いなり寿司を食べた。
本は〝読む〟ことが大切であって、〝理解する〟ことは別の問題だと思うんだけど.
理解してなくても心に残ることってあるじゃない?
そんなに〝理解の提示〟を求めてどうすんのかね、と思う。そんなの個人の心の自由だよ。
📱👀ムハンマドもガブリエルに会っているのか…(フムフム)
「コーラン」(上中下)と「愛のモヤモヤ相談室」の本を買った。
戦争をやめてポケモンバトルしようぜ
たこ焼きは食べませんでした🐙
コーヒーを飲もうか考えている(それも書くのか_φ(・_・)
水の世は 波のまにまに 風のまに
ゆらりゆるりと 参りましょう
美輪明宏
😷ワイはだめやったな…
何も語らないようにしよう…
#わかっていてもabemaで無料見逃し配信中
や、ほんと絵は「すき」か「きらい」かで観たら良いと思う。
「自己受容」というのは最近の自分の中でも思っていたことだから、その過程である意味今までの自分の世界観からの脱構築が必要になるので、その過程が写し取られてあるのかなと思った。
(アレック・ソスの新作について)
今年の書き初めで「バラエティ」と書いたのもおおよそそうです。
_φ(・_・
結局のところグローバル化したデジタル社会が優れたAIを作り出してネットワークを広げた結果、総計算を行う形で、計算に落とし込めないアナログ(あなろぐ)が形としては残るのだと思う。
結構、独自に個人的に考えた事で、時々これは合ってるかな、という話をすると、「ですよね」って返されたりもするんだけど、笑、や、結構俺、珍しいこととか(自分なりの)意見の部分でもあったりもするので、そうね…、「ですよね」じゃないだろ笑、という部分はある(時々)
ほんま「ですよね」って何なんじゃあ🙃ワシは湧水か
なんて言うのかな、その人の理解の部分を瞬間的にその人自身の建前に変換しているんだよね。だから本当の意味で理解しているとは別だと思うんだよね…。
これはさ、出てきたサラダは食う、とか、出てきた水はのむ、とか、受動態な訳なんだからね…。
うーん。
映画作ってた時もそういう人が多かったんだよね。それだったらサラリーマンでいいんだよ、と思う。アーティストを目指す必要が無い。
更によく分からないのは「あなたとの出会いを作品にしようと思う」って作られた彫像が架空の人物みたいになってるんだよね。して無いやん、って。〝あなた〟はどこへ行ったんだ、と
#わかっていても
や、正面きって、(本人に)許可を取ってだよ?
それって、例えば絵だったら、あなたの顔を描かせてください、ってお願いして、抽象的肖像を描くようなものなんだ。
#わかっていても
や、自分がされて嫌だったから、というのも考えられるけど、それは無許可だった訳も大いにあると思う訳でさ…。
それだったら(抽象的に作るのだったら)無許可の方が自己の内面との対峙となってより成長になる(かも)と思うよ。
#わかっていても
だから甘く見れば(キャラクターの作る)作品がメタファー的に観てくれ、という事にはなるんだけどさ、それは説得力が無いと混乱する訳さ、画面としてはね。そういう観客への甘えに乗じて(人間の)理解の難しさってあるよね、みたいなのが腹立たしいんだよ。
#わかっていても
っていうか、一緒に過ごしてきた人の顔をあんなに(写真のように)デッサンしますか?
という話なんだ。
#わかっていても
スケッチなら分かるんだ、軽い形の。
#わかっていても
や、そもそものミスリードとして、作品化されることが本当に皆に理解出来て、本当にされた人にとって不利益なことなのか、という面があるんだよ。
僕は大体気付くけどね。
されても特に言わないよ。
#わかっていても
したらしたで、「ああ、回り道をしてるんだね」と思う。
自分を描く事以外に本当の意味での成長なんてあり得ない(んじゃないかな)と思っているから。
#わかっていても
「モナリザ」というのは例えばだけど、その当時のレオナルド・ダ・ヴィンチが自分の哲学と絵画技術、あらゆるものを詰め込んで描いたんだと思うよ。そうした「モナリザ」を描くことで〝自分を描く〟ことをしたんだと思う(かな)。
まあ、つまり、自分も書きながら気付いたけど、描くことや作ること、それが題材として他人であっても、それはおおよそ自分を作ることに等しいんだよ。だから、その作ったものにその人があまり現れていなければ、ああ逃げたんだなって思われるだけなんだと思う。
#わかっていても
もしくは道を彷徨っていたか。
_φ(・_・
大喜利みたいなものでさ、その問題に対して自分を見つけられなかったら、苦しんで行くんじゃないかな、美術(者?)というのは
つまり美術受験という美術大喜利精査試験で個性(自分)を失く(させ)した上で入学させて個性を出そうっていうのもおかしいよ。
カボチャを捨てる試験の後でカボチャを出せと言うようなものである。_φ(・_・
ピカソなんか無許可だったと思うよ。
だから俺はあんまりピカソって好きじゃ無いんだよ。成長して無いから。
人生を点という作品ひとつひとつを打って、それを線で結んで行くのがアーティストだと思っているから。
ただ上手かっただけということで時代が流れてそれが成長と思われたのなら、それは不理解に囲まれた証拠だと思う。
〝成長〟っていうのは言葉としては伸びる印象なんだけど、自分としては、より自分の内面を掘る、という感じなんですよね…。
_φ(・_・
なんていうのか、モーションを付けるというのか、例えば自分は輪っかだけ描きます、とか、例えば雲だけ描きますとか、そういう人も、飽きなきゃそれで良いんじゃない?と思ってるから。
「ゲルニカ」単体で観て、そこからコンテクストを引き出せる人間はゼロに等しいと思うよ。
うん。
つまり〝お墨付き〟の絵なんだと思う。
何だか、アニメーションシステム自体の矛盾を思うな…💧
僕は工事現場の人こそアーティストじゃないかと思う時がある。
残念なことに、こと美術に於いては、大喜利が出来るということと落語が出来るということは、違うという話です。(多分)
美術教育というのはアーティストのサラリーマン化でしょう(おおむね)
そういう意味では学校長(?)の像にペンキをぶっかけるのは意味があったのか
🤔
#わかっていても
まあ、全然ドラマでは描かれていない部分だけど
(美術教育における個性(や自分)の損失)
うーん、つまらん
いなり寿司を食べた。