祖母が最期に稽古をつけてくれた話(前編)
はじめに
このほど祖母が息を引き取りました。
今週水曜日に葬儀を終え、あとは諸々の法要を控えるのみです。
まあ目まぐるしかったですね(笑)
富士山を全力ダッシュで登頂したような感覚です(笑)
いまの時代、俺と同じく、結構な歳になるまで本格的な葬儀に参列する機会のない人も多くいらっしゃると思います。
この記事をひとつの実例としてお役立ていただければ幸いです。
四日間の荒稽古
祖母の生前、もう長くないことがはっきりしたときは「手厚く供養してやらなきゃな」と思っていました。
とんでもない思い上がりでした。
あの四日間、息を引き取った祖母からたっぷりと稽古をつけてもらったようなものです。
悪癖について
俺の悪いところはいろいろあるんですが、見栄を張るところ、体面ばかり気にする節があり、自分でも手に負えませんでした。
強がるというよりは、卑屈なぐらい謙遜して同情を買おうとするタイプですね。
要するに誰からも可愛がってもらいたかったんです。
そこを祖母が徹底的に叩き直してくれました。
祖母が危篤となった日曜日から葬儀を終えた水曜日までの四日間、一睡もしないか、せいぜい2~3時間の睡眠で葬式に臨んだこともあり、幾度も作法を破り、場違いな発言を繰り返し、そのたびに恥じていました。
祖母に申し訳ないというより、自分の体面が傷つけられ勝手に悔しがっていたんですね。
こういう悔しさは幾度となく経験していて、自己嫌悪の種になっていました。
いまも完全にはぬぐい切れていません。
それでも八割方、いや、九割方は拭えました。
なにも祖母が息を吹き返して喝を入れてくれたわけではないですよ(笑)
普段なかなかないような家族・親戚とのやり取りのなかで鍛えられ、学んだ次第です。
詳細は中編に譲ります。
葬儀そのものの持つ意義
祖母の生前は「俺の葬式なんて直葬で十分だ」ぐらいに思っていました。
ほんとうにそうなるかもしれません。
ですが、葬式は単なる弔いではなく生きる側の人間のためのものでもある、というのは真実です。断言します。
弔事とはいえ、葬式は悲しみの中から日常生活へ復帰するための短期リハビリのようなものかもしれません。
いまはすっかり心が整っています。
まあ泣きましたよね(笑)
祖母が亡くなった日、叔母と俺が斎場に泊まり込んだんですが、感極まって喫煙所に駆け込んで泣きました。
ぶっちゃけ祖母の生前からめそめそしていたので涙は枯れたと思っていたんですが、そうでもなかったみたいですね(笑)
でも、そのあとは雨上がりの青空が広がるようなスカッとした気持ちになりました。
極言すれば、生きる側の人間として「心の湯灌(ゆかん)」をしてもらったようなもんです。
中編は主に近しい者たちとのやり取りについて書いていきます。
自分語りが続きますので覚悟してくださいね(笑)