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妖怪(ばけもの)になりたくなかった

先日、漢検の準1級に合格したという判定を得た。
自己採点と大差なく180点。過去問も買って解いたが、9割取れたのは初めてのことだ。
当然、合格したくて受けたから、まずは嬉しい。
そして、勉強している間に抱いた感情についても書き記しておこうと思った。

とは言っても、僕の話より先にこちらを見てほしい。
Quizknockの志賀玲太さんによるエッセイ。


これは、志賀さんの文章を読んで、漢検のために勉強した僕が、救われるとか救われないとか、考えた話だ。

過去問で良い点数が取れたら、今までに積んできた言葉が肯定された気がした。知っている言葉は、何を見て、誰を見て、何を考えて、何を感じたかと直結するから。
それでも、言葉を使って人に触れることがとても恐ろしい。
言葉の意味を訊かれたら、人並み以上に答えられるはずだ。なのに、個々の場面で発するべき言葉はいつもわからない。メールも電話も、たぶん下手だ。
自分の知識にはもっと適切な単語がないか、とずっと欲張って探して、決然とした態度が取れない。何よりも、クッション言葉が足りないとか、婉曲表現がうまく使えない。それは気遣いがないからだ、と思う。
漢字、ひいては言葉に触れる機会は、どう考えたって試験の外にある範囲の方が広かった。そして、感情が揺さぶられるのは決まって試験の外で起きることだった。

中島敦が描写する妖怪(ばけもの)。大学生の頃に読んでから、自分と遠くないという印象が今でも剥がれない。

 なぜ、妖怪(ばけもの)は妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に貪食で、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩で、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。

中島敦『悟浄出世』

私自身は、どこかが極度に発達した妖怪というよりも、大きな欠落を抱えた何か、だと幾度も思った。
字を書くのが少し得意な妖怪。フィクションで見るならいいけれど、自分がなりたいものではないと強く思った。
言葉の意味ばかりを知ることに、コミュニケーションの問題が解決する途がないことはとうに知っていた。テキストを開く理由は、漠然とした不安があるからだ。知識を少しでも積んでおきたい。

ただ、たった一つの試験に向けてだとしても、万一誰かに「もっと他にやることがあるだろう」とか思われるとしても、頑張ったのは疑うことじゃない気がしている。

僕は今後も言葉というやつのせいで山ほど苦しむんだろう。
ASDのせいだとか言いたくなることだってたくさんあるに決まっている。

漢検は間違いなく人生の一部になってしまったけれど、一部でしかないというだけのこと。
そう思って、これからも歩いていければ、と思う。

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