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生き物に対する「かわいい」において重要なのは、部分ではなく瞬間ではないか、という話
太ももに、原因不明の内出血ができていた。結構痛々しい。
実際は痛くないし、生活になんの支障もないのだが、見るたびに「何があったんだおまえ…。」という気分になる。
本題に入る前に一つ断っておくと、私はこの文章で何か意義を申し立てたい訳ではない。
ただ、私には他方への理解が著しく欠けていると思う次第なのである。
最近、カラオケで友人らがよく歌う曲がある。FRUITS ZIPPER「わたしの一番かわいいところ」である。
調べたところ、リリースは2022年らしい。私は友人らが歌っているのを聞くまで存在を知らなかった。自分の流行への疎さに呆れるのは、いつものことだ。
カラオケで何度も聴くうちに、なんとなく歌詞を覚えてくる。その中毒性や覚えやすさも流行理由の一つだろう。
サビのあたまは、こんな歌詞だ。
わたしの一番、かわいいところに気付いてる
そんな君が一番すごいすごいよすごすぎる!
自分のかわいさに疑いをもたないあざとさと、こちらを褒めちぎることで承認欲求を満たしてくる感じにときめきをもたらされるなあ、などと思う。
しかし、ある日ふと思った。
かわいい「ところ」、つまり部分・場所的なかわいさよりも、瞬間的なかわいさの方が尊いのではないか、と。
部分・場所的なかわいさとは、例えばなんだろう。
「笑顔」「まるっこい目元」「明るく元気なところ」
とりあえず例として挙げてみると、こんな感じだろうか。
たしかに挙げることはできるが、これは自分の中で、相手を分類したり系統化したりした結果として生まれる回答であるように思う。
相手(曲を歌っている視点の人)からすると、かわいいところを伝えられるのは、承認を受け安心する材料として良いかもしれないが、かわいいの本質は果たしてそこにあるのだろうか。
普段なにか、特にヒトを含む生き物に対してかわいいと思うのは、そのかわいい「瞬間」を見たときではないかと思う。
笑顔を見て、かわいいと思う。素敵な景色に感動して飛び出していく無邪気な様を見た瞬間に、かわいいと思う。
そのかわいいと思う瞬間が多いことこそ、幸せをもたらしてくれると思う。
かわいい「ところ」と系統化してしまっては、例えば「笑顔はかわいいものだ」という前提が自分の中にできてしまう。
それよりも、かわいいと思うと同時にガッツポーズをしながら矢に貫かれるような感覚があるということに尊さを感じるのである。
その方がずっと感動が大きいと思ってしまうのだ。
しかし長年恋人関係にあったり夫婦であったりする人々は、どうしても系統化してしまうだろう。
したがって部分・場所的なかわいさに尊さを感じる感覚も一般的なものであるはずなのだ。
この立場にある人に、ぜひお話を伺いたいものである。
この瞬間的なかわいさについて、生き物に限定したのは、イラストやスイーツなどの生きていないものには、時間と共に起きる変化が無いからだ。
すると私の理論を当てはめた場合、生き物以外のかわいさは生き物のかわいさに勝てないことになる。そんなことがまかり通るだろうか。
変化を伴うキャラクターは除外するとしても、生き物でないもののかわいさに救われている人がたくさんいる以上、まかり通ってはならないと思う。
この方面の人にもお話を伺わねばならない。
侮るなかれ、流行りのアイドルソング。
むしろ流行しているものこそ、社会を表しているのだろうから。
「かわいい」は「美しい」などとは違って、絶対的ではない。
だからこそ、人によって感覚の違い、受け取り方の違いが大きいのではないかと思う。
こうして他方の感覚に理解を示せないと感じるたびに、ただ自分の未熟さを痛感するのである。