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【掌編小説】啼泣のワンルーム/飛由ユウヒ

 紙袋の中には、五百五十万のあぶく銭がある。三等の当選金から借金を返済し、豪遊するためにいくらか使った、その残り粕だ。
 身の丈に合わない幸運が煩わしかった。さっさと使い切って自由になりたかったが、不足のない生活に使い道などなく、精液を受け止めるティッシュ代わりにしてみたものの、資本主義に恨みのある奴らの道楽でしかなく、俺が求めているものはそこになかった。
 汚れた部位をシャワーで洗い流していると、遠くから着信音が聞こえてくる。借金の返し忘れはないはずだ。濡れた素足でバスタオルを取りに行く。「ちょっといい?」と、久しぶりの嫌悪が聞こえてきた。
「俺と縁を切ったんじゃなかったか」
 皮肉を交えて言うと、妹のアイカは「切ったわよ」と吐き捨てるように答えた。俺とおしゃべりがしたいわけはないらしい。「頼みたいことがあるんだけど」と口では言うが、本当は声も聞きたくないのだろう。不服さを見せびらかすように、アイカは言葉を継ぐ。
「ユリ姉の子どもを預かってほしいの」
「……訳ありだろ、それ」
「正直、あんたに頼みたくないわよ」
 自分のことを言われているのに、俺はアイカにひどく共感していた。
 アイカが言うには、半月前、ユリ姉から赤子を預かってほしいと電話があったそうだ。一日だけで良いからということで、偶然予定がなかったアイカは、息子たちにいとこの顔を見せてあげられる絶好の機会だと思い、その相談を受け入れた。しかし、日が暮れても迎えに来ることはなく、心配になって電話をかけると圏外になっており、慌てて家に押しかけると、そこはすでにもぬけの殻となっていたらしい。
「うちはすでに子どもが三人いるし、これ以上、仕事を休んでいられないのよ」
「だからって、俺以外なら誰でもいいだろ」
「……タケルくんから聞いたよ。宝くじ当てたんでしょ」
 タケルは、金で膨らんだ自尊心を消化したいがために飯を奢った、数少ない後輩だった。タケルとアイカの旦那が同じ職場だったことを今さらながら思い出し、ため息をつく。
「悔しいけど、お金と時間に余裕がある人がいないの。こんなこと家族以外に頼めないし、ベビーシッターを紹介するから、ユリ姉が見つかるまでの間だけでも見てくれない?」
「やだよ」
「あした、お昼に向かうから」
 語尾を強めたアイカによって、通話が断ち切られる。静かな空気から思考の波のようなものがどこからともなく押し寄せてきて、想像力が生み出した事態の過酷さに気が滅入る。赤子の面倒なんて見られるはずがない。
 寝て起きて朝が来ると、十時には家を空け、パチンコを打ちに行く。銀玉のぶつかり合う音のおかげで、思慮の隙を作らずに済み、罪悪感もなく気楽になれた。金はまだあったが、負けが続いてつまらなくなった。銭湯で体を休め、ファミレスで腹を満たしてから帰ると、ドア越しに子どもの泣き声が聞こえた。部屋の中では、桃色のエプロンをした女性が赤子を抱いており、俺は「あー」と間延びした声で状況を理解する。彼女の刺すような瞳に、「そういや、今日だっけ」とすっとぼける。
「おかえりなさい。遅かったですね」
「なんで勝手に入ってるんだよ」
「妹さんが開けてくれました」
「鍵は?」
「知りませんよ。そんなことより、この子をよろしくお願いしますね」
 エプロンの女性はベビーベットに赤子を置いた。小さな手と口が、何かを求めるように動いている。アイカがいないことから察するに、彼女を残して先に帰ったらしい。
「やることはこの紙に書いておきましたので、必ず読んでくださいね。抱っこの仕方ですが……」
「待ってくれ。俺には無理だ」
 矢継ぎ早に語る彼女をどうにか止めなければ、本当に育てることになってしまう。部屋をよく見ると、知らない家具やおもちゃが並んでいた。外堀から埋めてやろうというアイカの図太さに焦りを覚える。
「妹さんから、必ずお願いするようにと頼まれました。事情もあらかた聞いております。初対面の方にこういうことを言うのもどうかと思いますが、わたしはあなたたち兄妹を軽蔑します。ですが、それとこの子を守らないのは別です。お願いですから、この子を不幸にさせないでください」
 命を盾にされると弱かった。言い返すことができず立ち尽くしていると、彼女は感情を引っ込め、「では、抱っこの仕方をお教えしますね」と笑顔を作った。

 彼女はエプロンを外すと、丁寧に折り畳んでカバンにしまった。去り際、ベッドの赤子に向かって、「あしたも来るからね」と陽の光のような朗らかさでもって伝える。次の瞬間には、あなたもこうしてください、と言わんばかりの睨みを利かせ、部屋を後にする。
「俺の不幸はどうでもいいのかよ」 
 小さな指に触れてみる。誰もが共感し得るそのか弱さが羨ましく思えてくる。
「なぁ、知ってるか。不幸って幸せじゃないって書くんだ。幸せがあるから不幸があるんだ。不幸単体を表す日本語ってないらしいぜ。笑えるよな」
 赤子は俺の独り言を理解したのか、突然泣きはじめた。彼女ないし彼なりに何か思うことがあって、小さな頭の中から懸命に言葉を探すような、そんな声に聞こえた。言葉として伝わらなくとも、感情が胸に響いてくる。
 俺は赤子の真似をして泣いてみた。恥も外聞も捨て、自らの境遇を思い、大声で泣いた。あぐらを掻く不幸に向かって、気が済むまで泣いた。


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