生きることと死ぬことについての、ふわふわした感覚の話
周囲の人間に話すと、変に重く捉えられたり、面倒なやつだと思われたりする議題だと分かっている。
したがって、珍しく雑感みたいなことを書く。
私はずっと、正確には高校生くらいから、「いつ死んでもいい」と思っていた。
例えば、大学受験に合格した瞬間でも、授業を受けているなんでもないときでも、重大な失敗に気付いて絶望したときでもよい。
なぜなら、その先の人生に喜ばしいことがあったとしても、生きている限り辛いことからは避けられない。自分にはさほど生きている価値もないし、辛いことを今後も味わい続けるのは嫌だから、という理由である。
死に思いをはせるようになったのは、中学生の頃だったと思う。
修学旅行の帰りの飛行機の中で、「この飛行機が墜落すれば、人生が最高に楽しかったという状態で死ねるのに」と思った。
辛いことがあったときに、安易に「死にたい」と思うようになったのは、なぜだったか分からない。ただ、その言葉がよく浮かぶようになっていった。
まだ「いつ死んでもいい」という考えに至る前の高校生時代、ある二次創作小説でこんな言葉に出会った。
「死ぬのがめんどくさいから、生きているだけ。生きることが死ぬことよりめんどくさくなったら死んじゃうよ。」
ニュアンスなので、正確な文章は分からない。また元の作品も、もう見つけることはできない。しかし、衝撃的な記憶として残っている。
「死にたい」と思いながら、実際に自殺するには至らない。痛いのも苦しいのも嫌だからだ。この痛みや苦しみに対する嫌悪が「死ぬことのめんどくささ」だとすれば、これを「生きることのめんどくささ」が勝つ日がいつか来るのだろうな、と思った。
「いつ死んでもいい」と思うようになったきっかけも、よく覚えていない。
ただ一つあるのは、高校時代のいっとき、「死にたい」ではなく「消えたい」と思っていたときがあったことだ。
あとになってからSNSで同じような投稿を見かけ、多くの共感を呼んでいた。
この投稿では、「消えたい」の方が強い抑うつ状態にあるとされていた。
そうか、私はそんなに辛かったんだな、と今は他人事のように思う。きっかけもあれだったのかな、と思うが、やはりよくわからないのである。
大学生になってからも、「いつ死んでもいい」の思考は変わらない。
でもやはり痛みや苦しみは嫌で、よく、急にどこかからスナイパーに撃たれて即死する妄想をするようになった。
脳天を吹き飛ばされて即死すれば、痛みも苦しみも無いかな、という幻想である。
実際にはそんな訳ないと思う。
ただ、そんな感じの死ぬ妄想は、そのときによってかたちを変えつつ、思考回路のすぐ手の届く場所に常にあった。
最近、私にとって大きな転機があった。
「死にたい」にブレーキがかかるようになったのである。
きっかけは、観に行った舞台で、登場人物が死んだことだ。
そこでたまたま、「あ、寂しいな」と思ってしまった。
これまでもたくさんの、登場人物の死亡や現実での芸能人の訃報などを見聞きしてきた。生きる理由を説く文章にも触れて来た。それでも、全く心を揺さぶられることなどなかったのに、である。
その舞台の表現が極めて素晴らしかったのか、は分からない。ただ偶然、死ぬことは寂しいものだという感覚が、私のなかにおりてきたのだった。
以来、私の心はなんだかふわふわしている。
生きることに希望を見出した訳ではない。したがって、「生きたい!」という欲望は特にない。ただ、「死にたい」にはブレーキがかかる。
「生きたい」でも「死にたい」でもない狭間で浮遊しているのだ。
慣性の法則に従うように、ただ時間をすごしている感覚である。
「死にたい」に強いきっかけはなかった。
いじめにあったわけでも、毒親に育てられたわけでもない。
したがって「死にたい」を失うことにも、強い理由はなくて当然なのかもしれない。
ただ、思春期から大学生という人生において思想の重要な部分を占める段階でずっともっていた思考・感覚を手放すことになって、なんだか心もとない感じでいるのである。
ある私の同級生は、「死にたいと思ったことなんてない」と言った。
それを聞いて私は、そりゃあそういう人もいるよな、と感心した覚えがある。
しかし今、私はそれになっている。そして、特に幸せではない。
人生観の揺らぎ、もとい、浮遊。
私はこれから、どうやって生きていこうか。