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れいゆ大學⑤⓪ PERFECT DAYS / 怪物 / ほか7つの映画についての解説
PERFECT DAYS
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1987年のヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」で、ブルーノ・ガンツは長いあいだ人間を見守る天使だったが、地上に憧れて人間になった。彼はある日、ドラマの撮影をしているピーター・フォークと出会う。フィクションの物語の中で、彼だけは《本人》の役で、つまり日本でもかつて人気だったアメリカの「刑事コロンボ」を演じていた俳優のピーター・フォークである。そしてそのピーターは、俺も昔は天使だったと微笑んで言うのだ。ブルーノは堕天した先輩がいたことに驚く。映画の命題は、ブルーノがサーカスの女芸人に恋をし、普遍的な愛ではない人間同士の愛を知ることだ。だから、ピーター・フォークとの邂逅のシーンは、劇中ではじつに些細なシーンである。
ヴェンダースが日本を舞台に制作した映画「PERFECT DAYS」も、ブルーノやピーターと同じく、かつては天使だった男の話だ。そうでなければ説明がつかない。ヒラヤマさんは、古い文学を好み、60年代の音楽を聞き、古いアパートに暮らし、フィルムで自然を撮影し、神社に詣で、銭湯に通い、コインランドリーで洗濯し、植物を育てる。現実の日本人なら、音楽マニアならレコードを収集し、音響にこだわる。しかし彼はカセットテープである。文芸マニアなら初版の単行本を収集し、本棚にこだわる。しかし彼は古本屋の百円の文庫本である。植物マニアなら松や梅の盆栽を買う。しかし彼は神社の境内で木の芽を拾ってくる。最近の「ミニマリスト」というのは嘘だ。ミニマリストは、モノや文化に愛着する才能がなく、心に興味がない未熟な連中だ。ヒラヤマさんは違う。彼はカセットテープ、文庫本、木の芽の盆栽と、「世界への愛」を「小さな形」で確かに表現する。それが彼の暮らしである。
職業は渋谷区委託の公衆トイレ清掃で、2020年から2023年までにつくられた「THE TOKYO TOIRET」という渋谷区の公共事業によるデザイナーズトイレが担当だ。安藤忠雄、隈研吾といった建築家による洗練された見た目と機能のトイレである。リアリズムを期待する映画ファンは「ヴェンダースは小津安二郎が好きだから、東京をきれいに撮っている。実際のトイレはもっと汚い」と言うだろう。あるいは東京の事情に詳しい人なら「実際にデザイナーズトイレはきれいに使う人が多い」と言うだろう。そうだ、ヒラヤマさんは、その虚実のあいだ、また日本の矛盾のあいだに存在する。古くからある汚い公衆トイレではなく、未来的な公衆トイレを清掃するヒラヤマさんが、自らは古い木造アパートで暮らす。当世の都下における出来得る限りの調和としての彼がいる。
映画の中で、アニマルズの「HOUSE OF RISING SUN」が主人公の自動車で流れ、別のシーンで石川さゆりがスナックで日本語で歌う。日本でも「朝日のあたる家」という邦題で多くの歌手に歌い継がれた名曲で、高田渡はアニマルズよりもさらに原曲のメロディで「朝日楼」として歌っていた。これはニューオリンズの売春宿で生きていくしかない女の寂しい歌である。映画の中でいくつかの歌が使われるが、二度歌われたのはこの歌だけだ。(石川さゆりが「朝日にあたる家」を歌うとき、私は高田渡の弟子として、高田の旧友であるあがた森魚がギターで伴奏し、高田の心の弟子であるモロ師岡が歌を聞いていることに、強い意味を見出しもした)
ボードレールは「すべての労働は売春である」と言った。ヴィム・ヴェンダースは役所広司を21世紀の日本に懸命に生きる都市生活者の依代にしたのだ。このことを念頭に、映画をもう一度見てほしい。
ヒラヤマさんは自転車で行ける範囲までを自分の領域にしている。地下鉄やJRには乗らない。下町の風景に対して不粋極まりない東京スカイツリーに対して愚痴を言うこともないし、紀伊国屋書店に行って商業主義に偏った現代の出版に物申すこともない。彼はただ、幸田文を読み、金延幸子を聞き、BOSSの甘いカフェオレを飲んでいる。姪が家出をしたら泊める。恋する女の元夫に対し、心を差し出す。
嫉妬や悔しさは自己愛だから、彼は自分のためには泣かない。世界と自己が重なったときに感情はそっと浮かびあがる。「日常」が静かに激しく膨らんでは溶け、痛々しく柔らかく放射し、そして朝日が繰り返し昇っていく。でもヴェンダースは優しいから、エンディングテーマは「HOUSE OF RISING SUN」ではない。パトリック・ワトソンが歌う「PERFECT DAYS」は、元はルー・リードの歌だ。
"You're going to reap just what you sow" (あなたは自分で種を蒔いた分だけ刈り取るだろう)
ああ、ヒラヤマさんは、傷だらけの「私」のために、涙をこぼし、微笑み、祝福をしてくれている。「僕も昔、天使だった」と。
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怪物
1950年製作の黒澤明の「羅生門」は、ひとつの物語を複数の視点で繰り返し描いていく画期作で、その手法は「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ多くの映像作家に受け継がれ、現在ではテレビドラマでもよく使われている。「羅生門」では三船敏郎演じる悪党による殺人についての複数の証言が語られ、その事実が食い違っていくが、「怪物」ではそうではない。中心にある真実に対して、視点という複数の事実が張り巡らされている。真実とは「光」であり、光に向かう「雨」だ。
「万引き家族」と同じくクリーニング店で働く安藤サクラが展開する校長室での抗議は、目的を見失った社会構造における犠牲としてリアリティがある。そして、その正義であり犠牲である母性は、すぐ近くにある息子の真実を育てもし、隔てもした。彼女は死んだ夫が野口美奈子さんという女と不倫旅行中に事故死した事実を隠そうとしている。立派なお父さんだったと語ることで繕っている。
もう一方の少年は、家では虐待され、学校では苛められている。その防衛手段として、不思議な賢者のように振る舞う技術を習得している。しかし彼の中身はボロボロである。彼が意図的に書く鏡文字は、この世界がすこしだけ変わってほしいという願いが込められた魔法である。彼は果敢にも魔法を試し続けた。
少年たちは、大人がつくる欺瞞と偽善の社会に対し、計画を実行する。森の中の電車は母胎として機能し、産道としての地下水道を潜っていくと、《さっきと少しだけ違う世界》が広がっている。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のラストシーンと同じように、世界はすこしだけ変わっている。試練を経て、人は生まれ変わることができるのだ。
この映画を同性愛者の少年たちの物語として認識する他人事の思考こそが差別的であり、セクシャルマイノリティについての映画として批評したがる視点こそが「怪物」である。「死んだ」のか「生まれ変わった」のか、そのいずれでもない。まさしく、「ビッグクランチ」が起きたのだ。
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