連載長編小説『破滅の橋』第六章 希望の橋2
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たった二、三日彼がいないというだけなのにひどく心が寂しくなる。気持ちが空っぽになってしまったような、生き甲斐を失ってしまったような。
出会ってから半年、いつのまにか彼に依存していたのだと知った。
昨日までは仕事があったからどうにか気持ちを誤魔化せた。しかし休日となると一人で静かな部屋に座っている孤独に苛まれそうになる。窓の外では、真夏の太陽が気持ちよく羽を伸ばしているというのに。
やっぱり止めればよかった――。
今になって後悔している。一昨日のことだ。「二、三日留守にするから」峯本がいった。突然のことに祐里は面食らった。少し遠出する、と彼がいうので「お金はあるの?」と祐里は訊いた。
「大丈夫。調達したから」
峯本のいったことに祐里は顔を歪めた。いったいどこから金を調達したというのか。祐里の怪訝そうな顔に気がついたらしく峯本はにっこり笑って続けた。
「闇金なんかじゃないよ。ちゃんと信用できる人から借りたから」
彼はそういい残して玄関を出て行った。信用できる人とはいったい誰なのか。彼が借金をした相手は本当に信用できる人なのか。祐里はそれも不安だった。これまで峯本の口からそういう親しい人物のことを聞いたことがない。
ぼーっとテレビを見ているとインターホンが鳴った。祐里は飛び跳ねるように立ち上がり、玄関まで駆けて行った。主人の帰りを待ちわびている妻になった気分で笑みを浮かべ、ドアを開けた。
お帰りなさい、といおうとして止めた。頬が引きつった。峯本が帰ってきたわけではなかった。しかし祐里はまたすぐに自然な笑顔になって来客を迎えた。
「いらっしゃい。久しぶりやなあ」
「ほんま、いつ以来やろ」
祐里は腕を組み、梨沙、と窘めるようにいった。「あんたの結婚式以来や」
梨沙は十年間交際を続けた恋人と今年のバレンタインデーに結婚式を上げた。祐里は梨沙の友人として式に招待されたのだった。入籍したのは昨年の十一月二十二日、いい夫婦の日だと聞いた。
「上がっていい? 今日は居候君おらんのやろ?」
えっ、と祐里は思わず顔を強張らせた。以前、峯本が居候を始めた時には梨沙にそのことを報告したが、今彼が留守にしていることは誰にも伝えていない。
祐里は、梨沙の顔をまじまじと見た。「何で彼がいいひんこと知ってんの?」
梨沙はぺろりと舌を覗かせてウインクした。
「その話をしに来たの」というと梨沙は「お邪魔しまーす」とドアを抑える祐里の手をくぐって靴脱ぎに入った。
カップにお茶を入れて梨沙の前に置いた。梨沙の正面に祐里が座ると、梨沙のほうから口を開いた。
「驚きっ。驚き驚き」梨沙は頭を抱えながら、しかし嬉しそうにいう。「まさか旦那の親友が祐里のところで居候してるとは」
梨沙はカップを持ち上げながらじろじろ祐里を見ている。
「旦那の親友?」祐里は視線を落とし、口をもごもごさせた。「浩平君と、翔太君が親友ってこと……」
窺うように梨沙の顔を見ると、梨沙は口を噤んだまま笑った。うんうん、と首を振る姿がやけに楽しそうだった。
「どういう関係? 付き合ってんの?」
「いや、付き合ってはないけど……」
「付き合ってもないのに部屋に上げてんの?」梨沙は父親のような顔になっていう。でも、というとまた笑顔に戻った。「もう一緒に暮らしてるんやし、付き合ったらすぐ結婚やな」
結婚、と祐里は呟いた。これまで峯本と過ごしていて、いつ交際を切り出してくれるんだろうと考えることはあったが結婚についてはまったく頭の片隅にもなかった。
というか、と祐里は小さくいった。「ひとつ訊いていい?」
「うん、いいよ」
「何で浩平君が私のところにいるってわかったん?」
梨沙の口ぶりから察するに、祐里の元で居候しているのが峯本だと知ったのは最近だろう。彼が居場所を知らせる手段は、公衆電話を使うか彼が親友に直接会いに行くことくらいだが、そんな素振りを見せたことは一度もなかった。
「知りたい?」
うん、と祐里は頷いた。もったいぶるような話ならば尚更だ。祐里は座ったまま、食い入るように体を乗り出した。
「この前、ウチに来て旦那からお金を借りてたの」
信用できる人とは工藤のことだったのか。祐里は梨沙を介して工藤と面識があるが、たしかに信用できるいい人だと思う。祐里は納得した。
「そのことは聞いてない?」
祐里は肩をすくめて苦笑いした。「何となくだけ」
「それで、何で彼がお金を必要としたのかは知ってる?」
祐里は首を横に振った。「ううん、知らない」唇を突き出し、両手で膝を擦った。体を前後に揺らしながらふと梨沙の顔を見て、大きな瞳をかっと開いた。「知ってるん?」思いの外大きな声が出た。「もしかして、浩平君がどこに何をしに行ったのか知ってるん?」
「うん、知ってる。彼から聞いたから。だから今日彼が不在なのも知ってたし、それを話すためにあたしはここに来た」
そういうことか、と腑に落ちた。
「それで、浩平君はどこで何してるん?」
「実家にどうしても帰らんとあかんくなったみたい」
「実家に? そんなん一言も聞いてない……」まさか見限られたのだろうか。いやいや、と心の中で否定した。まさか彼に限ってそんなことをするはずがない。祐里は目を閉じて心を落ち着けた。
当然や、と梨沙はいった。何が当然なのか、祐里にはわからなかった。実家に帰るならそういってくれればよかったのに。交通費くらい、お願いされれば出してあげたのに。
「心配かけたくないんよ、きっと」
「心配って……。実家に帰るくらいなら全然心配なんてしないし、むしろ黙って帰られたほうがショックなんやけど」
わかるよ、というように梨沙は頷く。「でもな、ただでさえ迷惑かけっ放しやから、彼は彼なりに気を遣ったんと違う?」
梨沙はどうかな、といいながら祐里に目をやった。祐里は納得することができずに不満そうに頬を膨らませた。
「それで、浩平君は何で実家に帰らなあかんようになったん?」
梨沙は答えるのを躊躇っているようだった。そこが一番大事なところではないか。それを知らなくてはもやもやした気持ちだけが祐里の中に残る。
「教えて」祐里は催促した。「お願い」
わかった、と梨沙はいった。「どうも彼のお母さん、具合が悪いらしいの。倒れたみたい。だからどうしても実家に帰りたかった」
「そう、なんや」
たしかに祐里が梨沙の立場なら、口にするのを躊躇っていたかもしれない。彼女は今、会ったこともない人物のことが心の底から心配になった。
「これまで散々お母さんに迷惑かけてきたらしい。だからこういう時くらい、元気な顔を見せてあげたいと思ったんと違うかな?」
「迷惑?」聞き捨てならない言葉だった。たしかに彼は貧乏で親孝行なんてできていないかもしれないが、それでも懸命に生きている。そんな彼が、散々迷惑を掛けてきただなんて。
「あたしも詳しくは知らないんやけど」でもね、というと梨沙の顔つきが変わった。「彼、元々は翔太のところで居候してたらしいねん」
「え、翔太君のところに?」
「そう。プロポーズされて少し経った頃から翔太の家に上げてもらえなくなったことがあるねん。だからもしかすると浮気してるんじゃないかって疑ってたんやけど、彼が居候してたらしいわ。あたしもそれでひどく納得しちゃってさ」
梨沙はまるで他人事のように陽気な笑い声を発した。
「それで、浩平君はどうしたん……?」
追い出した、と吐き捨てられるかもしれないと覚悟した。
「それが、あたしたちが入籍した後、突然いなくなったんやって。翔太が血相変えて探し回ったけど見つからなくてね。でもこの前彼が訪ねてきた。それで居場所もわかったってわけ」
峯本らしいなと思い、祐里は頬を緩ませた。きっと二人の邪魔をすることはできないと思ったのだろう。梨沙には感謝しなければならない。梨沙が工藤を射止めていなければ、祐里が峯本と出会うこともなかったのだから。
「これも知らんかったんや」
梨沙は呆れたように息を吐いていった。そう。何も知らない。私は浩平君のことを全然知らない。梨沙の一言に、心が抉られた。
「浩平君はあんまり自分のこと話さへんから」彼が過去を語ったのは祐里に声を掛けてきたあの時くらいだった。それも祐里に声を掛けた理由についてだけ。
他には彼のことを何も知らないのだ。
「祐里、彼のこと好きなんやろ。めちゃくちゃに」
いやあ、といってぎこちなく首を捻った。めちゃくちゃかと訊かれると首を縦に振るのが少し恥ずかしくなる。でも好きでなかったらおいそれと家に上げたりはしないかと思ってゆっくり頷いた。
「あたしはこの前初めて彼と会ったからあまり詳しく知らないけど、旦那がこういってた。浩平は良いやつだ、って」
祐里の顔に明るさが広がった。目頭が熱くなる。彼にもそういう信頼し合える友達がいたのだ。それだけで、それだけでよかった。これまで彼はずっと孤独に生きてきたと思っていたから。
祐里は、気がつくと梨沙に抱きついていた。「ありがとう梨沙」
「ちょっと……わけが分からんのやけど」梨沙は苦笑した。祐里を引き剥がすと梨沙はいった。「これから困ったことがあれば相談するんやで。わかった?」
うん、と祐里は大きく頷いた。「する。相談する」
祐里はまた梨沙に抱きつき、彼女の自慢の胸に顔を埋めた。梨沙の死角で、溢れ出てきた涙をこっそり拭いた。
3へと続く……