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SNSの「お友達になって」、重すぎて薄かったけど色々考えてしまった

少し前にSNSであった出来事のことを。

某顔本や画像特化SNSでおなじみの大手によるテキスト投稿型SNS(長い)を好奇心から一時期使っていた。

その時に相互フォロワーになったアカウントがいたのだけれど、そのSNSで12月にスタートした別の某SNSをお互い始めたことがわかった時に言われた内容が引っかかった。

「お友達になってほしい」。

フォローとかフォロワーとかじゃなく「お友達」。
正直な話、目にした瞬間に重いな…と思ってしまった。

SNSでのお友達ってなんだろう。

自分がフォローして、フォローされたら相互に繋がるわけだけれど、それだけでお友達になったとはいえないような気がする。

だって、フォローという行為ってタップ(クリック)1つで出来て、タップ1つで外すことも出来るようなお手軽な行為だ。
相互フォローになったからって、お友達になったとは到底思えないのだ。

もちろんフォローしてみた結果、末永く交流していけたらいいなと思う人もいる。
だけど、自分の気持ち1つ・相手の発言1つで明日はもう今後交流したくないと思っているかもしれないし、相手だって何かが変わって自分から離れていくかもしれない。

だからフォローという行為について深く考えても、何かあったときに深く悲しくなるだけだから、あえて軽く考えるようにしているところはある。

だけど、心のどこかで、マイペースでいいからじっくり交流できるような関係に憧れてる部分はあるんだろうな。
自分がそうなりたいと感じる相手に、思われていることへの重さを感じさせたくはないから、一瞬そんなことを思っちゃったくらいの気持ちで表には出さないようにしているけれど。

自分の根っこの気持ちに、こういう気持ちがこっそり横たわっている。
だからこそ、「お友達」という言葉に重さを感じつつ、意識して色々考えを巡らせることになったのかもしれない。

結局、お友達になってと申し出てきた人は、お友達になって欲しかったはずのSNSには顔を出さなくなり、私もそもそも最初に相手と相互フォローになったSNSを全く覗かなくなってしまった。

だから、お友達になれるかどうかどころか、相互フォローの意味合いすら見失っている状態になっている。
確実に、このnoteも視界に入れることもないだろう。

「お友達」なんていっても、ただの相互フォローの表現違いというだけのようだ。
まあ、正直そんなものだろうなとは思ったけどね。

大してどういう相手かもよくわからない段階で、お友達になるかどうかなんて解るわけがないじゃないか…と私は思うけれど、人によって「友達」という言葉の基準は違うので、温度差があるのは仕方ないものだ。

まあ、重さを感じた割には薄っすいこと…って思っちゃったのは確かだけどさ(失礼)

ただ、こうやってnote上において「SNSにおける友達」の定義的なもの、そして私のSNSにおけるフォロー・フォロワーについて考えるきっかけをくれたのは間違いない。

それはそれで良かったと思うことにして、またいつも通りSNSを楽しむことにしよう。 


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