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いまの自分を作っている物語を書き出してみた

僕の友人が、糸井重里さんが手掛けた「ほぼ日」の「今日のダーリン」を読んで、「私は物語コンシャスなんだ」という連絡をくれた。

11月5日分の「今日のダーリン」に書かれているのだけれど、過去のものは読めないようで、糸井重里さんが書いた素敵な文章を全てメモしておけば良かったと今更になって後悔をしている・・

その内容はバブル時代に流行った言葉「ボディコン」について書かれていて。

当時、だれしもが当然のように「ボディ」にコンシャスしていたわけですが、「コンシャス」って概念はおもしろいなぁ、と。そのころから、ボディ以上に「コンシャス」の方に、注目をし続けているのであります。

そこから様々な「コンシャス」があるよね、という話が続いている。

例えばお笑い芸人の方は「お笑コンシャス」なわけで、アーティストの方々は「音楽コンシャス」というわけだ。

その「コンシャス」という概念の面白みについて、糸井重里さんが綴る言葉たちの全身からその「おもしろいなぁ」という感じが伝わってきて、ほっこりするのです。

僕自身のイロイロを思い返してみたときに、僕って何コンシャスなのだろう?と考えてみた。

僕の友人が言ったように、「物語」というのは一つ大きなキーワードのような気がしていて、思い返せば僕自身の中にたっくさんの物語が詰まっているのだ。

自分自身の中を覗いてみて、その中にあるひとつひとつの物語たちを取り出してみようと思う。暫しお付き合いをいただけると嬉しいものです。

壮大な「別の世界」への憧れ

昔、ジョアンという女性がいました。
彼女が書き綴った物語というのが、僕の記憶の中で一番古くて一番壮大な物語。

このジョアンという一人の女性が毎日、街の一角の喫茶店で、少しずつ物語を書き進めるというストーリーこそ、一つの壮大な物語なのだ。

ある街に、ジョアンという女性が住んでいた。
彼女は母親になったばかりで、幼い子どもを抱えつつ、父親はおらず。生活保護と住宅手当を受けて、貧しい生活を送る日々。
母親を病気で亡くし、父親はとっくに再婚をしていたため、本当に世界から孤立していってしまう。

その中で支えてくれたのは、子どもの頃から好きだった、物語を書くということ。
街の一角の喫茶店で、少しずつ物語を書き進める毎日。
小説を書くのは決まって深夜、子どもが寝静まってから。
その時間が至福だった。夢中になって、物語を書き進めていく。
夢中で書き進めたその長編小説を、ある出版社に送るが、それはそっけない断りの手紙とともに送り返されて来た。

原稿を何社に送っても、「子ども向けにこんな長編は売れない」と、断られ続ける日々。
何十社目も回った後の1年後。ある小さな出版社が契約を結んでくれた。
ジョアンの原稿を読んだ編集者の8歳の娘が、物語に夢中になったからだ。

パパ、これは他のどんなものよりもずっと素敵。

嬉しかった。街の喫茶店で夢中になって書いた小説を出版してもらえるなんて。

いかがだろうか。種明かしは上の文章を読んでからにしてほしい。

僕らの中には、実は奥深い方で共通の物語というものが存在していて、その共通の物語を持って人々は今の世界を生きているのだと思う。

間違いなく僕ら世代の共通の物語はハリー・ポッターだ。

初めて読んだのは僕が小学校2年生の時。

第1巻である「賢者の石」が世界で発売されたのが1997年、日本語版が出版されたのが1999年の12月。僕が7歳になる年だ。

きっかけは街の本屋だったと思う。そう、僕は小学生の時は毎週親と一緒にデパートに行き、何時間でも本を読んでいられる子供だった。俗にいう本の虫というやつだ。

そこから僕の魔法界への旅が始まって、翌年(2000年)僕が小学3年生になる年には、完全にハリーポッターワールドに浸っていた。ちょうどその年に第2巻の『秘密の部屋』が出版されたことを覚えている。

そこから新しい巻が発売されるのを、毎回今か今かと待ち焦がれていて、すべてのハードカバーがボロボロになるまで読み込まれて今も実家に残っている。

僕が小学生の時、実はもう一つの世界に引き込まれていたのですが、それが「Darren Shan」というヴァンパイアの世界。

当時小学生くらいの人たちでないと、この話は知らないかもしれない。

魔法界にいくハリーポッターの世界とかぶるストーリー設定も多いのですが、ダレンシャンは「友人を救うため、バンパイアになる選択をする」というところから物語が始まります。

第1巻の発売が2000年となっているので、僕が小学3〜4年生くらいのころに読んでいたのでしょうね。

物語の向こう側への憧れ

少し年代は飛ぶのですが、「別の世界への憧れ」というところでいうと、僕が中学2年生くらいの時に初めて読んで、以来どっぷりとその世界に引き込まれているのが、村上春樹の物語。

最初に読んだのはもちろん「ノルウェイの森」です。

以前ブログの方にも書いたことがある。
(というか村上春樹氏の話は何度も書いてるよね。)

東京の大学生活を送る主人公・ワタナベと友人たちの物語。

人がどんどん死んでいく暗い話なのにも関わらず、僕はその「東京で大学生活を送る」という感じと、淡々と物語が進んでいく独特の世界観に惹かれていて、いま思い返せばあの時からそういう大学時代や「執筆の世界」というものにどこか憧れを抱いていたのかもしれない。

僕はどこか、この気だるい世界観が好きで、そして、僕の大学時代もこうであったらいいなと、中学生ながら僕の心の絵に強烈に刻まれている。
周りの社会からは切り離され、そして自分の中の奥の方にはどこに向けたらいいかわからないエネルギーのマグマみたいなものが眠っている。
自分自身はその確かな手触りはあるけれど、それを汲み出すには、時間や環境が違う。
だからこそ、そんな中で、東京の下町の煙ったい喫茶店で珈琲を飲みながら、本を読み、音楽を聴き、そして社会を見つめている。そんな感じ。
ノルウェイの森の「僕」は、僕自身の1度目の大学生活なのだ。
間違いなく村上春樹の物語の一つ一つは、今の僕を作る要素になっている。

『ノルウェイの森』だけではない。

ビートルズの音楽もそうだし、「1Q84」の執筆家の物語も好き。
もちろんデビュー作である「風の歌を聴け」も何度手に取ったか分からない。

彼の作品だけではなく、村上春樹という一人の人間の生き方の物語もまた、僕が大きな影響を受けている部分かもしれない。

10代の初恋の物語

ちょっと唐突だけれど、僕の初恋は中学時代だと思う。

僕の中学時代の憧れは、斎藤夏姫先生という1人の女性だった。

まだウブだった(と思う)僕の恋心は、一度も会ったことがない一人の女性で、その人は少しだけ僕より年上だった。

そこから僕は村山由佳さんが描く物語に夢中になった。

『おいしいコーヒーのいれ方』というシリーズがあって、もちろん全て買い揃えたし、恋愛の仕方はほとんど全てここで教わったと思う。

突然だけれど、僕は村山由佳さんが好きだ。
正確にいうと、村山由佳さんの書く恋愛小説の世界観が、大好きだ。
あのどこまでも真っ直ぐな気持ち。くすぐったいようなやりとり。何か大切な宝物を見るような純粋な目(絵が書いてあるわけではないけれど、僕の中で浮かんでくるやつ)。
ところどころにアンニュイな感じが漂っていて、それでいてつまらないわけではなくて、そんな日常の中から切り取って描く恋愛観がたまらない。エロすぎないし。

学校と部活がない日は(ある日も)毎日ブックオフに通って、手当たり次第に本を手に取って、ひとつひとつの物語に浸るように、貪るようにそれらを自分の中に取り込んでいったのだと思う。

何百、何千という物語たちが自分自身の中を通っていって、それらが今の僕を作っているのだ。

そんな時代を過ごせた10代の自分を、今でも羨ましく思う。

知の神秘に熱狂させられた

もうひとつ、中学時代の僕を来る日も来る日も熱狂させた、ひとつの物語があります。

言葉にしようのない、美しい瞬間でした。
数学界最大の超難問はどうやって解かれたのか?3世紀にわたって苦闘した天才数学者たちの挫折と栄光、証明に至るまでを描く感動の人間ドラマ。
17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが――。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動の数学ノンフィクション!

フェルマーの最終定理という、ひとつの数学の問題に生涯を賭した数学者たちの物語です。

僕はちょうどその頃、数学や物理学の研究に没頭できる人生がいいなと思っていた時代で、その背景と相まってもうそれは熱狂しました。

数学や物理学の専門書のみならず、こういう学者たちの物語を手当たり次第に読み耽って、その神秘にどんどん引き込まれていきました。僕が「大学は物理学科にいこう」と思ったのもちょうど中学3年生くらいの時でした。

僕が「研究者のような生活」に憧れて将来を思い描くようになったことが、結果的に研究者として実現することはなかったのですが、研究者のような生活をしたいという理想は今も変わらず残っていて、その延長線として「ものを書いて生きていきたい」という夢につながっているのだと思います。

世間では「博士の愛した数式」という、ちょっと変わった数学者の物語が騒がれていた時代ですね。数学者の日常が可愛らしく描かれています。

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思い憧れ、恋焦がれ、熱狂した物語たちが今、僕の中にたくさん詰まっていて、あの日思いを馳せた世界があって。
そしてその世界にリアルな僕自身も今、立てているような気がするのです。

人はどこかで、必ず物語を必要としている。

何故ならば古代何千年という歴史の中ですら、必ず人々は物語を求め、創り出してきたという事実が存在するからです。

物語というのは幾重にも重なって人々の共通の認識の中で形を変えつつ、深いところで僕らの中に存在し続ける。

だからこそ物語を創り出せる人たちはいつの時代も尊い存在であり、実は僕たち一人一人もまた、その物語の主人公であるのだと思うのです。

物語コンシャス。

いつまでも僕たちは物語を語り続けられる存在でありたい。

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