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れいゆ大學⓪ 《民俗学》鬼と酒蔵、タタラ場と鬼

原稿用紙15枚。3245字。



※この大學は、数奇な運命を生きてきた《れいゆ》が、世界を読み解き、ゆかいな光を放つ、ほんとうの大學(小学校の可能性あり)です。


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著者 緒川あいみれいゆ)


ひとつふたつは赤子も踏むが

みっつよっつは鬼も泣く泣く

タタラおんなはこがねのなさけ

とけて流れりゃ刃にかわる

「タタラ踏む女達 エボシ タタラうた」詞:宮崎駿 曲:久石譲



タタラ場、酒蔵、アマテラス。差別と聖別、忌避と崇拝。神は呪いが消えなくて、風が吹いては鬼が泣く。


タタラ場の大屋根がダイダラボッチによって崩壊するとき、酒蔵の歴史を脱構築せよ?!


 

【酒蔵の歴史】


日本書記、スサノオがヤマタノオロチの退治の際に酒をつくらせた神話の物語に始まり、役人や巫女が酒をつくった奈良時代、僧侶が寺院で酒をつくった平安時代、豪商が造り酒屋を創業した鎌倉時代を経て、そして江戸時代になり、天下泰平の世に刀を下ろした武士が商人となり酒蔵を建てたとき、いつのまにか酒づくりの場は女人禁制になっていた。

現代では女性は酒蔵で働いているが、その名残りは依然としてある。生まれてきた女の子が蔵元を継ぐ家は僅かであり、蔵人の責任者である杜氏に選ばれる職人にも女の人は少ない。



【差別と聖別、忌避と崇拝】


かつて平安の頃に酒造りの最初の儀式行程である、《米を嚙み、米を撞く》という神聖な役割を担っていたのは穢れなき巫女であったが、江戸時代にはその日本的なケガレ思想がいつしか反転され、女たちは酒蔵には足を踏み入れないものとなった。

《女将さん価値観》と《血の穢れ価値観》のデットヒート状態である。すなわちそれは、仏教的な考えと神道的な考えの入り組んだ社会的状態でもあるだろうし、そして戦乱の世が終焉を迎えたことにより、武士が商人になるというコペルニクス的転回が発生したことも関係しているだろう。

しかし、古代では巫女が酒造りに最重要だったことと、やがて酒蔵が女人禁制になったことは、どちらも同じ日本的価値観をルーツに持つ。あるいは大相撲の土俵に女性は上がれないことと、かつて地方に女相撲という芸能があったことも、同じ心理をもとにする。

差別と聖別。忌避と崇拝。

浄土真宗を開いた親鸞は、僧侶が髪を伸ばし、獣や魚の肉を食べ、結婚をすることをよしとした。それは遥か時空を超えた一本の菩提樹の下に坐る、すべての仏教の根源であるお釈迦様が「惑わされるなら女を見るな」と言ったことを反転させたものだ。自我を無我に還すために、人類史の中で思想家たちは考えを巡らせてきた。



【神の不在、鬼の出現】


明治維新、GHQ侵略、ゆとり教育という3つの段階を経て、もうすっかり日本人はアホになってしまった。昔ながらの日本的価値観を骨抜きにされつつ、キリスト教的社会に暮らしていないのにも関わらず、欧米的価値観によって善悪や多様性を捉えるようになった。

だから日常の中で、歴史を分断して一部に都合のいい時代の雰囲気をつくるような現象が起こることが普通になってしまった。文明が進むということは、人類が賢くなっているように見えて、じつは思考停止になっていくことでもあった。

神の不在である。

フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で語った意味とは違う。日本人は《超人》にもならなかった。

酒蔵の蔵元も歌舞伎役者も、なぜ娘が家を継げないかを明確に答えられない。女とは、人類とは、日本とは、神道とは、歴史とは、宇宙とは、何なのかをときに答えられない。

答えられないとき、鬼が出る。



【タタラ場の女たち】


宮崎駿監督の長編アニメーション映画「もののけ姫」では、エボシ御前という女首領が周辺の武士もミカドさえも侵犯できないほどの独立国家を形成している。

そこでは男たちは牛飼いや門番をし、らい病(ハンセン病)患者は石火矢という銃を製造している。そしてエボシの砦での主なる生産は、鉄である。タタラ場という製鉄所で、砂鉄から鉄を産む。その最深部で働いているのは男たちだが、砂鉄を燃やすために風を送る鞴(ふいご)を踏んでいるのは女たちである。

タタラ場が村や町から離れた山の中にあったのは史実だが、女たちがタタラを踏んでいるのは宮崎駿の創作だ。実際には、タタラ場は酒蔵のように女人禁制だった。

白拍子だったが倭寇の頭領の妻にさせられたエボシは、クーデターを起こして陸に上がり、独立したコミュニティをつくった。タタラ場に加えて家事や育児もしている強い女性たちは、宮崎駿のもとで働くスタジオジブリの人々の姿でもあるだろう。



【それは巨大な母胎である】


それぞれの歴史的な流れは異なるが、酒蔵や土俵や現実のタタラ場が女人禁制だったのも、女には血の穢れがあるという古来からの日本の考えがあるからだ。

アマテラスが天の岩戸から出てきて太陽が再生したように、女は生命の源なので、ものづくりの場では血は穢れとして忌避される。巫女や神道がもっと暮らしの中に自然にあった時代は違ったが、文明が進み、社会構造が複雑になっていったとき、人類はルールを反転させる。


長い時間をかけて酒や鉄といったマテリアルを製造する空間は、それ自体が巨大な母胎だった。

お酒や鉄は胎児であり、酒蔵やタタラ場で力仕事をする男たちは生命を循環させるための子種である。

だから、実際の女の人が母胎に出入りすることは理にかなわなかった。


あるいは相撲の土俵もまた母胎である。異常に太った力士たちは赤ん坊を身籠った妊婦を模した姿だ。相撲は神事の奉納芸能なので、妊婦の姿をした相撲取りが「はっけよい、のこった」と取っ組み合い、転がって、これを神様に楽しんでもらい、五穀豊穣を祈願するのである。



【神は両性具有、鬼は女】


このことに関して、宮崎駿は日本の神々が登場する二つの映画で、じつに器用にバランスを取っている。「もののけ姫」でも「千と千尋の神隠し」でも、主人公の少女が生理(経血)の時期であることが間接的に描かれるシーンがある。なおかつ、エボシ御前と湯婆婆という女主人が組織の頂点に君臨する。神道や民俗学を踏まえた上での近代的日本人の描写である。

と同時に、アシタカ、モロ、乙事主、シシ神(ダイダラボッチ)といった善悪を超えた人ならざる者たちが、エボシ御前よりもさらに両性具有的に描かれもする。

神は両性具有であり、鬼は神に器をあたえる女である。

遥か彼方からやって来たマレビトであるアシタカも、森を荒らされたモロも、タタリ神にさせられた乙事主も、エボシたちがいなければ彼らの存在はキャラクター化されない。

アシタカがやたらに「我が名はアシタカ」と挨拶をするのは、神々は人間がいなければ名前すらないことを意味する。川の主であるハクも湯婆婆の支配下に身を置いている。

カオナシは、そのあいだにいる。

神々のためのお風呂にすら普通に入れないカオナシは、神と鬼を繋ぎ、人の心の鏡として、千尋の眼前に現れる。



【現代へ】


時は流れ、日本はもはや東洋でも西洋でもなく、良くも悪くも新たな生活スタイルやジェンダー観が、まるで人類補完計画のようにすべてをフラットにしようと伝播する。

また宗教的感覚も薄れていき、その中で、女人禁制は習慣としても解かれていった。

現代の日本では、女性の杜氏は多数活躍する。杜氏が語源である刀自の意味に還ったとも言える。血縁を根拠にする蔵元ですら、全国で50ほどの家で娘さんや奥さんが継いでいる。天晴れだ。

しかし、女の子が蔵元になれず、女性が杜氏にすらなれない酒蔵も依然として多い。

タタラ場はというと、かつてと同じ鉄づくりの技を受け継ぐ「たたら製鉄」は日本で唯一、出雲に現存し、伝統を守っている。



「そなたの中には夜叉がいる。この娘にもだ」


未来から来たような旅人アシタカが、近代人としてのエボシに云う。

タタリ神の呪いが腕に憑いているのはアシタカなのに、彼は人と向かい合うときに自分を消す。

蝦夷の集落の王子様の立場を喪失し、血縁からも切り離された、何者でもない彼は、如何なる領土争いもフェミニズムもハンセン病差別もすべて超えたところにいる。彼はたったひとりで、解決策を見出そうと奔走した。


アシタカには、思い出がないから。



おしまい♡




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