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連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 1

     第一部 怪女

        1

 その女を見掛けた時、僕は最初幽霊だと思った。昆虫の背中のように鈍色に輝く太陽に照らされて、半透明にも見える白いレース地のワンピースを着ている。髪は黒く、風に揺られる若葉と共に靡かせながら、肩甲骨の辺りでそよいでいる。まだ少し距離があって、顔はよく見えない。ただ恐ろしく華奢な体つきであることは遠目にもわかった。夜なら、声を出して驚いていたかもしれない。さっきからその女性は道端の擦り減った白線の上に立ち尽くし、微動だにしない。まるで幽霊だ。ちょうど服装も、肩を出し、素足にスニーカーを履いただけで、いわゆる心霊じみたものだった。
 気がつくと僕は減速していた。なぜかはわからない。不気味だが目を逸らすことができない、しかし釘付けになるのとは少し違った、何だか奇妙な感じがして、好奇心なのか憐れみなのか、とにかく僕は陶器のように白い腕に見入った。その腕が、今初めて血が流れ出したかのように、ゆっくりと顔の高さまで上がる……依然顔は見えない。髪で隠れているわけではない。まだ少し距離があるからだ。だがその手が形作るものははっきりと見えた。拳を作った百合色の手は親指だけを立てている。ぶるっと身震いし、思わず冷房を弱にする。そういえば、彼女は夏らしい出で立ちだが、汗を拭う様子がない。少なくとも、僕がその姿を捉えてからは一度も見ていない。今度ははっきりと寒気を感じた。だがそんなこともあるだろう。もしかすると、木陰は涼しいのかもしれない。彼女は大きく揺れる影の下に街灯のように立っている。
 無視するか……。たぶん、そうすべきなのだろう。彼女はどこか気味が悪い。肩に掛かる髪も仰々しく、纏っている空気もどこか異様だ。少しずつ近づいてわかったことだが、彼女は恐ろしく細い。痩せていると言うべきだろうか。僕もかなり細い。身長は百七十センチあるが、体重は四十五キロに満たない。がりがりだ。たぶん、自分で自分の肋骨に罅を入れられるし、腕の骨を真っ二つに折ることもできる。そんな僕が見ても、彼女は細い。だが痩せ細っているのとは少し違う。それはやはり、姿形がはっきりしてくるのと同時に明らかになっていった。
 ようやく顔が見えた。腕と同じで、まるで季節を逆行しているかのような白。その顔に大きな瞳、形のいい鼻と口が埋め込まれている。美人だ、と一目見て思った。肩幅はなく、露出した肩は瘤ほどではないが骨張って見えた。ワンピースを着ているが、レース地なので服の下が太陽に透かされて微かに伺い見ることができる。服の下は下着のようだ。そして恐ろしく細い。小さくない胸から臍に掛けて鋭角にも見えるほどの曲線を描き、それに続くように腰、尻も小さい。ワンピースから覗く足首も細い。
 僕はブレーキを踏んでいた。いつしか、彼女の前に車を停めて、窓を開けていた。彼女は対向車線の向こう側の白線を踏んでいる。「どこまで?」声が掠れた。鼻歌でも歌っておけばよかったと思ったが、普段音楽は聴かない。歌える曲も少ない。
 声が掛かったことでヒッチハイクに成功したと受け取ったのか、彼女はふらつくように一歩踏み出すと、車の回りをぐるりと回り、助手席を開けた。こちらを見ず、物音も立てずに腰を落ち着けた。異臭が鼻を突き、思わず鼻の下を擦った。いったいどこで何をしていたのか。農作業か、牛舎にでもいたのだろうか。よく見ると、ワンピースの裾も薄汚れている。膝の上で雅やかに重ねられた手先を見ても、爪が黒い。
 何者だろう。こんなところに一人で……。
 浅い呼吸を繰り返す彼女に、僕はもう一度行き先を訊ねた。車が勝手に行き先に連れてくれると思っているのか、彼女は僕のことなど忘れていたかのように、突如警戒心を滲ませてこちらを見た。そこでようやく、無表情な口元を和らげることもなく、目礼を寄越した。不愛想な女だな、と腹の底で吐き捨てた。
「行き先は? 僕はこれから山を登ってキャンプ場に行くんだけど、君もそっちのほうに行くのかな?」
 彼女は生気のない虚ろな目でフロントガラスのほうを見ていた。その目をやや右に向け、天を仰いでいる。釣られてそっちを見ると、緑緑しい若葉が茂っているだけだ。青紅葉だろうか。
 ぼそぼそっと彼女は何かを言った。聞き取れなかったので僕は訊き返した。彼女はまた、ぼそぼそっと何かを呟いた。僕は冷房を止めた。エンジンも切った。それでもう一度行き先を訊くと、山の上に小さな小屋があったから、そこまで送ってほしいと何とか聞き取ることができた。
「車で入れるのかな?」
 彼女は小さく頷いた。極度の人見知りだろうか。ヒッチハイクをするくらいだから、アグレッシブなほうだと思ったのだが。アグレッシブな人見知りということか。まあ、そういう人もいる。でもさっきの彼女の動作……ゆっくりと腕を上げたのを思い出すと、あれは恐る恐るヒッチハイクを敢行したのであって、そうせざるを得ない事情があったのかもしれない。そういえば、彼女は身一つだ。金もないのだろう。山小屋に行って、その問題が解決するのだろうか。
 車で入れると彼女は言った。しかしそんな気配はまったくない。舗装された道などどこにも見当たらなかった。一本だけ車が作ったと思われる獣道が見つかり、僕はそこを指差した。彼女は頷いた。まじか、と呟きながらアクセルを踏んだ。山に入ってからUターンはできるのかと心配した。木の枝や砂利を踏み分けながら、何とかハンドルを切った。突然寒気がして、僕は運転をやめた。助手席に座る生気のない目が不思議そうにこっちを見た。やはり幽霊だろうか。僕は祟られていて、今から山奥の井戸にでも引きずり込まれるのではないか。
「寒いね……」思わず言ってしまった。
「暑かったから」とさっきよりは覇気のある、しかし細い声で彼女は言い、カーナビの下を指差した。冷房がマックスになっている。いつのまに……僕は冷房を中に戻した。
 ずいぶん奥のほうまで入って来た。獣道がずっとはっきりと続いているので道順に迷いはしなかったが、両側は木の根を張る山と崖、そんな変わらない景色と激しい揺れに運転していて気持ち悪くなる。そろそろ彼女を下ろして引き返したいと思い始めた頃、道が開けた。車を旋回させられるスペースがあったことにほっと一息吐いた。彼女が言った山小屋らしき建物もある。杉の丸太で建てられた、大自然に馴染んでいる小屋だった。
 時刻を確認した。午後三時を過ぎたところだ。まだ少し時間に余裕があった。遅くとも四時半には到着すると連れには言ってある。キャンプ場は車であと十分ほど行ったところにある。目と鼻の先だ。
 彼女を下ろし、僕も一度車を出た。杉の匂いを目一杯吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。無意識に両手を上げ、そして下げていた。足元の雑草や小石を爪先で触っていると彼女がやって来て、お礼に軽食を用意したので食べて行ってほしいと言った。どうやら彼女は山小屋の住人らしい。確かにヒッチハイクした場所からだと歩いて戻るのは少し疲れる。でもなぜこんなところに一人で……。見たところ、年齢は僕と変わらない。三十歳前後だろう。化粧はしていないようだが、肌には張りがあって整った顔立ちだ。まだまだ女盛りといったところで、結婚も難しくないだろう。いや、すでに結婚しているのかもしれない。金持ちと結婚して、物好きが高じてこんな辺鄙なところで暮らしているのかもしれない。指輪はしていないが、金属アレルギーかもしれない。あるいはバツがついているか。大恋愛に破れて逃げるように山に籠ったか……。ここに住む理由などいくらでも見つかるだろう。その理由を詮索するのは、たぶんあまり良くない。
 これから支度をすると言って彼女は小屋を抜け出した。少し時間が掛かりそうなので、車の鍵を掛けるために外に出た。こんなところに車上荒らしがやって来るはずもないが。車内からショルダーバッグを取り出し、車に鍵を掛けると小屋に戻った。ショルダーバッグに車の鍵を戻していると、ちょうど支度が整ったようだった。
 これからキャンプ場でグランピングをするので、今軽食を取ると後で痛い目を見ると思ったが、彼女が作って出したのは家庭菜園で栽培している野菜だけを使ったサラダとスープだった。やはり農作業をしている手だったのだ。そして彼女はビーガンらしい。肉は食べない。野菜しか――それも自分で栽培した野菜しか食べない。自給自足で山に籠る……考えてみれば、それが人間のあるべき姿かもしれなかった。僕には到底できない生活だが、山に籠るというのは憧れないでもない。
 そこまで考えて、頭がぐらっと揺れた。一瞬意識が遠のいた。まるで首が独楽になったみたいに、頭が回っている。突然体が重くなり、空中で円弧を描く頭を止められない。触角が鈍っているようで、何かが足元を叩く感覚が微かにあったのだが、それが何かはわからない。ぼんやりと、スープの入っていた器が転がっているのが見える。何が起きているかすらわからなかった。ばたん、と音がして、手足にも力が入らなくなってしまった。ぼんやりとした視界に直接的な光が飛び込んできて、それで床に仰向けで倒れていると知った。
 目眩だろうか……。でも頭痛はないし息苦しさもない。体の不調ではないということか。でもおかしいではないか。突然、こんな……。手に何かが触れるのがわかった。すべすべしている。手探りに伸ばしていた手に何かを掴んだのだ。持ち上げてみると、それは髑髏だった。思わず息を呑んだ。が、髑髏を投げ捨てることはしなかった。本物だ……。間違いなく本物の髑髏だ……。人骨が笑っている。これは、僕か? 僕の髑髏か? 
 もう殆ど何も見えない。髑髏も、頭と顎の形がわかるだけだ。その視界に黒い何かが靡いた。彼女の髪だとすぐにわかった。僕を覗き込んでいる……。顔っぽい丸い形に、紅色の点がはっきり見える。口紅を塗ったのかもしれない。その紅が、奇妙に形を変えた。笑ったのだ……僕を見下ろして笑ったのだ……。何者なんだ、この女……。何をする気なんだ……。
 瞼が閉じるのが自分でもわかった。何も見えない。視界が完全に奪われたせいか、嗅覚が冴えた。聴覚は乏しくなっている。異臭がした。杉の香りとは違う。女を車に乗せた時に臭ったものと似ている。今ならその臭いが何なのかがはっきりわかった。血だ。この小屋には血の臭いが染みついている。
 そこまでわかったところで、意識が途切れた。

2へと続く……

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