競争原理を超えて
自分が文章を書く時はだいたい寝られない時か、よほど書きたいことが頭にある時で、今回は前者と後者のミックス。最近書いていなかったのは疲れてすぐに寝られていたからだと思うんですけど、夏休みが明けて3週間目にさしあたって色々思うことも増えてきた。あとタイトルをいつもなら最後につけるけど今回はタイトル先行で話を書いています。
タイトルの「競争原理を超えて」は日本の数学者、教育学者の遠山啓という人が書いた本で、結構古い本なんですが、現代にも通ずるところがある本だなと思って大学院時代読んでいたんです。というのも研究で深い関わりがあった自由の森学園っていう学校の思想的な根幹を果たしているのがこの本で、タイトルの通り競争原理っていうものが教育においてどのような意味があってどれだけ子どもの心を歪めているか。っていうざっくり言うとそんな話なんです。当時大学院生の時に読んだ時はそれほど刺さらなかった、というと語弊があるかも何ですけど、おそらくそれは自分がそれまでの人生で厳しい競争に晒されていなかったから。まぁ浪人の一年だけはそうだったかもしれないけど、後の中学高校時代はのらりくらり自分の好きなことやって生きてきたので。そういう生い立ちがあって、大学入学以降の自分の思想としてもあまり競争を肯定的に捉えていない節がありました。まぁそこに打ち勝ったから大学に入れたって言うのもあるんですけど。ただ最近になってその意味を実感するというか、学校教育のシステムとしての「競争原理」について考え直したいと思ったわけです。
なんでこの話をするかと言えば、現在勤務している学校でこの競争原理が過度に働いているんじゃないかっていう風に感じていて、この本の存在を思い出した、っていう話です。あんまり詳しいことを言うつもりはないですが、大学付属の学校なので、成績=進路に直結します。そうすると成績を取らないと進学できないから、成績を取ることへの意識がとても強くなると言うことです。そうするといかに点数を取るのか、っていう所にしか着眼していなって、点数につながるもしくは成績に関わるものでなければ力を発揮しない、やる気がでない。それ以外はやらなくてもいい、という考えに陥っていく訳です。この辺が教員として働いていて引っかかるポイントでした。自分が学生の時にもこう言う生徒がいなかったわけではないですが、あまりにもその度合いが強く感じます。悲しいのはあくまでも「学校の期末試験」での点数の取り方だけが上手くなっていく点で、往往にして学校のテストはやったら点数が伸びる仕組みを取り入れている場合が多いため、そうするためにはどうしても暗記の部分が強くなります。そうすると生徒は点数を取るために必死に暗記をする羽目になります。暗記全てを否定するわけではないです。もちろん必要最低限覚えないとできないことはどの教科もありますが、あまりにも暗記の比重が大きくなって、思考する余地がなくなってしまう、ということです。したがっていわゆる受験勉強を課せられている全国の高校生諸君と比べるとうーーーん、って思ってしまいます。まぁ内部進学をすることだけを考えれば何も間違っていないんでしょうけど。
ただ教える側としてがどうしても引っかかってしまいます。授業をする上でもどうしても点数を取るための話になってしまいますし、それが希求されている以上はそれに応えようとも思います。ただそれ以外のことで自分が必要だと思ってやろうとすることも、「それテストに出るんですか?」の一言でやる、やらないの判断を下されてしまいます。それを成績に入る、と脅しをかけて無理やりやらせるのも何だかなあ、と思います。ここで自分が修士論文で引用したミシェルフーコーのパノプティコンの例を用いた従属した主体性を思い出します。彼らにとっての主体性はもはや成績や点数といったものに従属するしかなく、何かを学び取ろううとする自由な発想や”主体的”な行動を起こす力はもはや残されていないのです。私が見据えているのは大学以降です。おそらく多くの生徒は大学にいって挫けるんだろうなと思います。そんな人も何人も大学で見てきました。テストのためだけの勉強をして、点数をとる勉強が許されるのはせいぜい高校生、大学受験までの話で、大学に入った後どうするかは誰にも定められていません。自分で線路を決めて歩いていくしかないのです。それを長い長い大学生活で思い知った私にとっては何かできることはないか、と思いつつも、長い学校生活で身にしみてしまった思考を捨てることができずに、変われないまま大学生になっていくんだろうなと思います。
資本主義社会に生きている以上は「競争原理」から逃れることはできないと考えることもできます。重要なのはその度合いだと思うんですが、一般的に「良い」とされている学校において、むしろそういう学校では過度な競争によって生徒の間で明確な格差を生じさせてしまいます。進度別のクラス分け、といえば聞こえはいいかもしれませんが、「遅い」「できない」クラスに分類された生徒はそこから這い上がろうとするでしょうか。おそらく「できない自分」を内在化させることになり、その「できない」イメージを引きづり続けるでしょう。頑張って這い上がれ、という競争原理で勝ち続けてきた人の勝者の理論の押し付けかもしれません。そうできない人だっているんです。人間が集まりテストで点数を計測すれば、平均的に同じことはあり得ずに、かならず上位者と下位者に別れることになります。運良く上位者に勝ち残った者は今度は上位者の中で上位者になり続けるための努力をし続けなければなりません。その先には何があるんでしょうか。この考えで行けばきっと誰も幸せに慣れないんじゃないかと思ってしまいました。
最後に、自分が担当している学年は最初と最後の学年です。最初の学年はまだ染まりきっていないものの、徐々にその片鱗をみせる生徒がちらほらいます。一方で最後の学年はもう染まりきったように感じます。悲しいかな、内部進学という考えしか持てず、より高みを目指すことも他の大学に目を向けることができなくなってしまっています。彼らと顔を合わせるのももう数ヶ月ばかりでしかないですが、自分がこのタイミングで出会ったのは何かの縁だと思って、やれることを考えていきたいと思います。
余談ですけど、学校を研究する上でこうした学校のシステム的な部分への着眼が修論執筆時にはなかったはずなので、そこの要素を含めて授業が形成されているか、という考えがすごい重要なんじゃないかと備忘録的にメモ。頭使わないとどんどん頭悪くなるんだなーっていうのを最近感じているので、もうちっと文章を書く頻度を増やそうと思いました。