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いつか迎える死のための(25)-金魚を殺したのは私だ-

4月27日(月)朝から気温が低めで雲の多い午前。午後から雨が降ってきた。久しぶりに暖房をつける。ゴールデンウィークの始まる週だけど、もうはっきり言って曜日感覚もゴミ出しの時くらいしか実感できない。毎朝、今日の予定をiPhoneに聞く。今日は午後にオンラインミーティングが2件。

雨になる前に、バルコニーに出しておいた小さな金魚鉢を家に入れる。

一匹しかいなくなってしまった。

もう一匹の大きめの赤い金魚とこの残った一匹を、この半年間大事に、とは言えないまでも毎日泳ぐ姿を愛でて育てていた。娘が近所の金魚屋さんから引き取ってきた二匹の小さな赤いペット。

先週のある朝。普段より多めの餌をあげた記憶がある。袋の中からざあっといつもより多くの量が水に入ってしまったのだ。特に気にせず、ごめん、入れすぎた、と思っただけだった。

夕方、もう一度金魚鉢を見ると、随分水が濁っていたことに気がついた。でもその時は、明日水替えるねと思ったくらいで、気にも留めていなかった。ここでこの瞬間に水を替えていたら。或いは今の状況ではなかったのだと、今更思う。ここがこの最後のターニングポイントだったのだ。

20時すぎに宅急便が来て玄関まで出た際、二匹ともが腹を上にして浮いていることに気がついた。死んでいる、と一瞬で思った。二匹ともが膨れた白い腹を水面に出して、そして茶色く薄汚れた水がその下に広がっていた。私は慌てて、洗面所で水を捨てる。焦って勢いよく傾けてしまったので、浮いていた一匹が洗面台に落ちてしまう。動かない魚。白い腹。この金魚に、娘はミルクちゃんと名付けていた。白い洗面台に落ちる赤い金魚のミルクちゃん。

もう一匹はというと、腹を上にした瀕死の状況ではあってもエラだけはまだ動いていた。まだ生きている。

水をあらかた替えて、この瀕死の一匹をそっと戻す。明日には死んでいるかもしれないと思いながら、そっと金魚鉢を戻す。白い腹を水面に見せ、エラだけが動く小さな赤い金魚。この生き残った一方を娘はイチゴちゃんと呼んでいた。ミルクちゃんはもうティッシュに包まれている。

ミルクちゃんを家の脇の花壇の隅に埋める。重々しい空気がさらに夜風を冷たく感じさせる。ーたかが魚ーそう思おうとすればするほど、この金魚を殺したのは自分だという責任感のなさと、虚無感が襲う。あの時、水が濁っていると思った時にすぐに替えていたら、ほんの数分の時間を作っておいたら、今はまた違う今だったのにと思う。この隔離生活の中で、明らかにこの二匹は私たち家族の同士的存在だったのだと、今更ながら思う。何も意思の疎通ができない、ただの魚だったのに。

重々しい気分のまま、次の日の朝になる。おそらくもう息絶えただろうと、もう一匹を確認する。いや、まだ生きていた。エラを動かしている。まだ腹は上を向いているが死んではいない。イチゴちゃんはまだ生きていた。

それから、もう2日。

イチゴちゃんは少しづつ回復していった。時々腹が上のまま泳ぐようになった。3日目にはとうとう、普段のとおりの金魚の姿になって水の中を動き周り、そして幾分スリムになっていた。膨れた腹が元に戻ったように見える。

ねえ、金魚って生命力高いの?

子供たちに聞いてみたけど、そんなの聞いたことないけどね、と軽く答えられるだけ。それでも私にとってみたら、金魚を殺したことには変わりないけれど、それでも何も看病もしていないけど、元気になったもう一方の姿をみるだけで何か許されたような気持ちになっているのだ。

失った一方と、取り戻した一方。

土の中に埋められた赤い金魚のことを、残されたもう一方はどんな風に思うのだろう。きっと何も知らず、ただこれまでと同じようにこの小さな世界の中で、私が与える餌を食べて、生命を全うしていくのだろう。

残された金魚を生かすも殺すも、私次第なのだということに気づく。

この小さな金魚と同じように、私も何かに自分の命を握られているのだろうか。瀕死の状態になったとき、私は何を思うのだろうか。

自分を殺すのは、そして後悔をするのだとしたら、きっとそれも自分のせいだ。このウイルスが蔓延した世界で自分を殺すも生かすも、自分なのかもしれない。そして生きていたとしても、それを肯定できなければ、死んでいると同じことなのだ。

日本の感染者数 13,452名。死者 377名。



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