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現代のビジネスマンにとっても大切な考え方!吉田松陰も座右の銘にした「知行合一(ちこうごういつ)」とは?

こんばんは。道谷内です。

知行合一(ちこうごういつ)」という言葉をご存知ですか?

中国・明の時代の思想家である王陽明が唱えた、陽明学の命題のひとつとして有名な思想になります。
日本の歴史でも多くの人が影響を受けたとしても知られていて、幕末の思想家であり倒幕論者としても知られる「吉田松陰」が影響を受けたことでも知られています。

吉田松陰は、自身の私塾である松下村塾でこの「知行合一」についても塾生たちに伝え、知識を着実に実践できる人を育てたと言われています。

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明治維新の原動力となる人材を育てた吉田松陰

幕末、激動の時代を切り開いた吉田松陰。
吉田松陰は松下村塾で多くの志士を育て、29歳という若さで亡くなりますが、その“志”は塾生たちに受け継がれ、明治維新の原動力となりました。

吉田松陰は山口県萩市に生まれ、山鹿流兵学師範となるために、叔父である玉木文之進の厳しい指導を受けました。
兵学は、用兵や戦術などを研究する学問で、江戸時代には儒学とならぶ武士の基礎学問のことです。

周囲の人々から英才教育を受け、10歳のときに藩校明倫館の兵学師範として教壇に上がります。
秀才と噂され、11歳のときには藩主・ 毛利敬親 (もうりたかちか) の御前で兵学講義をして、19歳で兵学師範として独立し、藩校明倫館で本格的に教授を行いました。

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しかし、黒船来航を期に、直接自分の目で海外の実情を確かめたいと考え、海外渡航禁止令を犯した罪により野山獄に投じられます。
その中でも学問に対する意欲は旺盛で、1年2ヶ月の間に600冊以上の書物を読んだと言われています。

安政2年(1855年)獄を出て後も、野山獄で行っていた獄中講義が評判となり、親類や近所の若者たちが教えを請いに集まってきました。
そこで講義を始め、のちに松下村塾を主宰することになります。

ここでは、身分や階級にとらわれず誰でも学ぶことができました。
時間割もない自由な雰囲気の中で、塾生が来れば昼夜を問わず授業が始まりまったそうです。
吉田松陰は塾生一人一人の個性を尊重し、その能力を伸ばすように指導しました。
松下村塾で教えた期間はわずか1年あまりでしたが、90名程もの塾生たちを育て、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となる人材を育て上げました。

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「知行合一」とは「知識は行動を伴う」ということ

そんな松下村塾の掛け軸にも掲げていたことで知られている「知行合一」。

「知行合一」とは、「知識と行動は一体であり、知識は行動を伴う」という意味です。
頭の中の「知識」だけでは本当の意味で知っているとは言えません。
行動を伴って経験することで本当の意味で知り、知っていても実践しないのでは知っているとは言えないことを表します。

知識をどんなに詰め込んでみても、そこに実践が無ければ意味がありません。
本来、知識というものは何かを実践するために獲得するもの。
しかし、知識ばかりを溜め込んで、一向に実践しない人は案外多いのかもしれません。

つまり「知っているのにやらないのは、知らないということと同じ」ということです。 

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まとめ

吉田松陰が生きた幕末の時代とは違い、インターネットを通してたくさんの情報が手に入る情報社会の現代だからこそ、知識ばかりが先行して行動が伴わないということは頻繁に起きているのではないでしょうか。

「知行合一」は現代に生きる私たちにとっても、「知識」と「実践」は切り離せないものとして大切な考え方になります。

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