連載長編小説『滅びの唄』第二章 歌姫の声 1
第二章 歌姫の声
「昨日はごめんね」
翠風荘に来て祖母の部屋に入った杉本は、謝意を述べた後で羊羹の入った紙袋を手渡した。祖母は、月に一度孫が買って来るこの羊羹が大好物なのだ。昨日のお詫びという意味も込めて杉本は今日持参したのだった。
「無理はしなくていいの。ちょこっとなら顔を出せるかもって言ってたから来ないなあとは思ってたけど、友達との予定があったんだから仕方ないねえ」
祖母には枝野からチケットをもらった日に、コンサートに行く予定ができたことを伝えていた。本来なら祖母の様子をちらっと見てから劇場に向かうつもりだったのだが、高橋に拘束されていて予定が狂ってしまった。急なことだったため、千鶴に連絡することができなかったのだ。祖母はスマートフォンも携帯電話も持っていないため、急を要する連絡は取れない。
「しかし凌也が音楽を聴きに行くなんてねえ」
ノックの後にドアが開いた。入って来たのはグリーンのポロシャツを着た千鶴だった。どうやら祖母を屋外に連れ出す時間らしい。今日は比較的涼しい気温になっているが、昼下がりの太陽は活動的で、陽射しを目にしただけで汗ばみそうなくらいだ。
「凌也コンサートに行ってたんですかあ?」
ドアの向こう側で立ち聞きしていたらしい千鶴が杉本に一瞥を寄越しながら言った。とても仕事中とは思えない気の抜けた声だった。しかし中腰になり、祖母の背中に手を回しながら訊くその姿はまさに仕事中のものだった。
「珍しいこともあるもんだね。凌也がコンサートだなんて」
「誰のコンサートだったんですか?」
千鶴は祖母のほうを向いて訊くが、その声は明らかに杉本のほうに向けられていた。祖母は「さあ?」と首を捻った。当然である。杉本は祖母に「コンサートに行く予定ができた」としか伝えていないのだ。
杉本は千鶴に代わって祖母を載せた車椅子を押した。休日に翠風荘を訪れた時、祖母が屋外に出る時間と重なった日はいつも杉本が車椅子を押していた。千鶴に車椅子を押させて祖母の横を歩くのもいいのだが、こうして自分で車椅子を押したほうが一緒に散歩をしている気分になるのだ。
「誰のコンサートに行ったの?」
エレベータに乗ると千鶴が訊ねた。
「高瀧っていうヴァイオリニスト」宗教団体のコンサートに足を運ぶなんて凌也どうかしたのかしら、と間違った解釈をされるのを杉本は恐れたが、しかし正直に答えた。「ヴァイオリンだけじゃなくてピアノとパイプオルガンも弾く人らしい」
「高瀧? 知らないなあ。どこまで聴きに行ったの?」
「焼けた劇場跡だよ。今でも時々コンサートをしてるらしくてな」
「じゃあその高瀧って人、あそこじゃヴァイオリンしか演奏できないじゃん」
「ヴァイオリンだけだったよ」
エレベータが一階に到着した。ドアが開く直前までただの友達の会話をしていたのに、今ではすっかり業務用の口調で「降りて下さあい」と言って『開』ボタンを押している。ちょうど入れ替わりでエレベータに乗り込む人がいたため、千鶴は少しエレベータ内に留まった。
彼女に構わず杉本は車椅子を押した。千鶴は軽やかに走って追いついてきた。
「ああ眩しい」と祖母は麦わら帽子を頭に載せた。部屋の窓から見ていたほど陽射しは肌を刺さないが、じりじりと肌を焦がす感じはした。
「これは日焼けしちゃうかも」
目元を陰にするために手を額に当てて千鶴は言った。
「日焼け止め塗って来たら? 俺は焼けても大丈夫だし、ばあちゃんは長袖だけど、千鶴は半袖だし」
グリーンのポロシャツの袖口からは白くて細い腕が露になっている。千鶴は二三度腕を擦り、大丈夫と破顔した。
「気持ちがいいねえ」
「そうだな。気温も二十度くらいだって」
「風が気持ちいいよ」
「春風だ」
「この前はね千鶴ちゃんとこの辺りでタンポポを見たんだよ」
車椅子を止めるよう言った祖母は徐に立ち上がった。手にぶら下げていた杖を持ち、草叢の茂る中庭の地面を覗いた。
「清子さん、もう少しあっちですよ」
千鶴は祖母の空いているほうの手を取り、背中に手を添えて歩き出した。杉本はその後をついて行った。
二人が立ち止まったのでタンポポが見つかったのだろうと思い、杉本は「どう?」と訊ねた。
「あら残念」と祖母は呟いた。
「誰かが踏んでいったみたいですね」
二人と同様に杉本も視線を落とすと、茎が直角に曲がった黄色いタンポポが足元にあった。黄色い花弁に杉本の影が重なり、不安定に花弁を揺らすタンポポの寂しさが際立ったように見えた。
それからしばらく祖母を載せた車椅子は中庭を散策した。といっても芝生を囲むように舗装された赤土の歩道をのんびり回っていただけだ。それでも祖母は蝶々や雀が空中を遊泳する姿を楽しそうに眺めては独り言を呟いた。
杉本と千鶴の休憩も兼ねて中庭の外れにある池の前のベンチに腰を下ろした。池には錦鯉が九匹いるそうだが今は六匹しか見当たらなかった。
「清子さん、いつもより長く外にいますけど大丈夫ですか?」
「うん、ぽかぽかしてて気持ちがいいよ」
杉本は車椅子のハンドルにぶら下げていた袋からペットボトルを取り出し、緑茶を飲んだ。遅いペースだったが、長時間歩き続けたこともあって背中は少し汗ばんでいた。しかし水際に来たからか、涼しげな風が首筋を撫で、汗の引いていく感覚にはむしろ心地よさすら覚えた。
「なあばあちゃん」と杉本は呼び掛けた。祖母は錦鯉を目で追っていた。「昨日コンサートに行った劇場で昔火事があっただろう?」
「二十年ほど前にね。凌也がまだ小さかった頃だ。このぐらいかな」
祖母は車椅子に座りながら自分の胸の高さに手を伸ばした。
「この前プロジェクトのチームに選ばれたって話しただろ? あのプロジェクトっていうのが、劇場を撤去して新しい建物を建てることなんだ」
「それ、私聞いてても大丈夫なやつ?」千鶴が慌てて訊く。
「うん、全然大丈夫」
「それでさ、あの火事以降何回か劇場撤去の話はあったみたいなんだ。でもその度に頓挫してて」杉本は学生時代に流れた例の噂について、市役所の資料室に残されていた女性の歌声について、そしてそれが原因で灰の劇場が残されていることを話した。「昨日のコンサートで、俺女の人の歌声を聴いたんだ」
「へえ、それはすごいね」と祖母は言った。
「一緒に行った友達は聴こえてないみたいだし、でも俺、確かに声を聴いたんだ」
「えっ、凌也誰かとコンサートに行ったの? 誰?」千鶴が口を挟む。
「枝野。誰かに誘われなかったら宗教のコンサートになんて行くかよ」
「えっ、ちょっと待って。宗教? それってもしかして……」
千鶴はスマートフォンを操作して、杉本に画面を向けた。
「これ? 株式会社清樹」
杉本はぽかんと口を開けた。状況がまるで理解できない。千鶴のスマートフォンの画面には昨日確かに杉本が見た男の姿が映っている。その姿はチケットに印刷されていたあの画像と同じものだった。
「知ってるのか?」
「詳しくはないけど。清樹って言ってくれればわかったのに。この人の名前は知らなかったから……。大学時代にちょっと名前を聞いたから、それで気になって調べてみたらよくわかんない宗教団体だった」
千鶴の瞳の奥が揺れている。杉本を軽蔑しようとしている。千鶴は杉本と違って東京の大学に進学した。株式会社清樹の拠点は東京にあるらしく、千鶴がその存在を知っていることはあり得ないことではなかった。
「俺は何も関係ない。昨日コンサートに行っても何とも思わなかったし、枝野だって会社の上司から半ば強引に押し付けられたチケットって言ってた。胡散臭かったけど、でも、信者は割といた」
千鶴は安堵したのか、早口で言った。「だよね? 胡散臭いよね。あんなよくわからない宗教」
それで、と杉本は言った。やはり千鶴には席を外してもらえればよかった。千鶴が口を挟んだせいでどこまで話したのか忘れてしまった。彼女は介護士になってから成長した部分もあるけど、杉本に対しては一向変わったところが見られない。
祖母に何を話していたのか、杉本は思い出した。
「その火事の時、ステージに立ってた女性歌手って亡くなったんだよね?」
学生時代に流れた噂はその時亡くなった女性歌手の歌声が今も時々聴こえて来るというものだ。幽霊などを信じる質ではないが、昨夜自分の耳でその歌声を聴いたのだ。信じるも何もなかった。
「大きな火事だったからねえ」
「その火事のこと、覚えてる?」
祖母は大きく頷いた。「もちろん、よく覚えてるさ。だってあの日、劇場にはじいちゃんが行ってたんだもの」
「じいちゃんが?」
杉本は耳を疑った。祖父は杉本と同様にクラシック音楽には疎かった。当時流行していたアーティストの楽曲くらいは親しみを持っていただろうけど、杉本の記憶の中で祖父と音楽は明瞭に結びつくことはなかった。
祖母は再び頷いた。
「あの火事で亡くなった歌手はね、モリオカジュリちゃん。確か字は木が三本の森に岡山の岡、真珠の珠に里村の里だった。森岡珠里ちゃんは当時凌也と同い年の小さな女の子だった」
「俺と同い年? だったら二十年前は五歳とかじゃないか」
「そうよ。だから世間で話題になったのさ。四歳の天才歌姫が現れたってね。凌也と同い年ってこともあって、ばあちゃんもじいちゃんも森岡珠里ちゃんをどこか身近に感じてたの。孫と同じ歳ってだけでね。当時は、コンサートを開けばテレビで報道されるくらい話題で、テレビの音楽番組にも出てたんじゃないかな。そんな森岡珠里ちゃんがこの街の劇場でコンサートを開くって、この辺りではえらく評判になったものよ。ちょうどデビューから一年くらい経った頃じゃなかったかな」
朧げに森岡珠里の輪郭が記憶の片隅に浮かび上がった。何となく、話題となっていたことは記憶にある。しかし五歳の頃の記憶など不鮮明で、森岡珠里の顔も歌声もまるで思い出せない。草叢を静かに奏でるそよ風が吹きつけただけで、輪郭が吹き飛んでしまうほど杉本の記憶は朧だった。
「森岡珠里は、ミュージシャンだったの?」
「いいや、クラシック。オペラとかそっちの歌い手さんだった思う。ソプラノ歌手って言うのかしら?」
杉本は祖母の記憶に頷いていた。杉本はオペラにも疎いけど、ソプラノとアルトの違いくらいは聴き分けられる。昨夜耳にした甲高い歌声は確かにアルトの声域ではなかった。ところが、ではソプラノの声域なのかと問われれば自信がない。もしかしたら、オペラにはソプラノよりも高い声域があるのではないか。もしそうだとしたら、昨夜聴いた歌声はそのソプラノよりも高い声域だ。それくらい高い、ちょっと裏声でも出せない声だったのだ。
「当時話題だったから、じいちゃんはコンサートに?」
「ええ。もう日本を席巻していたもんだから、ひどく楽しみに待ち焦がれててね」
祖父は、流行歌くらいは嗜んだけど、決して流行に目敏いほうではなかった。それでも森岡珠里のコンサートに足を運んだ理由は杉本にもよくわかった。もし来週、森岡珠里のような日本中で話題のソプラノ歌手がS市でコンサートを開くと聞けば杉本もチケットを争っただろう。
「コンサートは火事のあった一日だけ?」
「そうね」
「じゃあじいちゃんも火事に巻き込まれた……ってこと?」
「そういうことね。ばあちゃんは家にいたから火事がどんなふうだったかは見てないけど、やっぱり相当な火事だったみたい。じいちゃん命辛々帰って来て、額や頬や鼻は焦げたみたいに黒く煤けてたもの。でも相当ショックだったんだろうね。その日から森岡珠里ちゃんのことは一切口にしなくなった。テレビで訃報が流れたり追悼番組が始まったら決まって電源を切って、煙草に火を点けるの」
祖父が煙草を吸う姿は強く印象に残っていた。祖父は十年前に他界したが、死の直前まで煙草を辞めなかった。ヘヴィースモーカーだったのだ。
「じいちゃんの煙草量が増え始めたのもちょうどあの頃だった」祖母は言った。「やっぱり相当ショックだったんだわ」
屋外で長く話し続けるのが久しぶりだからか、祖母は少し疲れたようだった。自ら車椅子に乗り、一つ大きく息を吸い込んだ。
部屋に戻ると祖母はベッドに身を預け、水分補給の後で孫の持参した羊羹を取り出した。包み紙を解き、見るだけで歯が溶けてしまいそうな小豆色に祖母は嬉しそうに笑った。
「おいしそうだねえ」
中庭では過去のナイーヴな事件を語っていたせいで杉本は心がやや沈んでいたのだが、祖母は普段と変わらず元気だった。
「清子さあん、食べ過ぎちゃだめですからね」
千鶴の声に気が抜ける。どうやら二十年も前の話に気持ちを青く染めたのは杉本だけのようだ。
腕時計を見ると午後三時になろうかという頃だった。祖母の前で腕時計を見ると今でも嬉しい気持ちになる。沈む気持ちを自力で持ち上げることは難しいものだが、今はこの腕時計に救われた。
杉本は立ち上がった。
「じゃあばあちゃん、俺帰るね」
「気をつけて帰るんだよ」
「うん、また明日。――じゃあ、ばあちゃんのことよろしく」
「はい。気を付けてね」
千鶴は口角を吊り上げながら言った。
翠風荘の敷地を出た杉本は祖母の語った二十年前の火災の話を反芻した。二十年前に亡くなった森岡珠里についてはわかった。しかし、昨夜聴こえてきた歌声は何だというのだ。
杉本は僅かに首を傾げた。
2へと続く……