見出し画像

極端な性格のわたしが最近思うこと、

何故こんなに極端な性格なのかと思うのだけど、小さい頃から人生というのは「すごく好きでとてもやりたいこと」と「やりたくないけどやらなきゃならないこと」の二種類しかない、と思いこんでしまっている。「とりあえず何も考えずにすること」という、真ん中がいつも、ない。感情が強いせいもあるけど、好きか好きじゃないか、いつもそこを見つめてしまう。更に気持ちにむらがあるのもあって、凝りだすとそのことしか考えられなくなり、飽きるとそのすべてを忘れてしまう。(noteを更新するときは一気に何個も何日も続けて更新するけど、しなくなるとそのまま半年くらい忘れる、みたいな感じ)。

好きに関しては殆ど変質狂的な取り組みかたをするタイプで、それが出来るようになるためなら基本どんなことでも出来る。時間がかかろうが労力が異常にかかろうが、全然苦にならない。そのぶん、「そうでもない」ことへの力のかけたくなさといったら、笑いが出るほどだ。まさに、「やらないためならどんなことでもする」のあれで、別に無理に頼まれてないことでも、「させられてる」感じが強すぎてテンションが地の底まで落ちてしまう。

でも、それではあまりにもあまりにも、人生が大変だしもったいなさ過ぎる。好きじゃなくてもやるべきことは世の中にいくらでもあるわけだから。だから出来ればもっと生産的に、もっと楽しくおこなうためにどうすればいいか、について長い間考えていた。

そうでもない、を、好き、にしてしまえば話は楽なのだけど、好きでしかたないことにはいつも理由はないので、それらを「好き」に昇格させるのは結構ハードルが高い。まず、あれこれ理由を付け足して自分を納得させようとしている時点でかなり無理が生じている。

それで最近、ああでもないこうでもないを繰り返し、とうとう導きだした答えは、「目標を持つ」、だった。

当たり前みたいだけど、実は目から鱗の考え方だった。好きなことには常に夢と目標があるのに、したくないことは、いつも「やっつけ」で、それをすることの先にあかるい展望がひとつもなかったから。だから当然やる気も起こらないし、なんでこんなこと、みたいな文句ばかり言いたくなる。

これからはやることを決めたとき、なるべくそれが好きか嫌いか、でばかり判断しないで、「これをやり遂げることで自分は最終的になにになりたいか(どこへ行きたいか)」というような、もっと幅広い、静かな視点で物事を見つめよう、と思う。あわよくば、その目標そのものを「好き」になってしまえば、しめたものだ。