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ミュージカル『팬레터』と『ファンレター』


比較一切なしの感想はこちら↓

自分用の記録。
個人の感想です。日韓どっちの方がいいとかはなく、それぞれの作品として好きでした。

一応私のスタンスとしては、日本のファンレターは作品としてはめちゃくちゃよかったし好きだったけれど事前にそのままの台本でやるって言ってた割には書き換えられた部分も多かったよね…っていう残念な気持ちも持っています。何をもって『ファンレター』とするんだろうっていうくらい韓国版とはキャラクターも主題も違ったから。

歴史に対するリスペクトは感じだけど作品に対する愛情は私とは少しずれてたって言うのが率直な気持ちです。

決して日本版が悪いとか韓国版が正解だとかそう言うのが言いたいわけではないです。

※ここでの韓国版とは基本的に4演(2021~2022)をさしています。

キャラクター編

へジン

東京公演始まってすぐに目についたのはへジンのキャラクターのちがいだったように感じる。全然春じゃない、一体何歳なんだ…って声がいっぱいだった。

韓国版のへジン先生は4演の時は4人のキャストがいた。
それぞれに違う個性も魅力もあるのでまとめては言えないけれど、あえて言うなら猫背は誰もいない。ちなみに台本に書かれた設定は29歳。

私が行ったのは兵庫公演だし、プロモビデオを視聴後だったのですでにかなりの情報があったため、初見の衝撃は皆よりはなかったと思う。

ただ、韓国のへジン先生って1幕は(特にセフンと初めて対面するシーン)誰がどう見ても「春」を感じる。セフン以外の人が見ても春を感じられる人である。既存の七人会メンバーと握手しながらにこやかに挨拶するし、友達のイユンと同じ職場になってちょっとうきうきしてる感すらある。だからこそ、1幕終わりから2幕にかけての精神の転落っぷりが激しくて見ごたえがある。日本版は最初っから根暗な感じだからそういう差はあんまり見れなくて残念だった。日本版はどんどんの負の感情を爆発していく感じ。

日本の浦井へジン先生は観客からはあんまり「春」は感じなかったと思う。少なくとも私には。その代わりセフンだけが感じことができる春があったんだと思う。この人がぼくの好きな作家なんだっていう春。セフンの精神に安心をもたらすという意味で春だったんだろうな。



だがまあ日本のへジン先生、、何だろう。なんで七人会に入ったんだろうっていうくらい陰キャだったな。イユン先生の誘い断れなかったのか??まああのユンに誘われたら断れないか。それじゃ仕方ない笑

ヒカル

個人的に一番韓国版との差はなかったキャラクター。
というか、韓国版のヒカルってみんな違ってみんな良いなので、韓国版それぞれとは当たり前に全く違うんだけど、混ぜても違和感ないというか。
あー、今回はこういうヒカルなのね、くらいのノリでみれた。

ちなみに韓国版のヒカルはのけぞらないし、低音の「あぁぁぁぁぁ」はない。主は家に帰ってなんかできる気がして一応のけぞりながら歌ってみた。腰がお亡くなりになった。←観劇後の私もできるかもしれないっていうあの感情は一体何なんだろうね。

日本のヒカルも韓国版の2幕のあの赤いドレス着てほしかったな。絶対似合う。ショートヘアという設定が日本ではおそらく歌詞の文字数の関係で消されてたので色んな髪型が見れたのは新鮮で良かった。

セフン

韓国4演のセフンは5人。もうぜんっぜんみんな違うタイプ。
個人的に日本のセフンはりょうくちゃんと준휘くんを混ぜた感じだなって思った。優しくて穏やかだけどちょっと人見知りで、どんどん狂ってくタイプ。

海宝セフンに対してこれだけは言わせてくれ。彼絶対人は殴れないと思う。たとえ本を踏まれても人のこと殴れないと思うんだ。殴ってないと思う、、。殴れるようなやつじゃない。私が保証する。준휘くんも殴ってないと思ってる。

(ちなみにりょうくちゃんは殴ったというより本踏まれて怒ってその生徒に肩ドンっってして教室出ていったのを殴ったって先生に言われたタイプだと思ってる。そんで、ソホくんのセフンはまじで殴ったと思ってる。ソホくんはほんと不良セフン)

イユン

推し。推しです。めっちゃ期待していった推しキャラです。めっちゃよかった。もちろんこちらも韓国版にはいなかったタイプの性格のユンだったんだけど全然違和感なく見れた。

キャラとしては日本版がいっちばんうざかったな。最高。

韓国版は口がよくうごくタイプって感じだけど、日本のユンは行動としてよく動くって感じだったな。普段はじっとみんな事見ていざというときがっつり動くタイプ。良い。


そして、なんか、うん、日本のユン先生なら烏瞰図とか書きそうって思った。まじで、意味わからん文ばっかり書いて学芸部長困らせてるのが想像できてとても良かった。

ファンテ

日本のファンテせんせー!!どうしちゃったんですか。めっちゃオタクじゃないすか。

韓国のファンテ先生ってこんなに賢そうじゃない。もっとほわんとしてて、七人会に新しいメンバー入れるの嫌がってちょっと拗ねちゃうような可愛いタイプ。

韓国と全く同じセリフを言ってるはずなのに日本版のファンテ先生のは全部説得力あった。キャラによってこんなに説得力出るのかって思った。

ちなみに韓国4演の台本を開いて1ページ目にある人物説明にはこう書いてる。

「29歳。京都の同志社大学を経て九州大学英文科を卒業」

どえれぇエリート。

韓国版はどっちかというと能ある鷹は爪を隠すタイプのファンテ先生。
日本版は学んできたものすべてを職場でいかんなく発揮するタイプのファンテ先生だなって思った。

日本版で学芸部長がセフンのこと日本語もできるんだよこの子~って紹介したとき訝しげにセフンを見つめたよね。

いや、あなたも絶対日本語堪能ですよね?

スナム

日本版のスナム先生は本当にかわいい、、、すなむせんせに可愛いなんて感情湧く日が来るなんて人生何があるかわからん。

投書のシーンで原稿をぎゅっと抱いてる姿は純粋に文学を愛しているのが分かってよかった。日本のスナム先生は最後セフンが七人会に入った後すごく仲良くなってそうだなって思った。

テジュン

多分一番日韓でのキャラの幅がなかった気がする。
学芸部長。その場にいるだけで場がまとまり、安心感すら覚える会社の上司感。ここは日韓に共通してあったキャラクター性だと思う。劇中での役割がはっきりしてるのもあってブレみたいなのはそんなに感じなかった。

キャラクターの関係性

日本版でいいなって思ったのは七人会のキャラクターの違いが一目瞭然だったこと。これは私の韓国語の未熟さもあるんだろうけど、韓国版を初めて見た時最初私はファンテとスナムのちがいってわかってなかった。日本版はかなり明確にキャラが違って見分けがつきやすかった。
全員がスーツじゃないっていう視覚効果もあるのかも。


韓国版は七人会の年齢差って全く見えない。もちろんキャストがたくさんいるからっていうのもあるんだろうけど、誰が一番年上でとかそこまでくっきりとは見えない。だからこその大学生みたいなわっちゃわっちゃしたノリが多い気がする。
日本版はへジンが確実に一番年上で、おそらくその次がテジュンとイユンあたりで、スナムがダントツの年下っていうなんかそれぞれ年の差が見えた。七人会に入った順というよりちょっと年齢の壁がある組織って感じだった。


あと一番違いを感じたのはユンとへジンの関係性。
日本はユンがあまりにも文学馬鹿なので、へジンを七人会に呼んだのは文学の天才だからであるという理由以外ないように感じた。七人会の中でもへジンとが一番の仲良しって描写もほぼなかった。みんなと同じ距離感。(これはへジン先生側に問題がある気もするけど)。結核という共通点を持ってる文学仲間の一人くらいにしか見えなかった。

一方韓国版。余裕でイユンとへジンのBL始まりますよねってくらい距離も近けりゃ精神的結びつきも強い。なんなら私はへジン、イユン、セフンの三角関係の物語だと思ってる。
拘置所でのシーンも日本版は好奇心旺盛で文学を愛するイユンが真実を探るって感じだったけど、韓国版は俺の大好きなへジンが死んだ理由を教えろってニュアンスが強い気がする。

だからなのか日本版のファンレターめちゃくちゃにミステリー色強かった。

シーンごとに

考察も感じたことも全部私の感想です。きっとみんな思うことは違うと思う。

1幕

遺稿集

日本版の紗幕(なのかな?)に影のライティングをすることでそこに何人もいるような演出になってるの面白かった。

これはあとでも書くけど、このサイレンは何だったんだろう、、。なんでみんなサイレンにビビってるの…??このサイレンは何を意味するの?

韓国版はサイレンが鳴って正午12時だね、やなご時世だねってくらいの感じでびびりはしないので。あくまで李箱の「翼」をモチーフにしてるサイレンだと思っている。だからこそ日本のサイレンは何かもっと他に意味を持ってそうで気になった。

彼女の誕生と死

拘置所のシーン
韓国と日本の一番の違いはセフンとユンが触れ合えないこと。

韓国版は机一つはさんで同じ空間にいる。手紙を渡そうとするときユンはもっと挑発するし、むかついて互いに胸つかんじゃう。

だから日本のイユン先生の両手が縄なのか手錠なのかでしばられ自由に動かせないのは見ててつらかった。

あと、さっきも書いたけど日韓のイユンのキャラが違うことによって「お前が殺したんだろう」っていうセリフがまったく違って聞こえた。

韓国は「お前が(俺の親友のへジンを)殺したんだろう」(怒り)
日本は「お前が(あのヒカルという女を)殺したんだろう」(好奇心)

っていう感じ。

どっちが正解とかはないのかもだけどどうなんだろう。普段からこのセリフは聞くたびにヒカルとへジンどっちの話してるんだろうとは気になってる。どっちにでも取れるセリフっていいよね。永遠に妄想できる。

あと一発目のセリフ「おや?誰かと思ったら」。
韓国版の「あいぐー」を「おや?」にして一瞬で彼の性格を表してるのは天才すぎた。ここだけ音源欲しい。アラームにしたい。(関係ないけど私は毎日ジチョルさんの「お前が殺したんだろう」を目覚ましにしてる。本当にこの曲好き)

誰も知らない

おとんがいないだと?!?!?!?
いや衝撃だわ、、。おとんの声がスピーカーから聞こえてきて、本が上から降ってきて…。韓国版見てた人には到底想像もできなかった演出だと思う。

韓国版はお父さんが普通に目の前にいて怒られて、目の前で本を投げ捨てられる。権力が視覚的にも立ちはだかる。

一回目の観劇ではここからの怒涛の演出のちがいにえ、?え、??ってなるばかりだった笑

まず手紙や原稿用紙がないこと。韓国版ではヒカルがセフンの手元から手紙をふわっと取りそのままへジン先生のもとに運ぶ。

それが完全に日本ではパントマイムだった。

韓国版のへジン先生って死ぬほど腰痛めそうな高さの机で書いててかわいそうだったから、先生の腰のこと考える日本の演出はとてもいいと思う(誰)

この後書いてるのは縦書きなのに読むのは横という矛盾にちょっと気になりつつもこういうもんなのかと思えば慣れた。
日本版の衣装とかの雰囲気には大量の原稿用紙よりはシンプルなパントマイムがあってた。


この後へジンとセフンがそれぞれの場所でそれぞれの思いを歌う場面。日本は上手と下手に立ち客席に向かって歌ってた。

韓国版は遠くから向かいあってお互いを思いながら見つめあって歌う。


ここから思った。日本版は彼らの気持ちを私たち(観客)に訴えかけるように作られているのだと。圧倒的にこちらを向いて歌うことが多い。

韓国版では心の悲しみを手紙の相手に歌いかけるけど、日本版では空虚なこの世界に訴えてるような、、。


多分その差が日韓でのキャラクター同士の関係性・結びつきのちがいを生んだんだと思う。

ナンバー7

七人会の部屋。イユン、スナム、ファンテがいてユンが懲戒を受けるのではないかと気をもんでるシーン。学芸部長がやってきて懲戒は免れたという。

もうまずこのユンの待ち方が全然違った。

私が愛してやまないジチョルさん演じるユンは学芸部長が来るまでもう気が気でなくて煙草をくわえて火をつけようとするんだけど全然つかなくてライターを何度もカチカチして、、。周囲に心配に対して「大丈夫、大丈夫だよきっと」っていうけどもう全然大丈夫じゃないのが駄々洩れ。

一方日本の木内ユン先生、椅子にどかっと座って笑みすら浮かべてる。こいつ、、ただものじゃないぜ、、!!!


ちなみに日本では学芸部長が入ってきてすぐに何事もなくことが進んだことを伝えるけど、韓国版では部屋に入ってきた学芸部長はめちゃくちゃ神妙な面持ちでユンのとこまで近づきそっと肩に手を置いてうなずき、悟ったユンが部屋を出かけた時にやっと「懲戒は免れた」と伝え、なんだよーーー!!驚かせるなよー!!っていうみんなのわちゃわちゃがまぁまぁ長い尺である。

日本の七人会にはこういう冗談が通じあうノリみたいなのは全くなくて本当に文学のみを愛する集団って感じだった。このシーン含めアドリブっぽさのあるシーンはほぼ削られてて間がほぼなくさくっと次にいくなあっていうのが多かった。


涙があふれる

学芸部長の「彼は日本語も堪能だ」というセリフに対し日本版は七人会のメンバーが訝しげにセフンを見る。スパイじゃないかと疑うような反応だった。

このシーン韓国版はこんな反応はない気がする。たぶん学芸部長がわざわざ説明するんだから少なくともプラスの印象なんだと私はとらえてた。「日本語が堪能が使えるやつが来たぞ」くらいの。

七人会のみんなが日本語ができるのかはわからないけど日本版の反応を見る感じ全員が当たり前に日本語が堪能というわけではないのかな。

それってどうなんだろう。私の認識ではこの時代はかなりの人口が、特にセフンのような年齢の子は統治後に生まれて朝鮮にいながらも教育として日本語がそばにあったし、イユンのモデルの李箱は日本語の作品を残しているし、ファンテも人物設定として日本留学経験がある。「ファクション」においてどこまでをファクトとしフィクションとするのかは難しいけれど歴史考証としてこの辺りがどういう設定になっていて日本版はなぜ七人会がそのような反応をするに至ったのかは気になった。


七人会の編集室に入り、憧れの先生たちを目の前にするセフンのシーン。イユンとスナムのことは知ってるけれど、ファンテのことは知らなかったセフン。

韓国版のセフンはイユンとスナムからサインをもらう。ファンテ先生はその間サインを書く練習をしてたにも関わらずセフンに無視されるっていうドンマイなシーン。そりゃそうだセフンだって知らん人のサインは必要ないよね。

でも日本版は逆にファンテからだけサインをもらってた。

韓国版を知ってる私からすると、「わーーーー!!!!ファンテ先生がサインできる世界線!!おめでとう!!」ってテンション上がった。

だけどこのシーンってあくまで「セフンは詩人のユン、スナムからはサインもらうけど、評論家であるファンテには興味ない根っからの文学少年だよ」っていう説明も兼ねてると思うので、なんで日本のセフンはファンテからサインをもらったのか疑問ではある。こういう細かい解釈違いがこの作品では多かった。


あとこれは違いが面白いなって思ったことなんだけど、セフンがスナム先生の詩を暗誦するところ。
韓国版は詩を暗誦するもののどんどん自信がなくなってきて……ってところにテジュン先生とファンテ先生が後ろから囁き女将をしてフォローする。
日本版は自信満々に暗唱してたのに最後「後が出ない」って潔く諦めてて面白かった笑笑
その後スナム先生の「大丈夫、俺も覚えてない」っていうのは同じ台詞なんだけど、日本のスナム先生はたぶん本当は覚えてるんだけど優しさでそう言ってあげてて、韓国のスナム先生は本当に覚えてないんだろうなって感じだった。

彼女に会ったなら

このシーンにヒカルがいるのはびっくりした。

ここはあくまでもへジンとセフンの二人だけのシーンだと思ってたから。けど「結婚するんだ」に対してひぃってビビってるヒカルかわいかった。ヒカルというかセフンの心の中があんな反応だったってことでしょ。かわいい。


日本のヘジン先生ヨードチンキ直すの雑いね笑。引き出しに投げ入れてた。割れちゃうよ??というか作業机の引き出しにヨードチンキ入れてるの!?あ、もしかしてマイヨードチンキなのですか!?
オタクなので全て深掘りしたくてたまらなかった笑

韓国版でもいつも思ってたけど七人会に入ったばかりの先生が編集室の救急セットの位置を知ってるってなんなんだ。こちらが思ってる以外に日時が進んでるのかな。

嘘じゃない

この歌が始まる前のユンとへジンの会話のシーン。韓国版では二人からは見えない場所でセフンはずっと会話を盗み聞いている。先生たちがヒカルの恋バナしてるの全部聞いてる。それに対して日本は完全に舞台にセフンがいなかった。

そのあとユンが強引にへジンを外食に連れ出すとき、日本版はユンが手紙の封筒をぽいって机において出かけるけれど、韓国はもっとへジンが手紙をセフンに託すことを躊躇する。ヒカルへの大事な手紙誰かに頼むことの躊躇いと、セフンに頼み事をすることの申し訳なさ。それがあった上で、セフンに手紙を託すという、セフンへの信頼が見えるシーンなのに、それがなかったのは残念。

だからかな。日本版のそのあとのセフンの「嫌われる」っていうセリフは少し違和感があった。君、、あんまり、、、好かれてもなくないか、、、??

韓国のセフンは自分に愛をくれる人から嫌われたくないって感じでこの「嘘じゃない」でヒカルを作り上げていく感じがあるけど、日本のセフンは自分の居場所を失いたくないっていう気持ちの方が大きいのかなって思った。


セフンがこのあと、一つずつヒカルを作り上げていくシーン。ここだけなんで「生年月日は?」って翻訳にしたのか気になった。「誕生日は?」っていう直訳じゃだめだったのかな。あとこの作品で訳詞について特に気になることはなかったけど(むしろ自然すぎて何も感想が残ってない。すごい)、このナンバーで「タンバルモリ」(ショートヘア)という単語はがっつり消されてたのはびっくりした。文字数で仕方なかったのだろうけど、ヒカルと言えばショートヘアだと思ってたから。

新人誕生

大衆の衣装が好きなのは日本版の韓国版の一緒。コートにハット、モダンでレトロなファッション。こういう衣装好き

けどやっぱりサイレンは気になった。特にこの場面のサイレンはあまりにも何かの意味を持ってるかのような大きさと長さだった。パンフレットに解説書いて欲しかったな。

文字、そのままに

日本版はここで衣装が少女っぽいのから赤のドレスに変わった。
曲の流れ的にもセフンが作り上げたヒカルというよりは世間が作り上げたヒカル像なのかな。

ミューズ

韓国版のこのシーンは七人会がみんなちょっと野次馬的な感じで、ウリへジンのミューズを探すぜいぇーいみたいなノリ。マジでやってること大学生。ミューズとかテキトーなこと言ってる感じ。絶対みんなまだミューズ出会ってないと思う(失礼)。テジュン先生は結婚してそうな気もするけど多分他の人は他人の恋手伝えるほどの経験値ないと思う(大失礼)。

一方日本のイユン先生。こやつ、、自分の経験から言ってやがるな、、って感じだった。木内ユン先生って絶対今彼女3人くらいいるよね。(嘘じゃないの前のシーン七人会の事務所にジャケットを腕にかけてやってくるところも朝帰りなんじゃないかとにらんでる)

あと日本版ではかなり真面目キャラのファンテ先生がこのシーンでは酒の勢いもあるのかノリノリでかわいかった。

韓国のへジン先生はここで泥酔。一方日本のキムへジン、酒もほぼ飲んでないのに鬱すぎる。先生まじで病院行った方がいい。


これは私の考察でしかないんだけど、韓国版ではこの曲でセフンが一生懸命手紙を奪い返そうとする姿をみてへジンが「もしや、、この子がヒカル?」って気づいたと思ってる。
このシーンでヒョンフンさんの演じるへジン先生は、それまでのシーンではにこやかだったのにここでいきなり真顔になってじっとセフンを見つめお前だったのか…っていう表情をする。ギョンスさんのへジンは優しく穏やかな視線をセフンに送り「絶対に言うなよ、わかってるけどこのままにしておいて」って目で訴えかける。
これが「告白」の歌詞に出てくる「あんなにチャンスをやったのに」に繋がってると思う。

そして韓国版のへジン先生はここのシーンを境に全くセフンと目が合わなくなる。わかりやすくヒカルしか見なくなる。


日本版のへジン先生もともとセフンとそんなに目が合わなかったから、あんまりそういう差は見えなかったな…。

日本のへジン先生はまだここではヒカルの正体に気づいてないのかなって私は思った。


繊細なファンレター

個人的に日本版で一番好きだった部分。私は3回観劇したんだけど、3日とも鑑賞後のメモに一番にここが凄い!好き!って書いてた。

「涙があふれる」から出てくるヒカルとセフンの背中合わせの演出がここに活きてくると思ってなくて感動した。

このシーンが多分唯一なんじゃないかな。韓国版を活かしながらオリジナルな部分もあった演出。そういうのを求めてたからうれしかった。

「ミューズ」からのこの曲が劇中唯一セリフを挟まず次の曲に行くっていう高揚感がある場面なのでもともと好きなんだけど、好きを再確認できた気がする。

そして個人的には日本のへジン先生はここでヒカルの正体を察したように見えた。


2幕

投書

新聞社に投書があり七人会が危機に陥るシーン。

韓国の七人会はそれまでがかなりわちゃわちゃと仲がいいからここで「僕らはなぜ争ってる」という歌詞が意味を持つんだろうけど、日本版はむしろ逆でここでいちばんの一体感があった気がする。


それはそれで見ごたえはあるんだけど韓国版に比べて「僕らはなぜ争ってる」(訳はうる覚え)っていう歌詞がそんなに映えなかったかなあと。ここも私との解釈のずれがあった…場面の一つ。

あと、韓国版ではファンテ先生がどっちかって言うと頼りない、とまではいかなくてもほわほわした人だから、このシーンめっちゃかっこいいんだけど、日本版は1幕からかっこいいが故にそのギャップを感じれないと言う謎の弊害があった。
ただ日本のあのファンテ先生が俺にもこの原稿は燃やせないっていったのはもう、、あの堅物オタクが、、泣

文学を守りたいけど自分たちの身も守らなければいけない葛藤があるこのシーンは七人会の一番の見どころだからもともと好きなんだけど、日本版はかなり1幕から「時代と文学」に重きを置いてる気がしてこのシーンはかなり重かった。

けどさっきも言ったけど私としては1幕ではわちゃわちゃしてた七人会がここでいきなり窮地に立たされるみたいなギャップも好きだからなぁ。

全然違う雰囲気だからどっちが好きとは言い切れないかも。

でも紗幕がおりてきての火を表す日本版のあの演出はめっちゃ好きだった。

文字、そのままにrep
星が輝く時間

韓国版はここからヒカルが赤のドレスに変わるけど、日本ではここから黒のドレス(ワンピース?)になってた。それだけで印象が全然違う。
2幕から妖艶になる韓国のヒカルと、2幕から落ち着いた大人になる日本のヒカル。

韓国版は二人の男性を振り回す悪女って感じがするけれど、日本のは淡々と自分の世界に引きずり込むような静かな怖さがあった。

でも日韓に共通してどこかそこには母性みたいなものがあって(決していい意味だけじゃない。今でいう毒親みたいなニュアンスも含めての母性)それはきっと無意識にセフンが求めてる母親の存在でもあるんだろうなと思う。

共に生きる伴侶

ジチョルさんのユンはそれまでへらへらちょろちょろしてた人がここでぐっと静かになってじっと歌うような感じ。そのギャップにいつも死ぬ。(さっきからの発言からもわかる通り私はギャップに弱い)

それに対し、日本版のイユン先生はそれまでは静かに椅子に座ってセフンの動向を見張ってるようなタイプだったので、ここのシーンで感情を思いっきりだして舞台も大きく使って動いていて印象は真逆だった。

あと、ヒカルとへジンのセリフが一部音響として録音で流れてた部分。あれは日本版のみの演出。別にどっちでもいいけどあそこだけちょっと浮いてる感じはしたから私は好きじゃなかったな、、。


ユンがへジンのペンを奪いこんな状況になってまで創作活動をするもんじゃないという。それに対しへジンが反論するシーン。
もうこれは好みの問題なんだろうけど、日本版はやっぱりユンとヘジンの結びつきが弱い気がして、これがユンである必要性はあんまり感じなかった。同じこと学芸部長が言っても同じ流れになったんじゃないかなぁと思ってしまった。
日本のファンレターはそれぞれキャラも立っててそこはこちらバージョンとしての良さがあるんだけど、その一つ一つの変更が原作にあったはずの良さとの矛盾を生んでるというか、消しちゃってる感じがすごく残念だった。


へジンの「生きたいんだ」というセリフ。
私の知ってる韓国版は静かに涙を流しながら言う。俺の命はもう長くない。できることは今文を書き後世に残すこと。そうやっていつまでも文字の中で生きていきたい。生きたいんだ。君にもこの気持ちわかるだろう?というニュアンス。このあと私が好きな韓国版の二人の組み合わせは、おでこくっつけあいながら笑い泣きをする。同じ作家で同じ余命の二人って感じがする。

日本版は絶叫&号泣の「生きたいんだ」。ユンにそんなこと言われなくてもわかってる。でもこうするしかないんだ。俺だってもっと生きたい。生きたいんだ。でも、、。って感じだった。このあと子供みたいに泣きながらユンの腕に抱かれてる姿は韓国版とは全く違う印象で泣いちゃった。


こういう同じセリフでのキャストによってニュアンスが変わるといういうのは国を越えてのリメイクでなくても大好物なのでとても好きだった。


星の輝く時間rep


韓国版の円盤をいつも家で見るとき正直直前の推し(ユン)しか目に入ってないからこのシーンの印象って残ってなかったんだけど、、。
日本版のを見て思ったのはここで出てくるヒカルって多分セフンが作り上げたヒカルじゃないよね。へジンの頭の中にいるヒカルなんだと思う。

ヒカルとセフンの一番の見せ場のシーン。こういう反発しあう二人のシーンって作品問わず基本的に大好物なのでここも私のお気に入り。


ペンを刺すシーンの演出は私は日本版が好きだった。見ててうおぉぉぉぉ!!ってなった。

それまで韓国版にある間が基本そぎ落とされてかなりサクサク進む印象だった日本版ファンレターだけど、ここでセフンが右手にペンをさす、つまりヒカルを消すシーンは韓国版よりもペンを刺すまでの間が長くて。一瞬息が止まるような感覚になった瞬間どのシーンよりも明るい照明とクラッシュシンバルによる衝撃音。役者と裏方と観客とすべての一体感があった。

韓国版にも言えることだけどこのペンを刺した後に訪れる静寂が本当に悲しくて。暗くなる舞台の上に一人ぼっちになってしまったセフンが崩れ落ちていくのは絶望でしかない。まあこのあともっとしんどい展開になるんだけど。

告白

「僕の心さえ殺したんです」(訳うろ覚え)のあとのへジンの「なぜ殺したんだ」っていうセリフは韓国版ではかなり間があってから言う。手元にあるOSTを聞いてる感じ少なくとも4小説は間がある。その間にへジンは少しずつセフンに近づき、もしかしたら許してくれるのかもしれないという希望を一瞬与えておいてから「なぜ殺したんだ」っていう。

日本版はその間が全くなく、へジンはかなり食い気味にこのセリフを言うからまた違った絶望があった。

へジンの手紙

韓国版は「涙があふれる」でかなり「春」の存在感のあるへジン先生、その後狂っていく&弱っていくけど、このへジンの手紙で最初の「春」の穏やかな姿に戻る。A→B→Aの流れ。

一方日本版、最初がまったく春じゃなかった影響でここにきて全く初めて見るタイプのへジン先生が登場。声も今までと全然違う。A→B→Cって感じだった。

死んで穏やかになったんだなぁ………ってなった。それくらい穏やかな姿と声で。浦井さんと海宝さんの2人の歌声は本当に素敵でもっともっと聞いていたかった。短すぎ…。

でも私はこのシーンはやっぱり最初に戻る方が感動があるんじゃないかと思うので、次がもしあるなら最初は春っぽい浦井へジン先生が見てみたいな。

私が死んだとき

セフンの送辞。

このシーンは解釈違いにもほどがあった。台本には「ヒカルが現れ後ろからセフンを抱きしめる」って書いてるのにそれが日本版では消されていた。
台本はそのまま上演しますって事前にホームページにも記載されていたにも関わらずこんなラストのシーンで書き換えがあると思わなくてびっくりした。

日本版ではヒカルが七人会よりも高い位置に現れ、セフンにペンを差出し、そのペンにピンスポットが当たって幕。

最後のヒカルってどういう意味なんだろう。

韓国版ではへジンとともに現れるヒカル。へジンに行っておいでって見送られてヒカルはセフンの元に帰ってくる(=セフンはへジンから書く力をもらう)という終わり方。


色々自分なりにこの場面について考えてみたけど日本版のセフンは自ら書くことを選んだってことなのかなって思う。ヒカルは結局セフンだから。心の中にヒカルを呼んでまたもう一人の自分と書くことを選んだっていう現れなのかな。

またいつか見たらこの解釈は変わるかも。

カーテンコール

ナンバーセブンrep.
劇中7人が全員集まることは1度もないこの作品で唯一みんなで歌うところ。

韓国版はセフンの送辞のあと、普通に一人ずつ出てきてお辞儀をして拍手があって~っていう本当のカーテンコールがあってからの歌唱。

日本版はカテコの曲って感じではなかったね。最後の曲って感じだった。劇の続きだった。多分私がこの日本公演が韓国版と主題が違うように感じたのはこの場面も大きいと思う。

カテコとして歌うと普通にわーーパチパチーーで終わるんだけど、この歌を劇の続きとして聞くと歌詞が重くのしかかってきた。その違いが良いのか悪いのかはわからない。歴史を伝えるという点では良いんだろうけど、作品の印象が変わってしまうという点においては疑問ではある。


あと本当のカテコのお話。

日本版では七人会に明らかな年齢差を感じたはずなのに、カテコになるとキャストの誰が年上で年下か全くわからないこと。びっくりした。お辞儀するときもだし、カテコでのご挨拶の時のお話ししてる雰囲気でもみんなあだ名で呼び合ってて年齢差が全然わからない空気が不思議だった。
あと座長という文化を教えてもらってこれは韓国版ファンレターでは全くない空気だなと。

韓国は年齢の差がはっきりしてし、一つでも歳が違えばあだ名で呼ぶようなことがない。それにカテコでもやっぱりセフンが(これはキャストにもよるはずなんだけど)1番年下でみんなでセフン役をじーっと優しく見守る雰囲気がある。

だからカテコで主役としてしっかりどっしり挨拶されてる海宝さんがすごくすごく自立した大人の男性としてそこに立ってて、私からしたら新鮮だった。みんなにとっては当たり前の光景なんだろうけど。

その他色々

音楽のアレンジ

思ったよりもアレンジ多かった!
最初の「遺稿集」も韓国版では三連符になってるイントロのメロディが装飾音符としてかなり軽快になっていたり、「嘘じゃない」のファンタジーって歌詞の直後に転調したりとか。

この作品の代表的な歌詞でもある「ナンバーセブン、ラッキーセブン」。韓国版は拍に合わせて歌うのに対し日本版は少しアウフタクトで入っていて力強さが違った。

あと「送辞」の最初とかカテコの「ナンバーセブン」のラストがアカペラになってたのとか。

2幕は日本の方がジャズ色が強かった気がする。

翻訳


ひとつも気にならなかった。台詞も歌詞もすっと心に入ってきて、違和感がなくて、家に帰るまで忘れてたくらい。始まる前はあんなに訳がどうなるんだろうって気になってたのに、帰ってからはすっかりそんな心配も忘れてた。それくらい違和感なく心に入ってきた。プロってすごい………!!!

でも、あえて、ほんっとに強いていうなら?
으뜸は気になった。気になったというか「ふぇぇ!!!そう訳すのか!!!」って劇中唯一そこだけ劇から脳みそが現実に戻ってきて翻訳のことを考えてた。
日本版では「ナンバーワン」「ナンバーツー」って訳されてたユンのセリフだけど、元々の単語は「으뜸」「버금」。直訳すると「1番、最上」「次ぐ」。だから勝手に和語か漢語で訳されると思ってたからまさかのカタカナ〜!!!英語〜〜!!!ってなった。

「小説家のキムヘジンはどうだろう」とか「京城府本町2丁目衛生病院」とか日本語にすると語呂が悪い(文字数が合わない?)ところは歌詞じゃなくセリフとして歌に組み込まれててすごく自然だし聞き取りやすかった。

こういうのに感動するたびいつか翻訳の勉強をしてみたいって思うんだけどそうするとなんだか純粋にエンタメを楽しめなくなる気がして葛藤してしまう。(まぁまだそんな勉強する領域まで来てないんだけれども。)


最後セフンはどうなったか

これは私の解釈なのでみんながどう思ったかはわからないけれど。最後送辞を歌った後、この物語の後、尊敬するヘジン先生を失ったセフンはどうなったのかについて。私なりの考察。

韓国版
りょうくちゃん演じるセフン。この物語の後、割とすぐに死ぬと思ってる。先生のこと大好きで周りをちょろちょろしてたし、個人的には「鏡」の段階ではセフンも結核になってると思ってる。送辞のあとは先生のような小説家になりたくて作品を書くけれど作品が世に出る前に死んじゃうと思ってる。そういう儚さがある。


ソホくん演じるセフンはヒカルが自分の中に戻ってくるけど結局は文学作品は書けないままだと思う。そういう葛藤の中で生きて行く雰囲気がある。その代わりお世話になったへジン先生とイユン先生の作品をまとめて、世に出す活動とかを七人会でしていくんじゃないかな。


それに対して日本の海宝セフン。
日本版はヒカルがセフンの中に戻ってくるのではなく、ヒカルがセフンに対してペンを渡す演出で終わった。これはこれからセフンは書こうとするけど世の中に降りまわされ自由な文学活動ができないことへの暗示のようにも見えた。ヒカルのペンって誰かの人生を振り回すから。それにそうなんじゃないかと思うほどに日本版のファンレターは「時代×文学」がテーマになってたから。




何だ、私の解釈全部アンハッピーじゃないか…??
この部分の考察はいろんな人のを聞いてみたいなあ。




まとめ


今回のこの日本公演は作品に対するテーマが完全に違ったと思ってる。
韓国のは「愛×文学」だと思っていつも見てるけど、日本のは「時代×文学」だった。文学に対する重みが全然違った。逆にこのテンションのを韓国でやってたら私は多分この作品を好きにはなれなかったと思うし、日本が韓国版の雰囲気のまましてたら伝わるものは全く違っていたんだと思う。

日本版を見たときの違和感はそもそもテーマが違うと思えば納得できないこともなかったし、でもあまりにも解釈違いなとこが多くてうーんともなったし…。もう少し時間を空けたら考えが変わるのかな。


けど私としては「セットも演出もキャラクターも同じで実力がない」ものを見るよりは「セットも演出もキャラクターも違うけどクオリティが高いもの」を見るほうが有意義な時間になると思ってたから。今回はすごくいい作品に出会えてよかったと思ってる。ただそれが私が好きな「ファンレター」という作品なのかというとわからないだけで。でも絶対にジェネリックな作品になるよりは今回のこの形がよかったと思う。とても満足。良質な余韻の中で今もまだいる。


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