雑記、僕をなす言葉で
「賢いけど、器用ではないよね」と先輩に評されたことがある。
割と当たっている気がする。
知識とか記憶力とかがあるだけ。
哲学の民であることが僕を作っていると思う。
きっかけは高校で倫理にハマったことと、カントが好きだと思ったこと。
カントは、動機が良いことを良いことと見なす。とんでもなく綺麗だと思った。
でも、カントの潔癖さに倣おうとしたら、高校3年の時に、なぜ勉強するのかわからなくなった。
受験に失敗すると親に叱られるから、という動機は汚いと思っていたし、その結果として得られた成績が上がることすら正しいとも感じられなくてずっと迷い続けた。
透明でありたかったのだ。
自分のことを粗大ゴミだと思っていた。
僕は自分のことを、歪な姿をしたバケモノだと思う。
他人の言葉のつぎはぎでしかなくて、幽霊みたいだとも思う。
小学生の時に、幽霊とあだ名をつけられて、眠れなくなったことも、たまに思いだす。
初めて精神科に行ったのは、大学生のころだった。
「死にたくない」と、「死にたいけど死にたいとは言わない方がいいという判断をしている」というのは、外から見れば「死にたそうに見えない」という点では同じでも、全然違うと思う。
「前から死にたかったけれど、口に出さない方がいいというブレーキが最近は効かない」と説明したことを、「最近は死にたいと思うのですね」と医者にまとめられた。
「それは全然違う」と言ったら「哲学科の人らしいですね」と言われた。
でも、哲学科の人だからじゃないんだと思った。僕が、僕の感情をそうまとめられたのが違うから嫌だと言っただけのことで、哲学科だろうが物理学科だろうがまだ高校生だろうが、それは関係ない気がした。もし所属が違ったら、「理系だからですね」とか「法学部だからですね」とか「芸術系だからこだわりが強いんですね」とか言われたのだろう。
「人生や仕事に何を求めますか。目的はなんですか。その理由も教えてください」とアルバイトの面接で聞かれた。
もう、記憶があやしいのだけれど。
「人生の目的は幸福だと思います」というところは今も変わらない。
でも「幸福は目的であって、富や名声などの幸福をなす要素を得るための手段ではないからです」としか言えないし、幸福のビジョンにも具体性がない。それが本当にダメだと思った。あと、アリストテレスの名前を出してしまったが、日本語訳すらまともに読んだことがないのも良くなかった。
人生、というやつについて、嘘をつきたくなかった。適当なことを言いたくなかった。
でも、こんなわけわかんない答えの中にアリストテレスを巻き込むくらいなら、適当言った方がマシだったな、と今は思う。
当然面接は不合格だった。
これも哲学科だからじゃなくて、僕がダメだからだとしか思わない。
バケモノで、つぎはぎの幽霊で、
少なくともエピソードの積み上げが僕を作るなら、人生とかについてはきちんとした言葉を選びたかったけど、
多分それは相手の人生の時間を食っていることにも想像が及んでいなかったのが、当時の僕の幼さだったと思った。
就活の面接で、「ニーチェについては緊張してないみたいに話しますね」と面接官に言われたことがあるけど、大学生ってそんなもんじゃないですかって思ってた。
そんなわけはなかったみたいだけど。
「大卒の肩書きが手に入るなら卒論とかなんでもいい。このコースはレポートが多いから彼氏に手伝ってもらえるし」と言い放つ同期がいてびっくりした。卒論がなんでもいいわけはないと僕は強く信じていて、それゆえに何も決断できなくて延々と先延ばしにしていた。
彼女はさっさと就職を決めてジム通いとインターンに明け暮れていた。
僕はそもそも履歴書を書き上げることができなくて、面接を受けに行くことすらできない状態で、とにかく惨めだった一方で、彼女のことを羨みながらも見下していた。
僕には興味のあることが少なかった。哲学にも倫理学にも全然向いていないつもりだったけれど、たぶん他のことにはもっと向いていなかった。
大学3年生の冬、卒論のテーマを決められなくて、ほかの大学からいらしていた先生に毎回せかされていた。「くじでもなんでもいいから決めて何か読みなさい」と。
結局、もうどうしようもないと思って、少しでも読んだことのある思想家の名前を書いたくじを作った。
ニーチェを引いたから、やるかあと思った。選び方があまりにも愚かすぎるし、ドイツ語は出来ないけれど、どの訳文にも共通する力強さとか勢い(感嘆符が哲学書にしてはあまりにも多い)は好きだったし、ニーチェの生涯も大まかに言えば大天才が発狂して若くして亡くなるという感じで、なりたくはないし近くにいたくはないがドラマチックだと思った。とにかく惹かれるものは多かった。
ちなみに『ツァラトゥストラ』は哲学書ではないと言う人も結構多い。今思い返すと、自分の卒論は哲学ではなくて、散文を分析しただけかもしれない。
中島敦は明らかにニーチェを読んでいて、影響を受けている。
これについて何か書けないかと思ってゴールデンウィーク明けくらいまで国文学の図書室に何回か通った。でも、国文学の全くわからない学部生の手に負えるものではなかった。
9月の就活イベントで出会ったイタリアからの留学生が「中島敦いいですよね! まだ3ヶ月あるんだから卒論できますよ!!」と明るく言っていた。むちゃくちゃが過ぎる。
このイタリア人の留学生と少しだけ話して、(彼女は中島敦を知っているのに、僕はイタリアで中島敦のポジションにあたる作家を知らない)と恥ずかしく思った。
高校くらいの教科書に載っているとか、同じくらいの時代だとか、作風とか、中島敦と共通項のある作家がイタリアに一人もいないはずがないのに、何も思いつかなかった。
とてもお世話になった先生が、「法学部に入って、『法の下の自由』って講義で言われて、(自由ってなんだろう、いつ説明があるのかな)と考えていたら何回講義を聞いても全く説明がなくて、『自由とは何かっていうのは哲学のやること』と指摘されて哲学科に入り直した」という話を、最初の講義でしていたことを覚えている。
「原罪について考えている時が一番幸せ。デンマーク語が母語なら最高なのに」と話す先輩に、卒論を添削してもらった。
「昨日の晩何食べた?」みたいなテンションで、死後の世界の有無について意見を求めてくる先輩もいた。
僕は、疲れているとき、どういう原理に基づいていかなる行動を選ぶべきかについてずっと考えている。別に全然幸せではないが、考える。そう言うと「哲学の人だね」と言われる。
上の三人と比べたら、自分は全然哲学の人じゃないと思っていた。
絶対優位と比較優位の問題なんだろうな、と思う。
他にもっと得意な人がいるならそっちに譲ったほうがいい。でも、自分の中で比較した時に得意ならやる、という選択肢もあるはずだ。
ところでこれは話が違うのだけれど、逆音セシルというUTAU(音声を合成して歌唱させることができる無料のソフト)を入れました。
1曲でもカバーを完成させることを目指して調整を頑張っているところです。とても楽しい。霧島さんありがとうございます。
調整の講座もすごく参考になりました。
ちなみに、選んだときに初心者向けかどうかは全く気にしていなかった。
好きな声で好きな歌を歌ってほしいというだけだったので、じゃあ知っている限りで一番好きな声の子にしようと思ってセシルを選びました。
とんでもなく可愛い。
セシルの予想外の効果として、腱鞘炎にならないためにちょっといいマウスを買った、というのがある。
これまで、有線の安いマウスを持っていたが、差し込み口がノートパソコンの左側にしかないのにマウスは右に置きたい、というので、結局コードが鬱陶しくてずっとトラックパッドで頑張ってきた。
環境が整備されると、他の作業も多分はかどるので、これは予想外の外部効果と言って良い。セシルありがとう。
攸