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連載長編小説『別嬪の幻術』6

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 レンタカーを借りると、そこで千代を乗せ、今出川通から寺町通に入った。京都御苑の東側を下って行き、ちょうど御所の東側駐車場を過ぎたところで千代を下ろした。千代の実家は、そこから路地に入ったところにある。車を降りると、「気いつけや」と言って千代は路地に入っていった。僕は彼女が家に入るのを見て、車を発進させた。
 寺町通から丸太町通に出て、僕は京都御苑の正面を西に進んだ。長い石垣に、時々閉ざされた通用門といった風景はまさに古都京都であり、歩道に立つ通り名の看板を見ると碁盤の目の上を走っているのだと実感する。ただ、丸太町通を走っていると嫌でも目に付くのが東洞院通だ。東洞院通は平安時代の貴族である東洞院家の屋敷がこの通りにあったことにちなんでつけられた名だが、洞院才華と関係があるのかはわからない。たぶん関係はないだろう、と僕は思っている。才色兼備、実家の旅館は繁盛していて、祖先が古都の通り名になっている貴族であれば、何度腸が煮えくり返っても足りない。そんなことを腹の底で考えながら、烏丸通を四条まで下った。
 このまま四条通をまっすぐ行けば松尾大社だが、僕は上野橋のほうに迂回して、上桂から松尾に向かうことにした。帰り道を考えると、三条や丸太町のほうから帰るほうが早い。四条通から現場へと向かってもいいが、道幅が狭すぎてUターンはできなさそうだ。あの路地の住人ならともかく、僕のようなペーパードライバーでなくとも、あの道幅でUターンするのは無理だろう。この時間だと、駐車場も閉まっている。上桂から入って行けば、そのまま四条通に出られるし、嵐山にも抜けられる。
 予想はしていたが、外灯は乏しく、頼りになるのは軒先の電灯くらいでかなり暗い。上桂のほうから路地に入ると大手門のように月読神社が佇んでいて、どことなく不気味な雰囲気を醸し出している。歩いていると自分の足元も見えないのではないか。まるで夜の海を航海する船長のような気分だ。すぐ傍に人がいても、人によっては気がつかないかもしれない。
 速度を落とし、とろとろと車を走らせながら、僕は左右前方に視線を凝らした。時刻は午後八時を回ったところで、観光客の姿もすでにない。時々人影を見つけて「おっ」と声が出たが、いずれも路地の住民だった。結局犯人らしき人物の姿を見つけることはできず、佐保が殺害された駐車場まで来てしまった。すでに門は閉まっていて、人影もない。今日は駐車されている車もなく、遺跡のように佇む土俵が闇の中で肩を落としているだけだ。
 赤鳥居まで来た。すぐ左手には松尾大社の境内へと続く赤鳥居。右手には松尾大社の敷地内を描いた大きな地図と駐車場。そちらに行けば桂川に架かる松尾橋があり、四条通に出られる。引き返せば上桂、直進すれば嵐山だ。せっかくなので、嵐山のほうまでドライブして帰ろうと思った。こちらから行けば、ちょうど渡月橋を渡って丸太町通に出られる。
 アクセルを踏もうとした時、着信があった。ブレーキを踏み、スマートフォンの画面を見ると珍しい名前が表示された。野々宮、と表示されていた。スピーカーフォンにして、僕は電話に出た。今大丈夫か、と野々宮は言った。
 大丈夫だよ、と僕は答えた。「東京の刑事から電話なんて珍しいじゃないか。いつぶりだ?」
「さあ、俺が警察学校を卒業して、配属が決まって以来かな」
「忙しいみたいだな。明けましておめでとう」
 電話の向こうから、苦笑が聞こえる。野々宮が広い額を擦っているところが目に浮かんだ。額を擦るのは彼の癖だ。
「もう十月だぞ」と野々宮は言った。東京は少し気温が落ち着く頃だろうか。京都はまだまだ暑いが、夜になると少し過ごしやすくなってきた。とはいえ申し訳程度で、壊れかけの扇風機がサウナで回っているようなものだが。
「それで、突然どうしたんだよ」
 野々宮はたぶん、また額を擦った。切り出しにくい話題なのだろう。しかし言いづらいことを言えないで、この先警察官が務まるのかと僕は思った。もしかすると、浅黒い精悍な顔に汗が浮いているかもしれない。だが野々宮は、少しして洞院才華を知っているかと訊いて来た。僕は流れ弾を脳天に受けたみたいに、しばらく思考が停止した。まさか野々宮の口からその名前が出るとは思っていなかった。さすがに、虚を突かれた気分だ。
「おまえと同じ大学だろう?」
「まあ……知ってるのは知ってる。学部が違うから、友達とはとても言えないけど。洞院才華なら、古都大生なら誰でも知ってるさ」
「ああ、そうだろうな。二年前のミスコンでグランプリだろ。当時の写真を見たが、女優もできそうなくらい美人だ。卒業後はアナウンサーか? 慶応でも早稲田でも、ミスコンを取っただろうっていうくらいの美人だ。美人と言えば上智大か……あそこでもナンバーワンだろうな。別格だよ、飛び抜けてる」
 野々宮は彼女にぞっこんらしい。まさかミスコンのエントリー写真にまで幻術が仕込まれているはずはないが、野々宮はすでに我を失っている。確かに洞院才華のエントリー写真はこれ以上なく綺麗だった。無加工だと言っても、誰も信じないだろう。しかし無加工の状態で彼女は学内を歩いているのだ。満票だったのも当然だったのかもしれない。
「彼女、卒業後は実家の旅館を継ぐそうだ」
 洞院才華が失踪したタイミングで野々宮から電話があったので、事件絡みかと思ったが、洞院才華を紹介してほしいだけなのかもしれない。切り出しにくいのも納得だ。今野々宮に恋人はいないはず。だがあえて紹介しようとも思わない。
「医学部なのにか?」
 よく調べている。もちろんミスコンのエントリーの際に学部学科なども記載されているため簡単に手に入れられる情報なのだが、野々宮なら僕の知らないことまで知っているかもしれない。職権乱用だ。
「それで、彼女のこと、どこで知ったんだよ」
 ニュースで見たんだよ、と野々宮は言った。やはり、洞院才華が失踪した事件は東京でも報じられたようだ。最近は失踪事件が多い。この二年ほどの間に幼児が行方不明になり、その後遺体となって発見された事件が少なくとも三件はあったし、女子高生、女子大生がネットで知り合った男性に会いに行き、その後音信不通となり、遺体となって発見された事件もいくつか目にした。失踪、誘拐、拉致監禁は、近年の日本人にとって関心の強い事件と言える。そうした事件のいくつかは東京でも起きていたから、野々宮が関心を寄せていても不思議ではない。
 だが野々宮は、ただ関心を寄せているだけではないようだった。洞院才華がいつから大学に来ていないのか、と柏原刑事と同じ質問をした後、一拍置いて、九月上旬に東京で起きた殺人事件を知っているかと訊いて来た。車は松尾大社を離れ、渡月橋に向かう市道二十九号線を走っていた。僕は知らないと答えた。ニュースは見ているが、いちいちすべてを覚えてはいない。
「事件が起きたのは九月二日の午後四時過ぎ。場所は永田町から少し離れた路地だ。殺されたのはコマバケイイチ。将棋の駒に場所の場、敬うに数字の一で駒場敬一だ。四十歳男性、電子機器メーカーで営業マンをやっていた。その他に、増税に対してデモを行っていた。デモグループの中では小リーダーを務めていたようで、敵も多いが慕う者も多かったそうだ。その男が殺された」
 それだけでは、洞院才華の失踪とどう関係しているのか、まるでわからない。
「政府が殺したんじゃないのか? 度重なる金融政策の失敗に増税増税増税。そのうち消費税は百五十パーセントにでもなるんじゃないか。そりゃデモグループだけじゃなく国民全員が不満を抱えてるだろう。でも声を上げるのはそうした一部の人間で、政府はそういう人間だけが目障りなんだろう。見せしめじゃないのか」
 わかってないな、と言うように野々宮は笑った。「俺は小リーダーって言っただろう? 税金への抗議デモと言っても消費税に対してだけじゃない。他にもいくつかの小規模グループが集まって、大きくなったグループが共通理念のように増税反対運動を起こしてるんだ」
「その、駒場敬一は特に何に反対してたんだ?」
「皇室を離脱した皇女に対して相当額の支援が税金からされてることだ」
 なるほど、それも確かに国民の総意だろう。イギリスでは王室問題が度々取り沙汰されているが日本ではあまりない。皇女が皇室を離脱して、ようやく議論が過熱したくらいだ。百五十年前までは天皇陛下が京都にいたこともあって、京都の人々は皇室には寛容だろう。象徴天皇制という制度も、京都人はむしろ歓迎している。その証拠に、「天皇さんは東京に出張してはるだけ」と京都人はよく言う。異邦人である僕は、それを聞く度、冗談なのかそうでないのかわからなくなる。
「ならなおさら政府が動いたんじゃないのか。それか宮内庁か、公安でも動いたんじゃないか」
 巨大組織に消されるというのは、あながちなくはないだろう。決してドラマの中だけの話ではない。政府の隠蔽改竄体質がそれを物語っている。不正は闇に葬られるものなのだ。検察がしっかりしていれば、そうはならないはずなのだが。
 だが野々宮はそれを否定した。
「そういう噂はないこともない。でも考えてもみろ。もしその噂が本当なら、どうして捜査が打ち切られない? 国家権力が動いていたら早々に打ち切り命令が下ってる。平和的デモを弾圧することは日本ではないよ」
 外国ではある、と言いたげな口調だ。だが今まではそうであっただけで、明日からは違うかもしれない。ただ野々宮の言ったことは的を射ている。確かに国家権力が動いたのであれば、捜査は打ち切られるはずだ。つまり駒場敬一を殺害したのは他の誰か……それが洞院才華だと言うのだろうか。
 まさか、それはあまりに飛躍した考えだろう。野々宮は理論派だ。何か根拠があって洞院才華に興味を抱いたはずだ。僕はその理由を問うた。
「駒場敬一には敵も多い。その敵の一人に、ナガサワテッペイという男がいる。長さの長に新字体の沢、冷徹の徹に平たいで長沢徹平だ。長沢は新都大学法学部に通う学生で、駒場はその先輩にあたる。長沢は俺達と同い年だが、財務省のインターンに参加して、すでに殆ど内定が決まっている。対して駒場は新都大を出たが官僚になれず、法曹界にも入れず、一般企業に勤めることになった。長沢には何かときつく当たってたらしい」
「なるほど。絵に描いたような成功者だな」財務省に十数年勤めて日本経済をさらに下降させ、その後は政治家に転身し、国会で居眠りするだけの人生か。相変わらず新都大は、頭だけよくて実力のない人間を官僚として送り出すのだろうか。「負け犬がいちゃもんをつけるのもわかる。それで、彼女との関連は?」
「長沢は京都出身で、洞院才華と同じ高校出身だ。おまえとは逆パターンだ」
 そういうことか、と繋がりは見出せた。洞院才華は京都では御三家と呼ばれる公立高校の出身だ。同じ出身校ということは、やはり地頭はいいのだろう。ただ、遠く離れた二つの地域で起きた事件を関連づけて考えるにはまだ弱い。
「同級生というだけ? 他に理由は?」
「他の理由はもちろん、京都で起きてる事件だ。こっちの事件の重要参考人の知り合いが失踪した。そして同時期に同じ医学部の奈良原佐保が殺害されている。何より見過ごせないのが、駒場敬一と奈良原佐保は共に毒殺されているということだ」
 そういうことか。呟きながら、僕は口の端を緩めていた。ちょうど渡月橋を渡り終えたところだった。そのまま直進し、丸太町通を東に進むことにした。
「捜査本部では、連続殺人と考えてるのか?」
「まさか」野々宮は自嘲気味に鼻を鳴らした。「上司は洞院才華のことなんてまったく気にしてない。こっちの事件と京都の事件が繋がってたら面白いと俺が考えてるだけだ」
「確かに。もしそうなら、面白いかもしれない」
 だがやはり、野々宮も洞院才華が事件に関与しているのではなく、あくまでも被害者として考えているようだ。野々宮はおそらく、彼女の夢催眠の論文についても把握しているだろう。それでも彼女を被害者と考えている。普通は、失踪した人物を加害者とは考えないものだが……。
 僕が間違っているのだろうか。やはり洞院才華は誘拐されたのか。どこかで監禁されているのか、あるいはすでに殺害されているのか……。
 北白川に帰るハンドルを握りながら、僕は事件のことを頭の中で整理した。その中で、一つ引っ掛かったことがあった。東京で駒場敬一が殺害された日、その日はまさに、僕が東京に帰省していた日だった。つまりその日は、千代と真綾が東京に来ていた。疑うわけではない。だが野々宮の言うように、京都と東京の事件が関係しているのであれば、疑いは晴らしておく必要がある。連続殺人事件の犯人に疑われるなど、まったくもって不本意だ。
 大丈夫……大丈夫だ。僕はなぜか、妙な胸騒ぎを覚え、独りそう呟いていた。僕も千代も真綾も、疑われるはずはない。疑われても、すぐに容疑は晴れる。なぜなら三人には、きちんとアリバイが存在するのだから。

7へと続く……

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