いつか迎える死のための(24)-何かを失わなければ何かを得られない-
4月26日(日)快晴。素晴らしい青空の日曜。毎日何度も洗濯をし、大物も次々洗っているので、もう洗うものがないくらいだ。シーツを毎日洗える日がこんなにも穏やかで、でも心が晴れないものだったとは。
とても苦しい決断をした。今まで大事に大事にしていたものを手放すことにした。朝目覚めた時、そして晴れた空を見上げたとき、今日がその日にふさわしいと。
それはこの数年間いわば私の中心のようなもので、そしてそれがいつまでもこの手にあるものだと思っていた。
だけども、気がついてもいた。手放さないようにするために、見ないようにしていたことを。そして気がつかないフリをしていたことも。
体の奥深くまで入ったナイフを自分で引っ張り抜くような行為だった。かなりの出血があるし、それがいつ止まるか、今はまだわからない。流れる血が多すぎて、もしからしたら社会的に死ぬかもしれない。そんなことだ。会社も保たないかもしれないし、私は何かとんでもない立場になり後ろ指を刺されるかもしれない。
それでもなお、このナイフを抜くしか方法がなかったと思う。少しの痛みと大きな違和感を抱えたまま、何もないようにはきっと生きられなかった。
美学の問題なのだ。
例え死に絶えたとしても、自分に後ろ暗いことをしながら生きていくのはもう、いやなのだ。それがどんなに経済的に高い効果があろうと、どんなに楽に仕事ができようとも、私が私でなくなるような、そんな方法はもう無理だ。
誰かに生きながらえさせてもらうことでしかこの場所で立てないのなら、いっそそれを全て手放してしまおう。
晴れた空を見て、そして掌に続く言葉の列を見て、どうしてもそうせざるを得なかった。血が流れ、蒼白の顔をしてもなお、それを取りやめることができなかった。
世界が大きく変わっていくこの流れの中で、何かを手放さなければ、新しい何かが入ってくる余地がないのだとしたら、私はこの選択をいつか肯定できる日が来るのだと、今はそう信じたい。
何かを選ぶ時は、それがより困難なほうを。目に見えるものと見えないものなら、目に見えないものを。そしてより自分が美しいと思うことを。その選択が正しかったのだと、必ずいつか思える時が来る。そうすることで、私は強がって生きていく。
毎日のように命を落としていくこのウイルスの恐怖の中にいて、美しいものを手にいれたいと思う。そうしていくべきなんだ。
日本の感染者数 13,395名。死者 372名。
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