた。夫婦でも避妊をしているというところも、まあ、あるのかもしれない。
「何で?」
とはいえ理由は気になった。好きな人との子どもが欲しくないわけはなかった。
「これは絶対に居候君には伏せといてほしいんやけど、彼に気を遣って翔太が。彼が出て行ってからも、翔太は、浩平の生活が好転するまでは子どもを作らない、って決め込んでたんや」
驚き、とは少し違う感情が祐里の中で渦巻いた。工藤にとって峯本が大切な友であることはよく知っている。子どもを意図的に作らないというのは、ある種人生を棒に振っているようなものだろう。親友のためとはいえ、工藤は人生を棒に振る覚悟だったのか?
「梨沙はそれでいいん? 赤ちゃん産みたくないん?」
「子どもは欲しい。でも、翔太の気持ちもわからんでもないし、友達想いの翔太があたしは好きや。たぶん翔太は、今も友達の苦労を少しでもわかろうとしてるんと違うかな」
祐里はぎゅっと腕の中の箱を抱きしめた。梨沙の話をただ黙って聞いていると涙が出そうだった。だから、顎を箱につんつん、と当て、気を紛らわせた。
でも、と梨沙はいった。「もう避妊はせんと思う。祐里たちはしっかり前を向いてる。あたしたちも、前に進まんと」
そうやな、と祐里は同調した。
まもなく四条河原町駅に到着した。梨沙とは、そこで別れた。電車に乗ると、大きな箱を持っていたからか席を譲ってもらえた。少しだけ、心が温かくなった。その温かさを集約させようと、祐里は箱を抱きしめていた。
3へと続く……