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ナボコフ全短編「神々」を読みました。『今日、ぼくたちは「神々」』なんだという男は何を見ている?

こうしてぼくは、君のどんよりと曇った瞳の中に入っていく。

「ナボコフ全短編」ウラジミール・ナボコフ著 作品社 P50

「ぼく」が「君」の瞳のなかで見たできことがたんたんと描写されていく物語。
最初は「ぼく」が「君」の瞳のなかで見ている、ある街の描写が続き、ときおり「君」の表情についての語りが入る。
現実と幻想が混交されていくような描写は読者に、物語の立ち位置をつかま
せない。
「ぼくたちはバルコニーに出る」という記述から実際出たのかと思わせるが、読んでいくと下記のような描写に出会う。

君の目はまたしても闇に満たされた。君が何を思い出したのか、もちろんぼくにもわかった。ぼくたちの寝室の片隅には、聖像画の下に、色のついたゴムのボールがある。ときどきそれはテーブルからやわらかに悲しそうに落ち、そっと床の上を転がった。
ボールを聖像画の下の、元の場所に戻して、それから散歩にでも行こうか。

「ナボコフ全短編」ウラジミール・ナボコフ著 作品社 P51

「ぼく」は部屋から出ていなかった。「散歩にでも行こうか」とあるが、きっと部屋からは出てないだろう。

描写は現実を美しく描き、そして幻想的な描写もでてくる(「世界中の木はすべて、どこかに向かって旅をしている」「翼の生えた女」)。「ぼく」が見たように語るものだけでなく、「ぼく」が思い出を語り、「煙突掃除夫」のエピソードも語られる。
幻想的に描写は何かの暗喩なのだろうか?
それはわからないが、幻想的な情景に陶酔的な魅力を感じ引き込まれる。引き込まれるというか「何を意味しているのか?」という読者の思考が文章を読まさせようとする。
「いいかい、今日、ぼくたちは神々なんだ!」と語られる。タイトル「神々」との一致。「ぼく」が高い位置からものを見ているような印象をもたらせ、「神々」という言葉が幻想的な描写に説得力を与える。
その言葉「ぼく」の思考のゆがみを表現しているのか、それとも本当に神なのかもしれないと想像させて。

君は笑っている。君が笑うとき、ぼくは全世界を作り変えて、それが君を鏡のように映し出すようにしたいと思う。でも君の目の輝き瞬時に消えてしまう。君は熱っぽく、おそるおそるこんなことを言う。「よかったら、あそこに……行ってみない? どうかしら? 今日あそはきっとすてきよ。花盛りで……」

「ナボコフ全短編」ウラジミール・ナボコフ著 作品社 P53

「君」笑っていて、そして話してもいるのだが、本当に話しているのだろうか? 「ぼく」が「君」の言葉を想像しての記述ではなかろうかと思えてくる。何かを失ってしまった「君」を慰めるための語りではないだろうか? 同時に「僕」自身もなぐさめるための。
そして「僕」は「だって、君もぼくも神じゃないか……」と語る。再びの神。「ここから語りは勢いを増し、神のような全能感が横溢したものなっていく。

聞いてほしい、ぼくは一生走り続けたいんだ、声の限りに叫びながら。人生のすべてを、何ものにも縛られない一つの吠え声に――剣闘士を歓迎する群衆の声のように――してしまうのだ。
立ち止まって考えてはいけない。この絶叫を中断してはいけない。人生の歓喜を放出し、解き放つんだ。すべてのものが花を咲かせている。すべてのものが飛んでいる。なにもかもが叫び、自分の叫びに息をつまらせている。笑っている。走っている。ほどかれた髪の毛。それが人生のすべて。

「ナボコフ全短編」ウラジミール・ナボコフ著 作品社 P53

上記文章のあと「駱駝たちがサーカスから動物園につれていかれるところだ」と続く。描写として派手なものが描かれ、現実と幻想が混交したような描写が再び続く。
「パリで起こったことをこれから話してあげよう」。作中作のような語りが始まる。この話は「君」へ語るものでなく、「彼」へのものだった。

でも、ぼくは君の不安に打ち勝つことができない。どうして君の瞳はまたしても闇に満たされてしまったのだろう。いや、何も言わないでいいから。ぼくには何でもわかる。泣いてはいけない。あの子にはぼくのおとぎ話が聞こえている。いや、確かに、聞こえているはずだ。この話はそもそも彼に向けて語られたものだ。言葉に境界はない。どうか、わかってほし! 君はそんなにも悲しく、暗い目つきで僕を見る。ぼくは葬儀の後の夜を思い出す。

「ナボコフ全短編」ウラジミール・ナボコフ著 作品社 P57

「ぼく」と「君」は夫婦であり、明言されていないが子を亡くしたらしい。

「ぼく」は「君」への慰めへのつもりで語っているようではあるが、それは「君」へのためでなく自分自身のために語っていたようだ。

泣くことが、単純にできなかったとしても、どうか赦してほしい。ぼくには泣く代わりに歌い続け、どこかに向かって走り続け、どんな翼を通りすぎようともそれを引っつかむ。のっぽで、髪はぼさぼさのまま、額には日焼けの波。そんなぼくを赦してほしい。物事はそうあるべきなんだ。

「ナボコフ全短編」ウラジミール・ナボコフ著 作品社 P58

子を亡くしたという現実を受け入れられない男性。はたまた、それを受け入れたうえで、それをそれとも悲しいと思わず「自分をわかってくれ」と訴える男性。どちらとも読み取れる。
それに対して、受け入れたうえでその重さすべてを受け止められず、悲しみはあるが、現実を向いているであろう女性。

物語前半は「君」への慰めかと思わせるように始まり、中盤では「君」への想いよりも、自分たちは「神」へと語る「ぼく」の語りは現実逃避への進んでいるように見られる。「彼 = 子」へ語るはずだった話を鍵に現実へと導いていく語りの記述は鮮やかである。

饒舌に語る「ぼく」からは幻想の世界にとどまろうとする感じをうけ、ほぼなにも語らない「君」からは冷静さを感じられる。饒舌な「ぼく」との対比でそう感じるかもしれないが、「君」に対する描写しないことで(表情の描写しかない)、そう想像させるのですごい。

テーマは「男性」と「女性」の対比なのだろうか?
「男性」といっても、創作などの仕事を行う人はこういう思考をするのかもしれない(作者がこういうひとかわからないが)。
作者自身の「自分をわかってほしい」という気持ちから書かれた可能性もなきにしもあらずだね。

直接的な描写(女性からの男性への非難とか)なくても、こういうテーマを感じさせることができるんだね。幻想的な語りや、記述の順番(構成)から、そう思わせるように考えているのだろう。多分……。
テーマはよくあるものでは語りの仕方で新しい物として読めるね(随分前の作品だけれど)。作者にとっては語りの仕方のほうが作品を作るにあたって重要なテーマなのかもしれない。物語のテーマは語りを活かすという視点で採用したのかもしれない。

「ぼく」饒舌な声と、「君」のほぼない声の対立があるもかもしれない。

こうやって感想書くから考えて、こう思うのであって、初読ではなにがなんやらわからなかった……。


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