「こうあるべき」の枠は、あいまいでいい。
自分が、どちらの枠にも当て張らない、という思いになるのは、
他人が作った枠の概念に引っ張られているからではないか、と思ったりする。
人間は、もともと“曖昧な存在”ではないのだろうか。
女性と男性
例えば、「レディース エンド ジェントルマン」という呼びかけが、どちらにも当てはまらない方に配慮してなくなっている。日本語ではもともと、「皆様」と呼びかけられているので変化はない。
ではそもそもなぜ、分けて呼びかけていたのだろう?と言う疑問が湧いてくる。この疑問に関しては、歴史的な背景がありそうだ。レディースを先に言っているところはレディファーストの文化からだと学生時代に聞いたと記憶している。
配慮が進む中で、自分は男性だ、女性だ、と意識する人も出てきているようだ。
身体的な性別と、心の性別が違うと感じると、非常に苦しい思いが生じるというのは、想像にかたくない。胸が膨らんでいくことへの違和感がある、あるいは、自分に濃い毛が生えてくることにゾッとする、など。
精神的に「こうありたい」と思うのに、そうなれない、という状況でも大いに悩み、自己嫌悪を抱くのが人間だ。身体の場合は、はっきりとした目に見える違いがある。大いに苦しいだろう。
また、自分の体に違和感は抱かないが、自分は何者だろうか、と悩むように、性別にも悩む人がいる。そんなことで悩まなくていいのに、と言ったところで、本人にとっては、私が「なぜ生きているのか」と小さな頃から考えていたような、自然な悩みなのだろうと思う。
個人的な考えだが、性別もまた、曖昧なものではないだろうか。身体的特徴は置いておいて、ここで書いているのは、精神のである。男性の中に女性性はあるし、女性の中に男性性はある。身体的特徴に合わせて、分泌量が多めなところで「男性ホルモン」「女性ホルモン」と呼ばれているホルモンも、全ての人間がどちらも持ち合わせてバランスを保っている。
自分がどちらの性別か、曖昧なものではないだろうか。
平安後期に書かれたとされる、「とりかへばや物語」と言うものがある。「男性らしさ」「女性らしさ」を反対に持ち合わせた若君と姫君が性別を取り替えて生活をする。当時は人生も短く、第二次性徴期を迎える前から出仕をしていた時代なので、なんとか成り立つ世界観だが、外に出て暮らすうちに、恋慕から第二次性徴期の身体的特徴の成長や自らの性に近づいていく。結局身体的な性に戻って生活をするのだが、元の特徴、優しく細かなことに気づく男性、思い切りがよく果敢に挑む女性なのだ。この物語をもとにしたマンガが売られている。「とりかへばや物語」に作者の解釈やマンガ用に変えていることは多くあると思うが、ベースとしてはわかりやすいだろう。
平安という時代であっても、同じように感じる人はいたのだろう。だから物語は成り立ち、書き写されるなどして後年に残っているのだ、と思う。
他人が決めた「男性らしさ」「女性らしさ」「男性脳」「女性脳」の枠が広まっているから、それに対して悩む。自分はどちらなのか、と。実際は多かれ少なかれ、どちらも持ち合わせているものなのだ。
優しいと冷たい
優しい人間でありたいと願っているのに、つい「何やってるの!」と子どもに大きな声で怒ってしまうのはなぜだろう。
子育てを始めて18年と半年。最初は
「生きている?」「笑った」「歩いた」「初語が「これ、ちょうだい」とか天才か」
と死なせないための責任感に身を削り、生きているだけで喜びの対象だった。そのうち、「1人で生きていける人間に育てる」責任感に変わる。
「靴下はけた」「トイレに行けた」「保育園で1日過ごせた」「友達できた」「髪の毛が洗えるようになった」「1人でお風呂に入れた」
そこから「ちゃんと納税できる大人に育てる」責任感に変わる。今となっては、生業とするものを見つけて生きていけばいいと思っている私も、初めての子育ての時は、「知能」を上げるにはどうしたらいいのか、と考えていた。長男が小学生になると子供は3人いたので、緩くなっていく。
「宿題を毎日する」「忘れ物をしない」
今でもこの2つしか小学生の子供には求めていない。ただ、取り組み方が違った。上2人の時は低学年の間毎日、目視でチェックを入れ、宿題をしてからでないと友達と遊べないルールにしていた。下2人は、声をかけるが、私が見てチェックするのは週に1回2回程度だった。その結果、下2人の忘れ物の多さは伝説的だ。目視に戻せばよかったのだろうが、私にそれだけの気力がなかった。
つまり、毎日「怒ること」に疲れたのだ。上2人はこの私を優しくなった、と表現する。私は長男の時に強く渇望していた「優しい人間でありたい」を実現したのだろうか。
実感として逆だ。「何やってるの!」と大きな声で怒る途中で激減し、「何する時間?」「それってやっていいことだった?」に変わった。声かけは変わったが、優しいわけではない。考えさせる育児に代わって行っただけだ。
そして宿題チェックをしないから怒る回数が少ない、というのに関しては、冷たくなったのだ。怒られたら、自己責任。怒られて自分で嫌だと思えば、忘れなきゃいい」と突き放しているのと同じだからだ。
曖昧と内包
常に様々なものを「内包しながら」生きているのが、人間だと私は思っている。
自分がどちらの枠の人間かと決める必要はない。
どうしても欲しければ、自分が決めればいい。
人生は他の誰でも、神様ですら関係なく、「自分が納得する」場に心や意識の拠り所を見つけてそこにとどまる事だ。
先日、リプライをしながら、私は確かに常にこう考えているなと思った。
起業してうまくいく人いかない人
「私が起業したらうまく行くと思いますか?」
と聞かれることがある。
起業してうまくいく人間かどうか、なんて関係ないと思う。誰だって失敗はしたくない。それが額が大きくなるなら、なおさらだ。でも、その枠すら、曖昧なのだ。
ネット上には「人脈」「お金」「学歴」もない凡人な自分が、うまく行った、と書いている人は山ほどいる。なぜこれを書くか、というとこの3つがない人間は一般的に「起業してもうまくいかない」と思われているからだ。
実際には、「人脈」「お金」「学歴」があってもうまくいかない人はうまくいかない。逆も然りだ。
では、わざわざ他人が決めた概念の枠などなくていいではないかと思う人もいるだろう。この枠ができたのは、人間が生き、悩む間に、自分を何かに当てはめると楽になれる面があるからできたものだと思う。決めればいい。自分はこっち寄りのこっち、という枠の当てはめ方でいいのではないか。
だから、自分は起業しない、という結論に至るために、「起業してもうまくいかない」枠に入りたかったら、それでいいのだ。逆にそれでもうまく行った自分、になりたければ、起業すればいい。
ビジネスもまた人間が生み出す世界に内包されている。
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