受付嬢京子の日常⑫ついていくのか、引っ張られているのか
洋楽が流れている。ノリのいい曲に明るい気持ちになる。電車の中で原田京子は周りを見渡す。おしゃべりに興じている女子たち。大学生だろうか。確か路線の先に大学がある、と京子は思い出していた。京子の降りる駅にも、いくつか大学のサテライト教室があったはずだ。どこの大学の何学部か、までは覚えていないが、たまに時間が被ると、いかにも大学生、と言う団体が、働いている施設の改札を通る。
原田京子は駅直結施設の受付で働いている。時給の良さに派遣会社から紹介された時から絶対に逃したくないと思って働いている。もうすぐ2年になるのかぁ、と同じ車両の人間の服装を見て、1人ごちる。今まで電車の中ではスマホをただ覗いていた。京子が電車に乗っているのはほんの二十分ほどだ。どう使おうと思ったこともなかった。洋楽を聴くことにしたのは、同じ施設で働いている吉田洋子の影響だ。
夏頃、昼休憩に声をかけてから、施設の中でだけの付き合いだが、少し仲良くなったと京子は思っている。見ていると、洋子は京子が思っていた以上に人に話しかけられている。運営事務所の人間、他の店舗の人間。通行客には自分から声をかけているが、よく道を聞かれもしている。大抵は彼女の仕事でもないのに、案内している。たまにインフォメーションに案内されてきたかと思えば「美味しいもつ鍋屋さんを教えて欲しい」というような答えづらい内容ばかりで、その度に京子は何かを挑まれているような気にさえなる。
洋子は海外の観光客の道案内も英語で済ませてしまう。京子を始め、今インフォメーションにいるスタッフは誰1人として英語を喋れない。対応しているのを見ると、その方はこちらに案内しなくていいです、という気持ちになる。
「あの人、便利ですね」
同じインフォメーションで働く片岡聖奈が言った。京子は自分が仕事しないのを棚に上げて、感謝するどころか「便利」と表現したことに驚いた。
「え?」
「だって便利じゃないですか。何でもやってくれそう」
目線の先にいる吉田洋子が笑っていた。見送りながら、購入したものを渡している。何を買ったのかな。小さな紙袋だが、洋子も客も満面の笑みだ。洋子は、立ち去る客に深々と頭を下げている。上半身を上げた後、見えなくなるまで立っていた。いつもの姿だ。便利、などど評していい人だろうか、そんな訳がない。顔には出さない怒りが湧く。でも、と京子は思う。感謝だろうと便利な人と思っていようと、洋子から見れば、仕事をしていないインフォメーションスタッフという点では変わらない。
「あ、あの本社の人。絶対あの人狙いですよね。最近ずっと来るし、警備室に入りびたってるの、知ってます?」
背の高い男性が洋子に話しかけている。春頃から何回か来ていたが、確かに最近週3回は見かける。インフォメーションに必ず立ち寄る。
「でもあの人、結婚してなかった?」
確か指輪をしていたはずだ。インフォメーションデスクに必ず手を置くクセがある。最初は見せびらかしているのかと思ったほどだ。
「してると思いますよ」
なんでもないことのように聖奈が言う。京子は背中に変な汗が流れるのを感じた。
「滅多なこと言うもんじゃないよ。誰が聞いてるかわからないし」
京子はそう言うのがやっとだった。追い討ちをかけるように、警備員の高田登が噂話をしてくる。
「あの2人、ダブル不倫みたい」
訳知り顔が気持ち悪い。ダブル不倫も何も、洋子は結婚もしていない、と反論しそうになる。
「絶対落とすって息巻いてたから」
高田が言うのは、本社の男の話だろう。なぜ結婚していてそんな話を平気でするのか。相手のことを考えないのか。さらに、それを魔に受けて噂を流す方も流すほうだ。京子は自分の顔が真顔になっていると感じながら表情を戻せない。
「ま、原田さんはこんなことに興味ないよね。そうあって欲しい」
そう言いながらステップでも踏むように高田は歩き出す。これはまずい。洋子に、早く伝えなければ、と京子は使命感に燃えていた。
「洋さん!」
京子が洋子を見つけて従業員通路で声をかける。お互い手洗いに来ただけだ。時間がない。
「噂になってます」
京子は噂をまとめて話した。聞き終わった後でも洋子は笑顔だ。
「あー、ダブル不倫はないけど、私が結婚していると、佐々木さんは思ってると思うよ。デートに誘われた後に、濁してたら『結婚してるんでしょ』って言われたから、否定しないでおいた」
「なんですか、それ!それ確認した上でデートに誘ってるんですか?あり得ない!」
「面白いよね。私デートに誘われることとかあんまりないからよくわからないんだけど、斬新だった」
本気で楽しんでいそうな顔だ。あの人も結婚しているのに、と京子が言うと「私にも家庭があるから安心してください。あなたの家庭を壊すつもりはありません」と言ってきたそうだ。心底気持ちが悪い、と京子は寒気がした。
「洋さん、もうちょっと危機感持ってください」
「大丈夫だと思うよ。他の店舗の人は信じてないだろうし、そもそも佐々木さんも自分の身が大事だろうから言いふらすって言っても警備室だけじゃない?うちの会社には報告してあるし」
「え・・・それって逆にこっちが不利じゃないんですか?」
「京子さんがこっちをどっちの意味で言ってるかわからないけど、施設を運営している本社の人間がセクハラまがいのことをしている、と言うのは不利だろうねぇ」
余裕の笑みである。「それぐらいのことはこちらで対処するが、何かあった時はよろしくお願いしますって伝えてあるの。リスク管理は大事だけど、決定的なことがない状態で大騒ぎするのは得策じゃない」と洋子が言うと説得力がある。前の派遣先で社員同士の揉め事に巻き込まれそうになった時、派遣会社に言っておけば良かったのかな、と京子は別のことを考え始めていた。
「洋さん、電車の中で何してますか」
洋子の堂々とした態度を見ていると、何事もないような気がしてくるから不思議だ、と京子は思う。店舗に帰りながら全く別の話題を振る。
「洋楽聴きながら本を読んでる」
洋子が休憩室で本を読んでいるのを見かけたことがある、と京子は思い出す。「洋楽好きなんですか?」京子の質問への答えは、「本の邪魔にならないのと、英語って聴いてないと忘れちゃうから」簡潔そのものだった。
電車の中で京子は、答えた時の洋子の顔を思い出して口角があがる。洋子は質問すると答えてくれるが、けして教えてくることはない。自分が追いかけているだけだ、と京子は思う。
でも‥と京子は窓の外を見る。なるべく人と深く付き合わないでおこうとする自分が、引っ張られているような気もする。